南方回帰Ⅳ-影と闇と残光2014-82022年10月26日 16:47

 毎日11月下旬並みの寒さが続きます。
巷では、梨から柿が多く出回るようになりました。そんなスーパーで見つけたとたん、これをカートに入れてしまいました。値段は確認していません。ロゴもなんとなく近くて買ってしまいましたが、当方とは全く関係ないです。また宣伝しているわけでもありませんし、未開封のままです。 
BLACKMOON
しかもお菓子です。なんとも言えません。
 BLACKMOONという竿は、当方が2002年の創業時にそのBlankの良さを実感するために製作しようと思ったいわば月竿のシンプルな作りの竿のシリーズでセミカスタムロッドシリーズでした。簡単に言ってしまえば、量産に近いシンプルな廉価版です。かと言って手を抜く訳でもありませんでした。しかしながら、このBLACK~といいながら結局要望が増えてそれはもう当初の製品コンセプトとは全く違うようになり、数年後基本廃止にしました。
 しかしながら、現在でもそのロゴデザインを使って欲しいという常連さんの依頼で製作する場合があります。もちろんロゴデザインを使用するだけでその内容は、フルカスタムです。ただしこれにもいろいろあり、創業当時の継続で一部輸出仕様があったりします。と本来のBLACKMOONとは異なりますが、形を変えて生きていると言えばそうなりますね。
 FULL CUTOMなんて用語も当方が初めてだと自負していますが、その後それが浸透していったのは驚きでした。こんな零細でも一般的にはともかく業界的には良く見られているのだなと感じます。他のことも多くありますが、いずれの機会にまた別途述べることもあるかもしれません。

 少々長くなりましたがその8へ進みます。

人は、その時には感心が薄くても、覚えておくことは案外後になって役にたつこともあるだろう。人の関心事など、その時々で変わり易いだろう。しかしながら残念に思うことは、感心がないからこそ忘れるどころか記憶にすらないことがとても多いということだろう。

再びキャストする

それは打ち込みと行った方がしっくりくるのだろうか?沖縄の釣人は、打ち込み釣りとは良く言ったものであるこれが本州だとぶっこみになるがこれはどのどちらでもない。

AVETPRO50W


AVET EXW50/2と同MX RAPTOR

 流れに沿って、再度キャストする。丁度専務との距離あと数メートルのところに着点したらしく、HXラプターのレバーをベイトポジションからさらに1ノッチ、2ノッチ、3ノッチと上げてテンションを確認する。ここは、日頃の自動車運転感覚と似てるようで、馴れてくるとある程度クラッチとブレーキ、シフトレバー等を目視しなくてもなんとなく操作できる感が働くのか、体で覚えると言う感覚がよみがえってくる。そこは、呑みこみの早い専務も恐らくそうなのであろう。右手をリールから離して、疲れが出て来始めたのか、腰を落とした。

ドラグフリー


レバーフリーポジション
ほぼ負荷は掛かっていないニュートラルな状態

ベイトポジション


ベイトポジション
餌を付けての位置だがライブベイトの大きさや潮の流れの速さで微調整する

レバードラグのなせる技である

ストライク

ストライクポジション
最初に設定したドラグ設定値
これがファイトする位置の基本となる

 

それから、潮に馴染みかけたと状況確認して一息つこうとするまさにその直前だった。

洋上のケミホタルが高速移動したのが解った。
その瞬間、親指でリールスプールを抑えていた親指が擦れる感じがした。
耳には、クリッカーの音がわずか1秒程度聞こえた。
「イソンボだ!!」
そう思わず声を発した。
親指をフレーム移動すると同時に右手親指でリールレバーをストライクポジションに一気に入れた。カリカリカリと言うノッチ音と共に左手をロッドのフォアグリップに持ち替えて右手をハンドルノブに掛けた。竿に高速で重い引きを感じる。腹筋に力を入れて、1回合わせを入れる。ハンドルを一度回してそれからまた一回アワセを入れる。ハンドルを一回、二回、三回と巻きとる。

1363-um9p-Green


「よし、ノッてる!」

思いきり腰を落として溜めると竿は、グンと曲がってそのまま起きないでいるが、一回、また一回とリールハンドルを回した。ナイロンラインが伸びきる感覚が解る。更に竿がドラグ設定値まで曲げ切ると、たまらずスプールが逆転して勢い良くクリッカーが鳴いた。その逆転は、逆転でもそれは高速逆転である。
 奴はやや右寄りの沖に向けて顔を向けているようである。ここは、“無酸素運動全開せよ!!”との指示が勝手にでている。大きく息を吐きながら堪えられるだけ堪えた。

 闇に響くリールの悲鳴。(クリッカー音)
しかし、短く鋭く鳴く様は、不思議な鳥の鳴き声にも聞こえるのが不思議だった。


単なる機械のバネ音なのに・・・。

まだまだ無酸素運動のまま行けそうで、出された分をショートポンピングで竿を起こすと、一回、また一回とハンドルを回せた。

それから、大きく息を吐く。

そして大きく吸う。

走る。

奴が走る。

まだまだ走る。

走り続けるようである。

そして、一旦止まった。

1363-UM9p-Green2


それから一進一退が5分を過ぎたその頃、当然ながら息切れが始まった。
このところの10年程は、いつも同じ感想なのだがいい加減この時になるまで自分に甘いと言うことが祟るのは仕方の無いこと。そこは諦めて、勝負と決め込む。そのベストな限界値と言うのを選択するしかないのだが、歳を重ねる毎に、そのファイト時間が短縮されるような気がした。

いつも息切れが増すと思うことがある。

それは、もう何十年も前のことなのに。
まだ14歳くらいの時のこと。当時中学校の体育の先生の言った言葉である。当時は、まだ1980年代前半の事なので、先生のビンタやげんこつは当たり前の時代で、一列に並べさせられた生徒をかたっ端から殴っているその先生を見た。でもそれが教育?なのだと思った。それがいびつな日教組教育と重複すると、まさに恐怖の学校だったのかもしれない。と同時に思わされた。そんな先生達が大嫌いだったように思える。何しろ、力には力で対抗しそうになるのはこれ当たり前のことで、それを権力によって押し付けることは、すなわちそれは暴動とかに発展するのだ。それが実現されればだがそれは、暴力革命なのである。
 それは更に小学生の頃に遡ると、もっとそれが恐怖であったがなんとなく上手くやって行けそうな気がしたのはなぜだろうか?怒鳴られるのも説教されるのも当たり前の頃で、手が飛んでくるのは日常茶飯時だったような気がする。吊るし上げ批判は、今ほど叩かれる事はなかったように思える。時代は大きく変化し続けるのだろうか。
 また1980年初頭の学校は、かなり荒れていた御時世だった。
いわゆる今現代で言う“しごき”や体罰を否定する環境には無かったと記憶している。それが、当時の先生達の言う理想的な日教組教育だったのかもしれないが、当時の私にはそもそも右とか左とかも解らない子供であったので、恐怖教育が当たり前に感じたがそれでもこのご時世の学校は、何処も荒れた時代であった。それを防御するのに学校側も必死だったのかもしれない。それを恐怖政治の練習か革命戦士と名の暴力革命児を生み出す練習なのかとも思ったが、まあ考え過ぎなのだろう・・・きっと。

 話が少し逸れてしまったがその体育の先生の言葉は、30数年以上も過ぎておっさんになった今でも明確に覚えている。体育の時間が来るたび毎にあのマラソンタイム計測が地獄に感じ、弁当が喉をなかなか通らなくて、緊張で死にそうなあのマラソンタイム計測の体育授業。先生は日○大出身であり、それが体育のスタンダードな教育かと思った。なんと成績表もそのタイムアップ度で評価されると言うまあ、当時の私なりに過酷な条件だった。当時は、嫌で仕方無かったが、今思えばそれさえもこれから起こり得る過酷な競争社会で生きる為の予行演習だったのかもしれないと思えた。世の中は、無慈悲で過酷な社会であると教わったかのように。さて、それを行う背景の言葉とは以下の内容だった。

「おまえら、今は嫌かもしれんけど、きっと将来感謝する時が来る!」
と言う言葉だった。

実際のところ私は、その先生の言った通りに感謝する事となった。
その後の人生に於いて何度もピンチを助けてくれたことへ繋がっていると思えた。先生のその言葉は、確かに間違っていなかったようだった。その苦痛が感謝に変わった時は、その時から10年と経っていない頃だった。
それは、と言うと。
 やる気を根本から削がれてしまう、ローキックやボディにめり込んで唸る事しかできなかった中段への突きがここぞと言う時に、もうひと踏ん張りできるかできないかは、当時の私には大きな違いだった。

 体罰も日常茶飯時な、あの頃の教育。昭和の時代は、すなわち戦後と言われた時代と、赤いお言葉満載と偏見に満ちた先生達のお言葉だったように思う。
それと同時進行で思い出すあの辛いマラソンの時間。おまけに、天皇批判と反戦教育の嵐の中の環境。皇族は、頭が悪いとまで堂々と授業で言いい放ち、自衛隊は、悪とまで言いきっていた社会科の先生のことまで思い出した。もうその先生方もとっくに定年退職されておられると思うが、御存命なのかさえ解らないのだが。今をどう生きているのかこんな時に思ったりするものだ。

しかし、今でもあの先生には、ある面感謝している。
日○大出の角刈メガネの体育教師。それは、直ぐに激怒する先生。
ついでにさらにリンクして思い出してしまった、最初から竹刀で脅してくる高校時代の体育の先生。彼は、校内にBMWで来る●士○大出身の同じく角刈の先生だった。いつもレイバンのサングラスをかけていた。教師と言う言葉から教員に移ろうとした時代だったのかもしれない。それでも当然だったと思っていたあの時代がもうかなり昔と言う言葉で終えようとしている。

息切れをすると、なんだかそれを思い出す。
すっかりおっさんで体力もないのに・・・。
その息切れがきっかけとなって思い出す、もうちょっとだけ、いや、もうその先までと頑張ろうとする自分。あと半歩だけ前に行こうとする自分だった。

「何故頑張ろうとするのか?」

「頑張らなくても良いのではないか?」

「1番で無くても2番じゃいけないのですか?」

「いまどき流行らない。」

と色々な言葉が頭の中から出てくる。

 ローキックが痛いのは、当たり前。それが、外側上方から振り下ろされるものなのか、あるいは内側から入ってくるものなのか。更に追加で、水月(みぞおち)へのヒザ蹴りで苦痛を倍増させた。
痛かったなあ。
とっても。


BLACKMOONの流れ
今でもイレギュラーに製作していることもあるBLACKMOONであるが当初とはコンセプトが違う
その9へつづく

コメント

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://tukinoturisi.asablo.jp/blog/2022/10/26/9536083/tb

※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。