弓削和夫師範に捧ぐ-Tribute of Master Kazuo Yuge ― 2023年03月08日 11:00
Tribute of Master Kazuo Yuge
Master of Squid jig (EGI-ing the Great)
弓削和夫師範に捧ぐ
若き日の弓削和夫氏
チームソラロームのエース時代
誰でも若い時があり、勢いがある時もある
そんな時は、その後のことを誰も悟れないし悟ろうともしない・・・だから誰からも顧みられないのだろうか
2022年の夏の話
1970年代の音楽、とりわけ洋楽となるとLed ZeppelinかDeep Purpleというバンド名があがる人であれば、それはもう仲間です。中でも筆者は、後者のDeep PurpleやRainbowが好きです。音楽的嗜好となると人それぞれですが、その昔中学の先輩に言われたことが今でも忘れません。それは、下校時のことです。
ランドセルをしょってサクラ林前の上道路を下校中のことでした。すると中学に上がった私より2つ3つ先輩と会い帰宅道を一緒に歩いていた時のことです。
小学生の私に彼は、こう言いました。
「最近はどがな音楽ききょうんな?」
「はぁ?お前まだ歌謡なんかききょうんか?!」
「でぃーぷぱーぷるって知っとるか?」
「しらんです。」
「おまえ、ええかげんにせーよ。はーどろっくがいちばんええけんのう。」
「ましーんへっどのあるばむのはいうぇーすたー、すもーくおんざなんたらきけえよ。」
「しらんのかぁ!まだまだおこちゃまじゃのう~」
と概ねこのような会話でした。
そりゃそうでしょう。1070年代には、耳に入る音楽の選択枝なんてそうありません。情報もありません。音楽雑誌も買えません。流れてくるラジオか、カラーテレビから流れる歌謡なのか。父の乗るマツダのシャンテ360㏄から聞こえる演歌か。せいぜいデビューしたてのサザンからの勝手にシンドバットか、ロックなのかなんなのかも分らないゴダイゴのガンダーラを聞いて歌うのが精いっぱいで、学校に行けば、キャンディーズの下敷きがええか、それともピンクレディーの下敷きがええか。ラン、スー、ミキのどれがええんか?いやミーなんかケーなんか、そんな議論しかない子供にロックだのはたまたハードロックだの深紫だのを英語で言えって。土台無理な話です。その早口の英語の曲を聞けぇ!など、もうそれは無理難題な話です。ロックでも、ハードロックなのです。長髪にベルボトムのジーンズなのです。理解不能です。当時安いからこうてきたと母親が私にあてがったベルボトムのジーンズを履いていると、不良と呼ばれました。これも子供には理解しがたいことです。ロックなど不良の音楽だったと言われたりしました。ロックだかハードロックだかさっぱり解りません。当時の多くの小学生は、英語など全く意味不明です。それ以前の私が生まれた時代のわずか25年前は、呉港からあの戦艦達が決死の突撃をしていたのです。英語やその文化など鬼畜米英と言われたご時世です。時の流れはとても変わり易いです。特に近代の流れは特別な気がしたりします。
そのDeep PurpleというHard Rock bandでも特に黄金期と呼ばれるギタリストのRitchie Blackmore私が一番好きなギタリストです。ほぼリッチー節に洗脳され切った当時若者たちの末裔です。その流れで言えば、まさに今の心境は、MAYBE NEXT TIMEこれに尽きます。それと本題と何が関係あるのか?と多くの方は思うことでしょう。その頃、弓削さんはきっと大学でサッカーに勤しんでおられた頃だと思います。
理由は、私の心の中にありそれがまさに弓削和夫氏に捧げる私の曲はこれなのです。もし聞いたことがない方でご関心がありましたらこの曲を聞きながら一読くだされば幸いです。さらにという方は、CARRY ON...JONもお聞きくだされば幸いです。きっとわかる方は解って頂けると思います。
最高のギターを弓削さんに捧げたいですが、人間得て不得手がありまして、私にはその技量はありません。せいぜいその数十年昔のこと、釣竿のグリップ位置で弓削さんと試し投げのためだけに三重まで行ったことくらいでしょうか。その1インチの差に議論したものです。当時の私達の会社には、そこまで追求する社員など弓削さんと私を除くと一体誰がいたでしょうか。誰も存在していなかったと思います。なんとかテスターでさえそんな感じでした。それだけ弓削さんは素晴らしい釣りを極めようとした達人でした。当時の私は、ただの若造でしったかぶりした兄ちゃんだったとおもいます。若者は、自分を大きく見せたがるものでしょうか。
達人故でしょうか。ぶつかる最後は、その経営方針と釣りという情熱との確執でしょうか。そんな弓削さんを生涯宮本武蔵とは言いませんが、お抱え仕官ならぬ人でした。商売と釣りの本質とは、少し距離のあるものでしょうか。その時代の私達は、それは大きな隔たりであったように思えます。もしかすると今現在に於いても商売優先なのは変わらないことなのかもしれません。アプローチする方法が大きく変わりデジタル通信5Gスピードに変わったことで情報の伝達は、当時とは全く比較対象にならないほどですが、故に、達人の技はそう簡単に知られないという時代だった?のかもしれませんね。
ご隠居と弱小藩
その切れる刀とは
それは、私が2022年の夏にメバル釣りを友人としている時でした。
キャスト後のリフト&フォールからリトリーブしている手が止まり、竿が押さえ込まれました。それから合わせをいれて2,3回とリールを巻きとりますが、動きません。それから、何秒か経って一気に糸を出されました。なんだろう?
この鈍重な感触からジェット風な引き出し方はなんだろう?エイ?いやカス?でもなさそうです。しばらくしてそれが、軟体動物であることに気が付きました。
それで翌日のこと、そういえば弓削さんに連絡してみようと思い、久しぶりに電話をした時のことです。声は、若い頃よりだいぶしゃがれています。
「弓削さんお元気ですか?」
「ああ、なんとか元気やけどな、コロナで釣りも行けへんわ。」
「イカ釣りは?」
「もうイカもええかな、釣り過ぎや。」
「アオリ旨いですからね。」
「もういらん、喰い飽きたわぁ。」
「自分は、エギングとか今の流れは良く判らんのだけど、あの最近よくぴしぴしとリズム付けてやる人を良くみるんだけど、あれじゃないと釣れんのですか?」
「いいや、そんなことない。」
その答えは解っているもののついつい聞いてしまいます。
「なんでかと言うと昨晩イカを久し振りにつりました。まあ、偶然ですけどね。」
「ふーん、どれくらいあった?」
「胴長40くらいですかね。」
「それやったら2㎏はあるやろ?」
「あー締めて家で量ったら1.88㎏くらいでした。」
「痩せてんなぁ。」
「そうですか・・・・。」
「まあ、狙っていた訳ではないですからね。」
「メバルの道具に掛かりました。ちゃんと触腕に掛かってました。」
「ナイロン1号の4Lbです。」
「ふん、まあよくやんなぁ。」
「たまたまですよ。」
メバルの仕掛けに掛かったアオリ
偶然だが、4Lbではなかなかの時間がかかり、かつドラグも何度も出されてしまった
それからイカ釣りの話を10分くらいしましたが、先生はと言うと“もうええわ・・イカは・・・・”とおっしゃっておられました。それからサスペンドの釣がどうこう迄は聞きました。磯歩きは、最近あまりしていなくてかなりしんどいとか申されていました。あの情熱的な釣人生の先生も、かなり寂しく気概が減ったような気がしました。コロナ禍のその3年は、とても短い人生にとってはあらゆる支障をきたしたようです。コロナのばかやろう!と叫びたい気持です。それは、誰しも思うことですね。恐らく世界が停滞した3年間は、近年誰も経験したことのない悪夢のようでした。まさに人類への挑戦なのか警告なのか暗黒の数年でした。
〆て翌日下す
中骨は透明感がある綺麗さ?
だがそれは、ゴミになるだけなのか
「ほかになんか釣行ってんの?」
「コロナですからね、遠征は全く行っていません。」
「まあ、小物ばかりで、メバルとかムツとかニベとか・・・ナマズとか時々いびってますわ。」
「ふん。ナマズかあ。」
「ジタバグ縛りとかやってますけどね。」
「ふん。(笑)自分相変わらずやな。」
「まあ、どちらかというとクラッシックな方で。」
「ああ、そういやぁだいぶ若い頃やけどな、ビワコオオナマズよう釣ったわ。」
「ルアーは、クルセイダー12g~13gでええよ。」
(※ダイワクルセイダー:どちらかというとオークラっぽいクラッシックスプーン)
「あれ安いやろ、沢山ロストするさかい。」
「いや、今そこそこしますね、600円~とかするんじゃないですか?」
「え?!今そんなにすんの?」
まあ、弓削さんがそう驚くのも無理もない話です。初代クルセイダーは、まさしく欧米のあのルアーのコピー風よろしく、250円かそれ以下で売られていました。ましてや弓削さんがその釣りをやっていた40年前の1980年前後は、200円かそれ以下だったのかもしれません。中学生の私でさえ、この程度なら一度に2~3個買えました。しかし本物のオークラの方が気になりました。舶来スプーンは、国産の数倍していた時代です。
「S-系のベイトキャステングでいいですね。」
「ふんっ。相変わらずやな。」
と少し笑われました。弓削さんの呆れた感じと、まあいいでしょうという認められた感が伝わってきました。
「へえ、今度じゃあまた一緒に行きましょう。」
「水が減る11月頃がええな。」
「最近は、更に膝が痛とうてな、それまでに体重減らしして膝動くようにしとく・・・。」
それからかつて弓削さんが釣りまくったというポイントと、待ち合わせ場所など、具体的に話をしました。
「あの当時からを含めて業界人で未だ話をするのはついに自分(私)だけや・・・どうしとんのかもわからん・・ザウルス時代となるともっとおらん。」
流石に、昔の仕事仲間や、かつての釣友、後輩達から連絡はないようでした。もちろん、チームソラロームエース時代の人からも・・・・・・。今やチームソラロームという言葉さえ知らない人の方が多い時代です。
※つきまろでんせつ1
http://tukinoturisi.asablo.jp/blog/2020/10/17/9306750
孤高の天才といいたいところでしたが、私の知らない20年の間に沢山の釣り仲間や先輩が既に故人です。弓削さんとはほぼ25年ぶりに一緒に釣りをする約束をしました。まさか、それが最後の会話になるとは夢にも思っていませんでした。それは、私だけではなくそのご友人とお弟子さんたちの誰もがそうなのかもしれません。それだけ多くの人から惜しまれる釣人はそう多くはいないのですが弓削さんは、それだけ人と仲良くかつ尊敬されるような振る舞いをみせていたのでしょう。
当時の餌木はそのまま
恐らくここで今読んでおられる方の大半は、その名前である弓削和夫氏とくれば、エギの重鎮とかなんとか御大とかいろいろ言われて、エギングなる釣りの第一人者として知られておられるのではないでしょうか?
しかしながら、私の知る弓削さんはそうではないのです。といっても私が弓削さんと釣りをしたのは主に1994~1999年くらいの5年程度です。その5年の濃いお付き合いがメインになります。エギがどうこうとなってからの2000年行以降は、年1~2回程度でした。
1995年当時は、エギングなんて言われていなかったように思いますが一部では言われていたのかもしれません。
「イカ釣りいこ?」
「イカって・・・。」
「今から三重まで行こうな。」
「えっ・・・・。」
私がその時教えて頂いたのは、その日のパターンでデットスローなるイカ釣りでした。当然ながらその日も弓削さんばかり釣っていた気がします。エギを投げてイカ釣りって既に存在はしていましたが、それがまだまだ確立していない頃の話だったように思います。
私が見た弓削さん愛用するリールと言えば、当このTOURNAMENTSSだった
どちらかというと弓削さんとの釣行は、軟体動物よりも数多く行った釣りはトラウトでした。特にアマゴとイワナ、時に本流アマゴとか。それも毎週土曜は、ほぼほぼです。弓削さんから現場で多くを学びました。彼の凄いところは、その季節と情報をいち早く掴み、そのパターンを掴んで釣果に結びつけることでした。経験と実績を積んだ人だけが持ち得る多くの引き出しでした。
それまでの私の釣はといいますと、当時出てきたというシュガーミノーや、グレートハンデングミノー初期型のプラスチックでできたミノーでした。ミノーイングなんたらと言った釣り方が主力となってきていましたが、まだブレットンを主体としたスピナ―とスプーンの釣も並行して行っていました。それから更に遡る学生時代に至っては、ミノーと言えばラパラ以外は釣りになるレベルのものがほぼありません。DAIWAの偽物バルサミノーはかつかつ使えましたが、それでもかなりのアイチューンが必要でした。それだけで、ああダイワのルアーは、駄目だと思っている頃です。そのフィンランド製ラパラ5FかCD5それ以外は、主たるフランスのブレットンかアメリカのエバンスのハスルアーに頼っていた気がします。シェクスピアコンデックススプーン(のちのCotac社、正確にはシェクスピア興栄釣具だったようにおもいます。)当時も同級生で同じ研究室仲間であった現つり具やまだの店主と良く行ったものです。当然の話をすると彼はとても謙遜しますが、彼の方がイワナ釣は(も)、断然上手だったと思います。私が特に釣りが抜きんでて上手いとは思いませんでした。まあ今でも大したことはありませんが、この歳になっても一応釣りはスポーツであるならば単なる娯楽とは少し違うと考えてはいます。もちろん、このストレス社会の中での癒しの余暇を楽しむという点に於いては否定しませんし、今でもどちらかというと推奨はしています。余暇という時間は、とても貴重で大切ですからね。娯楽的要素の強いものが無くては、息抜きの時間が無くなってしまいますから。否定ではありません。余暇は、人間にとってとても必要なものです。
当時の弓削さんの愛用するSSは、日本製だが、筆者は、所有していませんでしたので、友人からかなり後になってからのタイランド製品をお借りした
US DAIWAでなんと昨年の2022年まで現役モデルだったのは、いかにこのリールが名作であったのかを物語っている
DAIWAといえばTOURNAMENT世代とPHANTOM世代
日本仕様の750SSは、1986年の発売らしい
弓削さんとDAIWA精工製リールは、日常の絵だったように思うがそれも経年で色褪せてくる
かつての弓削さんのお気に入りだった
Daiwa MARK OF PRECION
当時のダイワの自信が刻印されている
かつての弓削さんお気に入りのリールだった
DAIWAが誇るスーパーワイドオ主レーション機構
ACME KASTMASTER&HALCO TWISTY
アクメとハルコ
オーストラリアのハルコツイスティーは、弓削さんのお気に入りの一つだった
当時購入したまま未開封のものが残っていたが、今は無きABU総代理店であったエビスフィッシングが輸入していた記憶がある
25年以上経過してそのまま劣化したパッケージ
その渓流、本流トラウトのボトムを徹底的に意識した釣りは、弓削さんに教えて頂いたといっても過言ではありません。いやそうです。それも、当時でも比較的マニアなルアーのACME KASTMASTERとHALCO TWISTYの2種です。さて、トラウト無県に住んでの私はめっきり鱒族を追いかけることが無くなりましたが、現在このルアーの存在を知ってかつ活用しているトラウトマニアや名人と言われる人々の中にどれだけおられるでしょう。ほぼ居ないのではないかと思ったりもしてみます。これぞルアーという感じのどう見ても餌には見えない正にハードルアーの王道な感じです。これから魚が釣れるとは信じられないほどです。しかしながら、これで喰わすのはまさにルアーでの醍醐味に思えてなりません。もうしばらくスプーンの釣もしていませんのでめちゃくちゃ下手になっているとは思いますが、またあのスプーンやジグで釣ってスカッとしたいものです。
これも弓削マジックにかかれば生きた餌にしかならない
アメリカアクメ社のKASTMASTERはボトムから表層まで使い手ひとつでなんとでもなるルアーだった。
ふと思いだしたことは、そういえば良く昔使ったスプーンの一つであるTIMCOのLightning Wobblerってまだあるのかな?と調べてみたところ2023年現在廃盤になっていなかったのが凄いと思いました。今でもスプーンの良さを知って釣っている方が少なからずいるのだなと思った次第です。まあこの先のカストマスターなど使っている人は、かなりの物好きでしょうからね。
カストマスターによる釣りは、目から鱗でした。当時でさえ、どこの誰がカストマスターとハルコルアーを駆使して、トラウト攻略する人がいたでしょうか。当時は、ミノーイングなる釣りが流行し始めて定着しかかった頃でもあったので、出会う釣人の多くは、ミノーにこだわって釣っていると口をそろえて言ったものです。しかしながら、そのそもそもスプーンの釣は、ぼぼしていないかそれで釣るという感覚のない人が、ミノーへの拘りと言われても説得力には大変欠けていたように思えます。それは、ミノーイングでそれなりに有名になった人でもいくらか存在していました。そんな釣人を弓削さんは、言葉ではなく釣ってぎゃふんと言わせていました。これほど説得力のあることはありません。トラウトの弓削とはならなかったのは、単にそれで売り出す気が本人に全くないだけだったと思います。弓削さんのような本格的マルチアングラーは、しばしばその専門分野の方から疎まれることもありました。専門的にやっていて、弓削さんのようななんでもある一定以上の技術と実力を持った人が、目の前に存在していては専門的な人からは場がつり合わないこともあったでしょう。
弓削さんといえばブラウニーという人は、ほぼいないがこのアイデアも弓削さんだったと記憶している
かつての弓削さんお気に入りのルアーだった
もちろん、ミノーを用いた釣は、私も弓削さんも嫌いではありませんでした。どちらかというとそのミノーでの釣りは得意な方だとは思っていましたが、それも弓削さんを前にしては歯が立ちません。本流で銀毛アマゴを釣っていた時のことです。その鮎を飽食した見事な銀毛アマゴはサツキマスと言ってもいい感じのボリュームと風格がありました。明らかにアユを餌にその活性もかなり高いアマゴに弓削さんはブラウニーを駆使してキャッチします。
「これつかいーな」
と渡してくれたミノーは、シンキングリップレスでした。当時はリップレスでトラウトミノーなどほぼ存在していませんでした。当然私は、苦戦します。弓削さんは、そんな中でもやはり釣ります。お見事です。そんな弓削リップレスも今や形見になってしまいました。
左上から三番目のブラックバックのリップレスミノー
ボディのアルミは、弓削さんが吸った後のたばこの銀紙を使ったと聞いた
当時の私と弓削さんの勤務は、釣りなど娯楽、遊びに過ぎない、それが釣具メーカーであっても同じことでした。弓削さんが古株業界渡世人で経験豊富であったのとは対象に、異業種からの私にとって、それはとても衝撃でした。そんなこんなで釣りで休みと取ることなどあり得ないことです。そんな中でも弓削さんと私は、時間を惜しんで釣りをしました。そのエネルギーは、一回り以上も若い私でさえついていくのがようやっとでした。一体そのエネルギーはどこからくるのでしょうか?本人曰く、コーラらしいのですがそんなことはないでしょう。しかもコカコーラでないといけないらしいです。ここは、ある程度お付き合いのあった方ならお分かりでしょう。たまに飲む私は、ペプシが多かったように思えます。
とある日のいつもの渓流を一緒に上っていた時のこと、
「ああ、膝痛いねん。」
「なんでです?」
「若い頃スポーツでな。」
「なんのスポーツです?」
「ああ、サッカーや。」
「えぇ?弓削さんサッカーやってたんですか?」
「ああ、大学までな。」
「大学まで?専攻ってなんでしたん?」
「体育や。」
「まんまですねぇ~。」
「そうや。」
その時の弓削師範は、既に膝に爆弾を抱えていたようです。私よりも一回り以上も年上でしたが、えらそぶらない、おごらない、コーラを毎日飲まれている良き先輩でした。そして時間があると煙草。その弓削さんと仕事も共にやりました。その当時を話すととても長くなります。竿の調子や、特にグリップ位置ではリストの強い弓削さんとは意見が合わないことも多々ありましたが、弓削さんの方は、それはそれで私の意見を良く聞いてくれました。まさに年長の兄貴です。他の多くは辛いことも多かったのですが、弓削さんとの付き合いは、楽しい時間のひとつであったと思います。他は、割愛します。
毎週金曜となると、弓削さんと釣りに行きました。帰ってくるのは日曜の夜です。下手すると月曜になっていました。そのまますぐ寝てまた仕事ということも多々ありました。弓削さんの愛車である三菱のデリカ4WDグリーンは、弓削さん宜しく黒煙を上げながらもよくその主についていったものです。弓削さんはその口から煙を吐き、デリカも黒煙を吹いていました。弓削さんとコーラと煙。しかしなぜか下戸。この不思議な私との釣はしばらく続ききました。地図を頼りにマイナーな峠道も毎度のことながら夜中通過しました。LEDライトなどなく、ふつうのマンガン電池の電球ペンライトを片手に地図でナビゲートしたものです。とてもつらい夜中のドライブでしたが、無慈悲にも弓削さんは今どこやねん、はよしいなとと言われてしょっちゅうそのイライラを私にぶつけてきました。ああ、もう帰って寝たいと思ったことは何度あるでしょうか。今から考えるとナビがまだまだ普及していない時代のアナログな時代です。つり場も今ほど荒れてはいなかったと思います。
スラブスプーン下段左右
なんの変哲もない、かつ売れそうもない、一見だれでも作れそうな気がするスプーン(失礼)だが、どちらかというと今のスロージグの原型に近い感じではある
これを考えた旧BOMBER社は、やはり凄い
今では、オフショアと沖釣りは、同じ外洋であってもその釣り方で言い方も違っていますが、そのオフショアでの釣りも弓削さんともちろん同行していました。
夏のある日、三重でのシイラ釣りも衝撃でした。
当時は、シイラ釣りをPEラインでなんてまだない頃です。私はナイロン16Lbに愛機PENN SPINFISHER 4500SSと5500SSをと710Z。710については、カリカリと音をだしながら、その低速回転に手が忙しいのは必至でした。横で弓削さんに鼻で笑わられながらも、釣に勤しんでいました。ポッパーやミノーをガンガン引くと、そこそこ、それなりに釣れていましたがここでも弓削パターンは、炸裂します。
「これや。」
「ああ!ボーマー!」
それもです。恐らくみなさんが思い浮かべるなら、ボーマーのミノーLONG AかMagnumでしょう。しかし、先生は違っていました。なんとそれは、SLAB SPOONスラブスプーンです。昭和時代のOFT社のカタログには記載されていたようです。それでカタログばかり眺めていた私には記憶があります。(確認するとまだ現役で販売されているようです。)
「ええ!!スラブスプーンですか!」
「こうするねん。」
流石は、ルアーの特性も理解している上にアクションは完璧、思わずシイラが口を使います。この時も驚きでした。流石バスで磨いただけのことはありました。その後すぐスラブスプーンを買ったのは言うまでもありません。
シイラは、今でも好きな釣の一つです。そのゲーム性の高さは、当時の道具で戦うととても楽しいものでした。当時の私の海での釣りはその殆どをPENNに頼りっきりでした。
日本式ジギングという名の新しい釣り
多くの日本製はジグフックの開発に本腰を入れ始める頃に
MUSTADは、既に存在していた
既に海外では、ジグを用いた釣りは存在していました。90年代それを特化した釣りが日本でも流行の兆しでした。しかしながら専用の道具は、あまりありませんでした。当時の竿は、良く折れたし、リールもほぼ専用のものなどありませんでした。もちろんジグもです。そんなジギングという釣りがまだ走りの頃で、試行錯誤している時代の話です。時代がPEラインという出現によってその釣りが開拓され始め、そのPEラインを意識した竿が製作されるようになると当然興味も湧いてきます。そんな頃のこと、弓削さんが「ああ、ブリ釣りにいくぞ」ということで同船しました。PEラインはヨツアミのパワーハンターが定価で売られていた時代です。とても高額でした。他にはサンラインのディープワンかゴーセンのメーターテクミーくらいでしょうか。
その日も掛かるのは弓削さんばかりです。隣で見ていても私には掛かりません。その日も竿頭であったことは言うまでもありませんでした。そんな天才的な玄人釣師を、当時は仕事で活かせてはもらえませんでした。釣りは娯楽ですので、仕事とは違うという主義、思想、コンセプトによるものでした。そんなフレームという枠の中のこうだろうという主観に満ちていた頃の勤務先でした。それは、ある程度似たり寄ったりなところもあった頃です。もちろんその先を行っているメーカーも存在していたかもしれませんが、私の周りにあるメーカーでは多少の差はあれども、時代的流れもあったでしょう。経営者の多くは、まだ高度成長期真っ盛りの時代を経験しその夢の跡を見ていた頃かと思います。その頃は、今よりかなり労働環境が悪かったようです。その流れは平成になっても幾分残っておりました。比較的古風な製造業に位置する釣具関係ならばなおさらその傾向はあったように思えます。もちろん一流と名がつくメーカーさんとではその考え方も幾分開きはあったように思えます。
DEEP
STINGER 10oz
国産ジグが無い頃には大変貴重な存在だった
ちょうどその頃の95年くらいから駿河湾でアブラソコムツ、バラムツ釣りが急に一大ブームになりました。ジギングというジャンルの幕開けと共に深海の荒くれものとの闘いにその近海でのお手軽さも手伝って一大ブームが巻き起こりました。10㎏サイズは小型、20㎏はまあまあ、30㎏も夢ではなく、40㎏も狙える。あわよくば50㎏もいけるんじゃない?という感じであったと思います。これとジギングブームは大きく重なりました。誰が一体初めたのかは、未だ解りませんが駿河湾が発祥のようです。私が始めた96年には、大いに賑わっていて、船を予約するにも必死です。中部関東の人はもちろん、それより遠い方も通っていた頃です。96年~99年頃までは、ちょっとした一大ブームでした。どなたか私が走りであると仰せの方は、ご一報願いたいと思います。
Gamakatsu SIWASH 5/0
オープン仕様は、ハンマーで叩いてアイを閉じる
この日も、弓削さんと同行です。移動は5時間を優に超えて既にへとへとです。私は、初めての釣でもちろん弓削さんも初めてです。水深120~200mの棚を探りながらジギングって・・・・一体なんだか判りません。ジグ単体に当時出たばかりのエコギアをシングルフックに掛けての釣です。専用のシングルフックなど無いので、ガマカツのオープンスイワッシュフックを装着します。餌は使わない、あくまでもジグでと始めます。船長は、サンマつけたら良く釣れると薦めてくれましたが、ジグで釣りたいと当時はそれで行いました。訳の分からないまま、ジグを落としてしゃくります。全然釣れません。そして棚ぼけしてしまいます。その時の私のタックルは当時出たばかりのジギングロッドにPENN SPINFISHER 6500SSだったように記憶しています。弓削さんは、当時国内には無かったDAIWA SEALINE SL50SHAだったとおもいますが、その記憶は曖昧です。今思えば弓削さんはこのリールを使いこなしていました。ジギングにはこのハイスピードがええんや。当時ギア比1:6.1の両軸リールは、そう存在していませんでした。まだまだオシアジガーなど存在さえしていなかったと思います。
そこへ弓削さんが、テンションフォールを行い探っていきます。
「よし、掛かった!」
「えっ?」
弓削さんの竿は、しっかりと曲がっています。
「この魚なんか面白い引きやな。」
ドラグもどんどん出て行きます。
そういいながらも安定のファイトで上げできました。
もうサイズも忘れてしまいましたが20㎏超えのバラムツではなかったかと思います。船長は、ふつうのサイズだと仰せでした。
思えばこの時も今の私より弓削さんの方が断然若い頃の話です。なんでもその走りというものは大変面白いものです。確率されて定着されてしまうと、魅力は半減してしまうのは私だけではなく、弓削さんもその一人だったと思います。その点弓削さんは、常に新しいことへのチャレンジャーでもありました。
1987年当時は、待望のNew
Editionだったらしい
科学は常に進歩するが生物はそう簡単には進化しない
話は少しばかり反れますが、学生当時のことです。水産生物化学の児玉正昭教授の授業を思い出しました。そのころ、あのマグロの枕木にされる全身大トロのアブラソコムツを研究室で食したというおまけ付きの話でよく覚えていました。私が確認したことはありませんが、マグロ船冷凍庫の一番下の段にアブラソコムツを敷いてその上にマグロを積んだそうです。それがまさか釣りの対象魚になるとは当時思いもよらなかったことです。その存在事態もその授業で初めてしりました。1080年代も後半になった頃です。いつもちゃちゃを入れてくる後輩に言われて思いだしました。折角なので、学生時代の教科書を引っ張り出してみました。恒星社厚生閣の水産食品学1987年3月初版です。現在は、ネットで簡単に検索できる環境にありますがここははるか昔の学生時代を思い出して読み返してみることにしました。当時でも3800円するこの本は、高額と言えば高額ですね。P142にワックスエステルの話が出ています。マッコウクジラに代表される歯鯨類の脂質もそうだし、アブラソコムツ(サットウ)、バラムツの他、ボラのカラスミにも含まれているが一回の摂取量が少ない為に下痢をすることは殆どないと記載されていました。ここに、バラムツを食するヒントのすべてが凝縮されているようです。とても美味しい魚ですが、このワックスエステルは、人間にとっては厄介なものです。
今現在は、ネットでいくらでも情報は得られますが当時の我入道漁師直伝の食し方を守れば、基本?下さない?かも?しれませんが私は、数度口にした程度です。美味しいか不味いかという個人的な主観からすると美味しい魚にはまちがいなさそうです。
恐怖のヘビージギング
それは、チーム弓削と魔王への挑戦
オリジナルCRIPPLED HRERRINGに装着されていた
筆者が、1990年代から2000年初頭にかけて使用していたジグは後方重心のスピードドロップを意識したジグが多かった
現在ほど多様化していなかったジグ群
前述の通りですが、それでも弓削さんがジギングをやっていたというイメージの湧く人は少ないかもしれませんが、いよいよそのヘビークラスへの話です。弓削さんがヘビークラスのジギングをするとは、アジ、メバル、アオリのイメージの方からすると不自然にも思えるのは当然のことです。何度も申しましたが、その実体験を私は弓削さんと行いました。まだまだ私は、体力には自信のあった頃です。誰でも若い時は、それ相応に体力があるものです。そして、何故か自信が湧いてくるのは私も同じでした。
それから、ジギングという新しい釣りのブーム前夜に弓削さんはその機動力を発揮します。弓削さんの人脈を頼り、次のターゲットの絞り込にはいりました。
ああだこうだと言いながらも狙うは、あいつしかいません。あいつって何?
と思うかもしれませんが、それでも日頃釣りたかった魚種の中から一番大型の選択でした。
参加メンバーは、弓削さんと私、後輩新人の哲とバスメインのバスマンM氏です。相変わらずのサラリーマン生活ではその前日も遅くまで仕事しました。それから夜出発となるとかなり辛いところですが、そこは若さで凌ぎます。まだまだ40前半の弓削さんもコーラ片手にとても元気です。デリカは幾分黒煙を上げていましたが、当時のそれは皆同じで、私の日産テラノもそれ相当の黒煙を上げていました。今では改良されてめっきり黒煙を上げる車も少なくなりましたが当時のRV車はディーゼルエンジン主体で、弓削さんのデリカも当然ガラガラとエンジン音を立てて走ったものです。
イシナギをジグで釣る。それは、今ではいろいろと試されてそれ相応の実績のある釣りになりましたが、まだ90年代はそんなマニアな釣は殆ど存在していなかったように思えます。もちろん、狙って獲るということに関してで、たまたま掛かったということを除いてです。何度も申しますが走りの頃はとても楽しいものです。
ここまで来るまでに4時間余りの運転をしてそのまま続行です。もちろん船酔い上等です。
水深は、80~120mの根を流す釣りです。期待に胸は膨らみながらの最初の投入です。当時の道具集めに関しては、当然竿は、なんとかなりました。リールも何とかします。弓削さんが目をつけていたSEALINE 50SHA。当時としては、これ一択と言っても過言ではなかったと思います。DAIWA精工が誇るグラファイトフレーム、ハイスピードギアのリールです。アメリカで鍛え抜かれて未だその後継機種が生き残っているだけのことはあります。当時のアンバーサダー7000等では、この釣にはとても不安です。ラインは、名古屋近辺で買ってきてもらうか通販か、地元の釣具屋さんになります。当時はなんとか地元の釣具屋さんでもヨツアミのパワーハンターを売っておりましたが、これが定価です。お店にとっては、まだいい商売ができていた時代の名残なのかもしれません。100mあたり当時の価格で4800円という価格はなかなかです。消耗品のラインでPEという存在がまだまだ高額で取引されていたことは、ある意味健全であったのかもしれません。それをめいいっぱい巻きます。300mです。ジグもほぼ出始めの日本製かアメリカ製になります。
この釣りは、当然ボトムを意識しての釣になります。ボトムコンタクトがあってからすぐにジギングを開始します。ボトムを叩くようにさぐりながら、その上10m程度を探り、また入れ直しです。船長は、実績のあるポイントであると言うけれど、なんせ初めての釣です。果してかかるのかどうかも判りません。そこは不安だらけの開始です。
すると・・・・・。
それは突然訪れます。
「うっ!ああああ、なにこれ?!!」
その声の方向を向くと、M氏がびっくり仰天しています。それを見た弓削さんが即
「それ魚やろ!」
私が「魚、サカナ‼」
「合わせて!溜めて!」
ところが本人は、ほぼパニックのようです。俗にいう“てんばってる”状態です。それが魚と言われても根掛かりのように動かないばかりか、どんどんリールスプールが逆回転していきます。これは、どうも本命のようです。そのままスプールは逆転し続けます。竿は、がっつりと伸されています。M氏は、何がなんだか分からないまま虚しくも糸は出ていきます。彼のひきつった顔をみるとそのすさまじさが伝わってきましたが、何もできていない様子です。そのあと、ふっと軽くなりました。その間が何分かは忘れてしまいましたが、明らかにフックアウトです。とても残念でしたが、致し方ありません。なんせ彼は、ジギングなんて初めてのことです。これで、魚は居ることが確実になりました。しかもそれが、狙ってジグで掛かることが判りました。ジギングで獲れるのかもしれない。そう思いました。リーダーはナイロン130Lbでした。当時としては、それ以上考えていませんでした。
再び船を流し直しします。
期待を胸に再度投入する私を横に、後輩哲が投入しています。当時出たばかりのヘビークラスのジギングロッドです。コンポジットモデルです。アメリカのスタンダップロッドのブランクを改良したものです。まだ富士工業からMNSGというスーパーオーシャンガイドが発売される前で、それはNHSGというSic搭載のスタンダードなガイドです。もちろんストリップは40サイズでその上が30、25、20、16~16TOPの構成です。それに哲は当時としては、受け売りのPENN SPINFISHER 8500ssをコンボしています。
「あああ!きっ、きたー!」
農業と急坂を自転車1時間かけて通った足腰は、結構な安定感と同時に一番若いこともあって、彼はしっかりと溜めています。そこは、何度も30㎏前後を相手にサットウで鍛えています。今度は、がっちりとフックアップしているようです。しかし、相手は相当なものです。いとも簡単に糸を出して行きます。これを何度も繰り返すと、哲は弱音を吐くようになりました。
その横で弓削さんが
「平野君、もうちょっとドラグ締まらんか?」
すかさず、SSのドラグノブを絞めてみます。
「もうカチカチです。これ以上締まらん!」
「もっとしまらんかなぁ~。」
ラインもキンキンに張っています。当時のPENNパワードラグが虚しく糸を出していきます。
それから哲と怪物の攻防は、20分以上も続きました。それでも根沿いを力強く泳いで全く浮こうとしません。哲は、顔を真っ赤にしながら、もう勘弁してくれという始末でした。それでもそれから10分更に持ちこたえます。それからさらに、助けてだの、嫌だの、疲れたなど、弱気な叫びは連発しますが耐えているようすでした。しかもきっちりと竿を曲げて耐えています。本人は、もういいと言い出しましたが、どうやら竿が起きているようです。
「よし、哲ガンガン巻け巻け~」
「なんか弱って来たかなぁ?」と弓削さんがおしゃいます。
確かに魚は、頭をこちらへ向けて来たのかどんどん浮いてくるではないですか。哲は、すかさず回収に移ります。何度もポンピングしておそらく10m以上は回収できています。勝負はついたかにみえましたが、ある程度浮くと、その魚は、また底へと走っていきました。哲の悲鳴はさらに絶望感を伴っているようです。40分近くを交代なしでしかも竿を絞り込んでのファイトは、私の師匠譲りです。魚は、弱っていませんでした。弓削さんもこのクラスは初めてのようでした。
「あっ!」
「切れた!」
まさかですが、お決まりのことばと共に竿はふっと起きていました。どれほど弓削さんと私は落胆したでしょうか。その姿をぜひとも見たかったのですがそれもまた夢に終わりました。
哲は、切れてホッとしたと言っていましたが、それが本音だったのかと思います。折れる心を私達の後押しで支えていたようです。
それは夢で終わりましたが、帰りはその話で持ち切りでした。家に着くころにはみなさんフラフラ、ぐでぐでになっていました。月曜の朝の仕事が待っていると思うとその夜は、とても憂鬱でした。それだけ拘束の長い行為は、心まで蝕むようでした。そんな私達には同じく月曜の朝礼が待っていました。
夏のはかなき夢物語です。
その後の休息時間も、昨日の話ばかりです。当時は携帯もガラのみです。当然スマホなど考えすら思わない頃です。携帯写メは、ほぼなんだか分からないほどぼやけています。デジカメも今三の10万画素とか20万画素とか言っている始末です。フィルム撮影がまだまだ主流の頃でした。当時の撮影をする人がいなかったため、この釣りは口頭でしか語ることができません。とても残念です。私は、そのガラ携さえ持っていませんでした。あの必死なM氏、暴力的なファイトに40分近くたたかった哲の様子も弓削さんと私とその時の当事者の脳裏にしか焼き付いていません。今のようにゴープロがあればなあ、そう思ったりもします。その当時のことを弓削さんもよく覚えておりました。この日のことは、あの世でいつかお会いした時また語りあいたいと思います。ジギングとその夢に明け暮れた若き日の私と今の私よりかなり若い弓削さんの話です。
人情に厚い人
人情に厚い人。それは、一概にどこの国の人とは言える訳ではありせんし何処にもどの国の人でも人情味のある人は存在します。弓削さんは、その点に於いてもその一人でした。私が密に関わりがあった数年の間にも様々なことがありましたが、それ以降もたまに連絡を取っていました。実に2002年以降は、恐らく私よりももっと密に関わりがあった方の方がより理解されていることと思います。私も西国の出でありますので、義理人情に厚いことがなにかは理解しているつもりです。首都圏ですと、ほぼあり得ないことなのかもしれませんが、それはそれで日本一という大都会の産物であるので、致し方ないことだと思ったりします。実に都心は、あらゆる地方から上京してごちゃまぜになった大都会ですので、地方の方言なども使える場所もありません。いつの間にか私も限りなく標準語に近くなってしまいました。
人情味のある弓削さんでしたが、しれっと
「これやるわ。」
と物を置いて行ったことが何度もあります。
長男が生まれた時も、夜突然来られ、
「おう、長男の誕生祝いや。」
と言って電気毛布を置いてさっと帰られました。つくづくその何気ない心意気やしぐさに、義理人情に厚い人だと実感しました。少し恥ずかしがりやなところもありました。時に、人情に厚く熱い人ほど感情も豊かなものです。それは、時によって理不尽な好意に出た人には、静かなる暴動を起こしたものです。心の暴動は、20年後も忘れず私にあの時のことを昨日のようにお話しされていました。人は、理不尽な境遇や立場に一旦置かれればそれを忘れることはなかなかできません。忘れることなど到底できないのが人の心です。同じ勤め人の苦労は、かつての野麦峠の女工さんの無念にも似ています。姥捨て山や野麦峠の話が実話なのにも凍り付きましたが、その精神は今でも亡霊の如く生きているようでした。それもさらっと流される人になりたい。そう思う日々ですがそれは、凡人にはあり得ず聖人にしかできないことなのかもしれません。
ABU&MITCHELL
「アブ?ああ、まぁ最近はつかわへんなぁ。」
それを聞いたのも、90年代の話です。当時その理由を聞いてみました。70年代は、確かにアブ製品を使っていたと言っておられましたが、バスプロ時代にその話が上がったそうです。それは、アブがスポンサーになってくれるという話だったそうです。当時からするとオリムピックが総代理店時代かと思いますが、弓削さんはお断りして後輩を紹介したそうです。その後輩は、その後アブリールで個人名まで記載されて販売になりました、弓削さんは既にアブから興味が無くなっていたころの話だったそうです。
かつての弓削さん70年代愛用品
弓削さんは、90年代TOURNAMENT WISKER SSをいつも使っていましたが、私が同行する際に使っていたのは、今では化石となっているコレクターアイテムのABU Cardinal33、44、廉価版と呼ばれる40そして、C3、C4という80年代のアウトスプール化したオリムピックが発売している日本製のもの。それとまだアメリカ製であったPENN SPINFISHER4300SS、そしてぎりぎりオフランス製がまだ幾分残っていたミッチェルです。当時は、308、310とかつて最も日本で人気を二分した小型モデルと私がシーバスで使っていた300も既に香港製がメインでした。USドルで30ドルしていなかったと思います。それは、もはや過去の栄光ともいえない残光の時代品でした。それでも、12~14LbのANDEを使ってシーバスとやらは上がったものです。そんな私を見てか見てなかったか、弓削さんがとある日309Princeと409をもってこられました。
「もうつかわへんから、やるわぁ。」
そう言って置いていかれました。
「こんなんつかうより、ダイワつかいーな。」
まさにその通りでしたが、それでも33を出しては糸ヨレヨレ、そのまま更に使うとたまにもわっともつれにもつれてごわっと塊になってトラブルを起こしていました。撚れ始めるとカットして撚れていない部分からまた使うということを繰り返して使っていました。もちろんナイロンラインです。ヨレヨレとなった糸は、すぐにライントラブルを起こしました。おまけに33のスプールは、樹脂でできており、爆発という表現のスプール前側半分が割れて欠落することで有名でした。
それは、私も1度ありました。まさに悪夢です。
弓削さんがバスプロ時代に使っていたミッチェル
“いらん”と言って置いていってくれた
当然、他に譲ることなどできない
MITCHELL 309Prince&409
弓削さんから頂いたハイロー
もちろん新品で頂いたものだが台紙はどこかへ行ってしまった
ABU社のHI-LOは、その生産国まできっちりと記載してある
私が子供の頃は、それが何の意味か理解できていなかった
HELIN FLATFISHの話をした時のことその後
弓削さんが持参されたのは、JENSENのKWIKFISHだったがこのときもしれっと
これも未使用のまま
弓削さんが持って来られるのは、モノだけではありませんでした。
鮎は、いつも生きたまま突然持ってこられました。アユも本流のそれは大きいけれど、ケミカル臭にどうしても食が進まないことを告げると、支流のものを持ってきてくれたりもしました。本流鮎は、その臭いを飛ばすのに苦労しました。何とも言えない臭いが鼻について食することができませんでした。それで
弓削さんを家に招いて天茶にしましたが、油で臭いを飛ばすことにしましたが、それにも限界がありました。今思えば、衣でコートすると飛びにくいのかもしれません。となると素揚げになってしまいます。それもやった記憶がありますが、やはり少しケミカル臭は残っていたようです。しかし支流でのアユは、とても美味しく頂けました。今思えば単純に釣りとしては、大型化している本流の方がとても引きが強く楽しかったことでしょう。食すということを考えると、それを少し削ってのことになりますが、弓削さんはリクエスト通り支流の美味しいアユを釣ってこられました。
弓削さんとうちの長男と家内の4人で食事もしたことが明日のようです。単身赴任は、コーラと弁当ばかりになったことでししょう。その頃からかどうかわかりませんが、弓削さんおコーラ太りは加速していったように思えます。
弓削さんは、アユ釣りもかなりの凄腕と先にも述べましたが、当然ながらみせかけだけのマルチアングラーではありませんでした。その釣り幅と技術は、感服の一言でした。私もある程度は幅広くやっているつもりではありますが、弓削さんに比べるとその半分にも満たないかもしれません。弓削さんのアユのイメージは、その昔を知る方の中では常識のようでした。もちろん私もアユ釣りは、何度も誘われましたが当時はなぜか全く関心のない釣りの一つでした。経験すればよかったと後で思ってもみますが、私にとっては弓削さんが誘ってくれた時が最大最後のチャンスだったように思います。ここでも後の後悔先に立たずになりました。
今現在、小刻みに細分化しているルアーフィッシングを一纏めにしてかつエギング言うに及ばず、投げ、フライ、へら、タナゴ、磯上物、チヌ、など実に幅広く深いものだったようです。まさに昭和の時代から平成の細分化は、バブル経済の後押しもあったかと思いますが弓削さんはその渦中を乗り越えてこられました。まだまだ、日本4大メーカーと言われていた時代には、ダイワ、シマノ、リョービ、マミヤ(オリムピック)が存在していた時代です。バブル経済の恩恵の上にそれぞれ成り立っていたのでしょうけれど、90年代も後半になると既に明暗が分かれ始めてきたのか現存するダイワ精工とシマノのこの2社の商品展開には勢いがあり、他の2社は後退失速気味に感じました。それでも今現在からは考えられないほど幕張メッセの会場を2つに分けてまでの勢いはその栄光の頂点から陰りに以降した時代であったのかもしれません。
時に昭和時代の一時、弓削さんが勤めていたフィシングサロン心斎橋ももう2015年に閉店したようでした。もう四半世紀以上も前になりますが、弓削さんと何度か足を運んだことがあります。時代は、その後量販店とネット通販の時代に移行していったのは誰もが知るところです。それから20年以上も経つと町の釣具屋さんと呼ばれるお店は、それらにことごとく駆逐されてしまい、もうかなり減っている時代になりました。そんな時代を弓削さんは、昭和、平成、令和とそのスピードは年齢と共にゆっくりになっていったかもしれませんが、その3時代を駆け足で釣りをしてきたようです。まさに弓削さんは、釣り業界の渡世人な感じでした。
戦い終わって
弓削和夫氏に捧ぐ
人は、人である限りその人生の終わりを迎えなければなりません。その人生もその人なりの時間と空間がありますがそれはまたまちまちで、誰一人として同じものはありません。長く生きたからといって、それが素晴らしい人生とは限りません。今現在の我が国では超高齢社会と言われる先進国の中でも特出している国の1つであることは誰もが周知のことです。長く生きて、長く裕福に暮らしたとしても果してその人生が幸福であったのかどうかを聞くと、大半の人がその命を終える直前までもっと生きたいと思うことでしょう。それは、その先の行方が全く分からないからからなのでしょうか?それとも、あの世でももしかしたら、地獄に行ってしまうかもしれないと思っているのでしょうか?また、あの世がないという人は、我が国にもある一定層存在するとは思いますが、そうなると永遠なる闇も感覚もなにもない。そう考えてしまうと、とても恐ろしく怖いことに思えます。死んだら終わりなのでその感覚という概念すらない。まさに永遠の闇です。いや闇という感覚も存在しないのです。永遠なる無と表現した方が良いのでしょうか。そうなると無からは、無しか生じないのでそれを考えても恐怖です。だから人は、死ぬその直前までそれを考えないようにしているのかもしれません。しかしながら、私はそう思いません。いや思いたくないのです。
生きることの証。即ち他人との縁と繋がりとその思い。それがその後も語られ、永年に残っているかもしれないと考えるとその証はあって欲しいものです。その語り合いが、あの世でもできたらいいな。そう思います。いや希望します。
弓削さんの人生は、弓削さんにしか分からないものですが、私と5年近く一緒に仕事をして、一緒にあちらこちらとそのモスグリーンのデリカ4WDで走り周りました。釣りと言っても、時に移動の方がはるかに長い場合も多々あり、途中で寝落ちしながらも走り続けました。愛車は軽油を満タンにして、お腹もコーラで満タンにして。まさに弓削さんは、走りつづけないと死んでしまう回遊魚のようでした。
きっとまたあの世で竿を一緒に振ることができる日があることを心より願います。そしてあの世でも相手になる魚が居て欲しいと思います。あぁ、でも極楽浄土と言うのは、そもそも殺生も争いもない平穏で平和が永遠に続くところでしたね。すると、釣なんて命を弄ぶ釣りなどは、行われていないかもしれませんね。それはそれでちょっと寂しい気がしますが、それは永遠なる幸福とは比較にならないのでそちらを優先しましょうか。
弓削さん、かつてのつたない若い後輩の私にとても親切かつ熱心にご指導して頂き本当にありがとうございました。
なんの恩返しもできませんでした。それを私の後輩に相続させることが恩返しと心得てこの世知辛い世の中をあと幾らかの残された時間を生きていきたいと思います。
もっと早くこれを書きあげるつもりではありましたが、それも1ヶ月以上が経ってしまいました。それもお詫びもうしあげます。
乱筆乱文大変失礼致します。
安らかにお眠りください。
2023年3月7日
釣竿工房
月 代表 平野 元紀拝
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