Yellow fin in Tosa(黄色い聖地)08-12017年12月19日 06:22

Yellow fin in Tosa(黄色い聖地08

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 と安芸の士

春の風は清々しいと思っていたが、この黄砂と花粉にその言葉はお世辞にもほど遠い・・・春の雨のように・・・の風情にも欠けるのは多少なりとも最近の脅威国の影響も多少はあるであろう。

 Capt.N氏からのお話しは次の通りだった。

「巨カンパ、ええぞ。」
「電動のお客さんが、フロロ40号で電動(リール)をロックして飛ばしたけん・・・・・・。」
と連絡は頂いてはいたものの、決意が鈍るのは歳のせいにするには単なる言い訳にすぎない。
 そんな卯月も中頃になってから、漸く重たすぎる腰を上げたときには、黒潮はかなり接近していた。
「ジグ用意せよ!」
のお言葉に・・・ああ300g・・かあ・・・。
と声がでるのでは、少々トレーニング不足の私ではあったのだが・・果たしていかにと言ったところであろうか。
 昔とった杵柄というのもあまり通用しないのではなかろうか?

とは思ったりもするが、馬鹿は治らないと言う言葉は定説であろう。

 ただつれづれなるままに生きる我が身ならば、いくばかりか幸せな事か・・・・と考え込んでみても所詮凡夫には悟り得ないのではないか・・・。
 単なる生と死を見つめてみてもそれも凡夫、透明で雲の無い汚れも無いない透明な空気もあり得ない。
都会の風はますます心を蝕み、人口わずか2万と少しの小さな町にも悪夢の黄砂は訪れ、時々それが大半を占める。
 ああ、何所にサンクチュアリはあり得るのか、この東洋の先進国なのか。
 しばしば釣師 というものは外海を目指す。
そこには、新天地があると錯覚しているのかもしれない。
野生の本能なのか、はたまた煩悩故であろうか。
 敗戦した国にかつてここまで発展した国があったのであろうか。
そして、この国は強大な贅沢の酒池肉林の中にあって、人々の心を蝕む。
そんなどんよりと首を擡げた邪悪な空気の中に、ふと釣師が起き上がる。
聖者でもない、菩薩でもないのに、そんな事を考えても釣り人は釣師がせいぜいで、凡夫の不甲斐無さを噛みしめるのである。
 故郷の友人は博学であり、人の悟りが解る人なのか、多勢な邪悪にも少々逆らう骨がある。
それを4代前まではそれを「気骨な侍」といったがそれも真実は判らない。
 故郷の嘗ては遣唐使船を造船していた先祖達ではあったろうが、今の故郷はただの田舎町で、人口はわずか9000人程度らしい。
地方の過疎化と都市部とのギャップが同居する我が国に於いて、痛感するも打開策もなくただゴーストタウン化してしまうのか。

釣人の多くも高齢化なのであろうか、益々大手量産釣具メーカーの電動化、電動推進運動にもうんざりするが、目先の商売は得意であって、次世代への提案は殆ど無いのかどうか判らないが、彼らも霞を喰って生きる仙人を決して目指さず・・で答えははっきり存続であろう。
存続は、即ち今日の存続から・であるのか。

ますます愚かなことを考えても仕方の無いこと凡夫の悟。
土佐に向う。

土佐の空気は少しばかり軽く、一条家もそれをどこかで吸っていたに違いない。

ただ人を切るのが侍の仕事ではなく、侍るのが人生であって、現代にも気骨な男はいるのではないか?
と思ったりもするのである。
 相変わらずの土佐人気質の前には、少しばかりストレスも潰れかけてか怯えてはいるようだ。
目を紅めるの魚“のまだ顕在振りは、少し土佐のイヨ(魚)にはやはり歴史を生き抜いた証であろう。
 また北上を目指す鰹の季節でもある。
そして、またまた“いごっそう”と“はちきん”の街にやってきたのであるが、これだけ独自の感であれば、都会の歪んだ空気なんぞは関係ないかと思ったりもする。
 景気は悪いと皆さんはおっしゃっているが、そこは「おらんくの池」なのであったりする。

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その2へつづく