楽園の終焉Ⅱ2011- 22019年10月02日 15:21

さて2019年も10月にはいりました。
旅にでも行きたい季節ですが、日中はまだまだ暑い日差しです。
一年の四季の訪れが、微妙にずれてきましたね。
10月に入ると言うのにツクツクボウシが鳴いたのにはびっくりしました。
夏はもうとっくに過ぎている筈なのですが。

それではその2です。

秋の鯵釣りと余暇(少年とマアジ)
狂気の中の冷静

後輩とロウニンアジとおもいで

後輩のトラベルギア風撮影。
思い出がぎっしり
一体どこに終着点があるのだろうか?

聖地巡礼

その海の向こうへ何があるのか。

八幡岬公園

勝浦八幡岬公園から撮影してみる。

冷静の中に狂気が存在するという。
日常の中にも冷静という名の怪物。

秋もそろそろという季節のある日

「お父さん、今日は鯵釣りにいこう?」
と末っ子が言う。
「ええーえっ…。」
「アジかあ…。」
「なんかめんどくさいなあ…。」

ああ、きたきた、彼の釣り行こうモード。
最近夕飯を済ませると、ゴロリと横になりたくなり、メタボ親父と呼ばれてかっこ悪いなどと言われる始末。
おまけに禿げと言う言葉は、ひじょうに余計である。
典型的なかっこ悪い親父の代表格なのだろうか。
そう子供に急かされて、いやいや親父は道具を引っ張り出しにかかった。

「面倒くさいから●●イングでいい?」

「いやだぁ、面白くない。」

素直で率直なご意見で●●イングは却下された。
子供にゲームの楽しむという事に関しての手段は、そう重要ではないらしい。

のべ竿に道糸、電気浮き、袖5号にハリス0.8号このコンビネーション。
釣りの基本中の基本である。
のべ竿は、共産主義経済大国製の700円程度だったか。
こののべ竿を見ていると、また昔のことが思い出された。(よく回想してすみません。)
 それは、35年以上も前に私が叔母の所で買ったのべ竿の事。
日本製の300円の竹継竿であったが、今はそのような仕事は何処を探しても日本にはおそらくないと思う。
もちろん並継。

 疲れたと言い訳らしくない言い訳を言いつつも"鯵釣りいこう"コールのプッシュに負けてとても重くなりすぎた腰を無理やりあげようとするも、心はヒケヒケであって。
鯵釣りかぁ…寒いし…疲れるなぁ……。
その後のしごう(下ろし作業)は、親父の仕事かぁ・・・・・・・。
ますます不満の親父で、ぐうたらと言ったらしょうがない。
一体何時からこんなにぐうたらになってしまったのか。
ジンタのしごうがそう面倒くさいと言うようになったのは。
早速とも言わないが、近所の餌屋さんに立ち寄り刺し餌のみを1パック購入する。
シンヨウさんでまた少し立ち話。
子供はこの時間はどうでもいい時間である。

「お父さんまだぁ?」

釣り場に一刻もつきたいわが子と付き合いモード最頂点の親父。

 確かに35年以上も前に行った父親と港で行ったママカリ(サッパ)、コイワシ(カタクチイワシ)、サバ釣りというのはものすごく面白かったのを良くいまだに覚えている。
それは昭和の40年台終わりから50年初頭の事である。(当時はグランドファミリアがまだ走っていました)
 その頃、叔母が“釣り具屋さん”という商いをしていた。
保育園の頃からだったからかなり前からと言う事になるが、それは40年くらいも前の話。
丁度入り口から右手側端に竹竿が並んでいた。
それがその300円~竹竿だったと記憶している。
左側には当時の流行である振り出し投げ竿にリールが付いたコンボ(セット)があった。
リールは今思うと叔母さんが適当に付けたものだと思う。
 そして糸付き。(糸も叔母さん達が巻いたに違いない)
このコンビは叔母さんのオリジナル?という事になる。
今でいえば店長お勧めのショップオリジナルコンボという事か。
 リールはオリムピック製かリョービ製であった。(現在はそのどちらも生産を辞めている。)
ロッドは日本製だったが、しかしはっきり言うとそう良い作りではなかった。
特にガイドは富士のセラミクスガイドが付いていたかもしれないが、案外とあっさりリングは飛んで無くなった。
多くはフレーム割れから中のリングが欠落というパターンだったと記憶しているがそれも私が児童と呼ばれる歳の頃なので定かではない。
 その割れたフレームのみで釣りをしたこともあった。

 店の正面奥には、オリムピックのリールがガラス戸の中にあり、シマノは出たばかりだったか何台か在庫していた。
そのまた近所には、小さな商店がいくつかあり、釣り場から子供の足で5分ほど歩いた処、叔母さんの店から1分少々の店、そこで“トビキリサイダー”を買った。
とても美味しかったのだが、飲み切れなかった。
トビキリサイダー・・・また飲みたいと、ふとたまに思うのだが最後に飲んだのは2011年から遡る事30年前くらいだったかもしれない。
そのまた近所には小さな井上ストアというのがあり、そのまた近所にはおばさんが商いしているお好み焼き屋。
天ぷら屋さんが2件ほどあった。
 (祖母の話によると井上ストアも魚屋そごうも今は廃業しているとの事である。)
好きだった鯨の串天は、確か20円から30円だったと思う。
クジラ肉には醤油味醂の甘い味がした。
鯨カツもあったがこちらの串の方が好きだった。

 当時通った小学校は、廃校となった呉市立鍋小学校。
実弟の話によれば、今から数年前には、廃校になっていたらしい。
 呉の港の潮風を受けて的場の丘高く・・・・・そびゆる我らの鍋小の・・・・・・学びの庭に日は来る。
という歌だけが遺産になりつつある。
校歌は、空と海のとの・・・・・で始まるのであるが母親もそれは良く知っている。
なにせ実母は、その小学校を戦中戦後通っていたからである。

と…いろいろと昔の事を考えながら、末っ子と着いた地元の港。
水汲み反転機能付きバケツと、のべ竿2本それに仕掛け入れと小さな簡易クーラーボックス。
もくもくと支度をして子供とのべ竿を1本ずつ手に取り、試合開始。
 近頃の刺し餌は、硬くて身落ちしにくいので若干の感動を覚えたが、すぐにそれが浸透圧調整で身を〆た事が解った。
おそらく、子供の頃、アナゴ釣りにサバを塩で〆て短冊にしたのと基本的には同じ理屈だろう。
 少し舌で舐めて見ると糖質な甘い感じであった。
電気浮が時々ギュンと下降すると、仁丹(小アジ)が釣れた。
時折20㎝クラスがかかると少し糸鳴りがして、締め込んでくれた。
流石に青物。
これが20kg30kg40kg50kgとなると・・・・・・。
容易に想像がついた。
だが今から35年前は、想像すらできない事であった。
がしかし当時は、それはそれでとても楽しかった。
既に35年以上も前にその興奮と感動を経験した私にとっては、その当時と同じ感動は今こそ無いが、その息子は体験中なのかもしれない。
そのジンタ釣りの経験は、後々になって彼の心の財産になるのであろう。
だが、それを持ち帰ってから下処理するのは、やはり大変という言葉に置き換えられるのであった。
今は岡田師匠方見の小出刃があるのでそれでサッサと下す事にしよう。
そう思うのであった。

「さあもうええかげんに帰るで。」(さあもういい加減に帰るよ。)

「うん。」

「ぶちさぶいけん、ホットでもこうてかえるか。」(ものすごく寒いのでホットドリングでも買って帰ろうか。)

田舎の町ともなると自販機の圧倒的勢力は、赤と白のツートンカラーのアメリカ最大の飲料メーカーのものが多い。
したがって選択枝はそう多くはない。
特にコーヒーとなるとTVCMとは裏腹に、個人的な嗜好性とは全く合わなかった。
息子は、車に乗るさまキャップを開けて、一口二口と口に運んだかと思うと直ぐに子供は寝ていた。(寝落ちしていた)
子供の電池が、既に底を尽いていたのだろう。
アイスボックスの中にはジンタが80匹ほど入っていた。
 明日の下ごしらえは親父の仕事である。
ジンタと言っても、下し作業が一番面倒なクラスなのは頂けなかった。

その3へとつづく