楽園の終焉 END OF PARADISE 2010-Ⅰ-52018年09月24日 16:47

その5

経験のみが事実と観える

激流1


この渦巻く流れのどこかに奴は待ち構えている。
人生の坩堝にも見えなく無かった。


長男が、5歳の頃、自分の背丈より小さい魚は小さいと言った。

46cmのイワナを目にして言った言葉である。
僅か5歳の経験値はいと小さき事実であるのと同様に、その後何年経ってもその経験がなければ、世界は広いという事実も解らぬまま歳をとってしまう。

残影を断ち切る為には、克服が必要なのであろう。

人生はその繰り返し。

それを脱出したものに与えられる称号は、何といったであろうか?

小さな人間の考えなど地球の塵にも満たない大きさ。

それでもまた人は考える。

そしてまた、出て行くのである。


神々の起源

名勝ドーナツ岩


名ポイントドーナツ岩
かつて多くのドラマを作った場所
今でも健在らしいが私はあまり良い思いをしたことがない。


そこは、旅行ガイドには“最後の楽園”と書いてある。

“神々の住む島”とも書いてある。

過去には大東亜共栄圏になりつつあった事もあった。

その長き歴史にあっても今でもまだ途上の島で有ることには間違いなさそうだ。

貧富の差や格差は、まだまだ2010年の我が国と比較してもあまりにも大きすぎる。

そしてバリビンドゥーがこのバリを支えているのは、事実であろう。

そこに他民族が異文化を押しつける意味も見出せないほど寛容にも見える。

神々の住む島とか楽園とかとても良い響きは、綺麗好きな日本人から見れば、既に言葉の一人歩きで
 私には雑踏と排気ガス、ゴミと腐臭が漂い、乞食、もの売り、ポン引きと、訳のわからぬ日本語を並べて勧誘する親父。
「ちょっと、フジヤマ、ヨシワラ、キノコ、味の素。」
全く持って知っている日本語を並べて、いるが意図するところは理解できる。
この親父にほいほいとついて行く日本人は、全くの馬鹿か同等の人であろう。

ゴミというゴミはそこここらとも分別もなく散乱し、神々は寛容なのか、呆れているのか、解らないがこれが現実で、年端も行かぬ子供達の物乞いやベビーをその胸に抱いたまま物乞いする若い母親。
そこを、刺青と肌を露出した白人達が素通りする。
一見したところ、彼らにこの地を敬う気など毛頭ない雰囲気であって、日本人観光客の中にもそのような気もない人々が観察できる。
彼らの中にはバリの神々の守護はないのかもしれないが、それも許そうとするバリ人と環境と神々。

 我々の進行方向に白人の妊婦が、黒のタンクトップで近づいてきた。
その大きなお腹の部分には、それいっぱいにしどろおどろしい骸骨のプリントがしてあった。
少なからず我が国では、そんな妊婦さんを見たことが無かったので若干想定外ではあったが、それも小さな現実として受け入れる事にした。
でもその時とっさに思った事は、
「この生まれてくる子は骸骨好きになるのだろうか?」
という事であった。
 これが楽園と言うならば私は、行きたくない。
先進国の金持ちだけが行く所が楽園ならば、それが“最後の楽園“と言えるのか。
 失楽園そのものではないのか。
そう思っても、ゴミとその匂いは、地獄が同居しているかに思える。

そびえる崖を攻める


 神々が宿る島。

その一部をD社やS社だけの責任とは決して言えないが、番組の構成上から仕方ないので、それを非難する理由もなく、
綺麗で美しく、明るく、澄んだ、その大地と海と文化は、かなり偏った見方からできたものであり、それは釣り番組でも釣り雑誌でも語られる事はなく、観光ガイドでも語られる事は殆どない。
過去の悠久の歴史にバリが最後の楽園だったとしたら今は、2010年の楽園は終焉であろう。

ロウニン腹

お帰り頂く途中のロウニンアジ

ただそのほほ笑みと合掌の心は、単なるビジネスだけではないかもしれない、本質は神々が宿るところかもしれない。

それだけバリの神は寛容で偉大ですべてを受け入れる器があると言えるのかもしれない。


その6へつづく