南方回帰Ⅴ‐2025あとがき ― 2026年05月09日 15:48
あとがき2024
南方回帰シリーズも無事Ⅴの再編を終えました。その日の遠征後の原稿から編集をし直してからもう9年が過ぎようとしています。相変わらず仕事の合間に取り組んでいますのでなかなか進みません。最近は、頭に入っていたことや思っていたことをすぐに忘れてしまうようになりました。特に時系列的なところは、ほぼ断片化しています。そして最も難しいのがその当時の最大の感動、心情、心境、興奮がとても薄れてくるところです。それは、動画など見て思い起こすと多少なりとも復帰できますが、その時の感じたことはやはりその半分かそれ以下な気がしております。昔は細かくメモとかをとっていましたが、それはやめて画像の日時と動画でその時系列的なズレを極力減らしております。しかしながら、それも怪しい部分が多々ありますがそれもご了承の上今後もお付き合いください。
この間にまた一人生程流れては行きましたが、やはり当時思っていたことと今ではかなり違うように思います。未来とはいうものの、たかが10年程度の近未来というものでさえ結局のところ誰にもわかりませんでした。こうして編集しなおして行くと、当時の筆者の心境、心情と今現在の心境、心情が少し違っていることに気が付きます。それは、当然と言えば当然のことかもしれません。このあと南方回帰Ⅵ-2018の編集をしなければなりませんが、そのⅥから次の遠征計画2019の後、ある日の時が暗黒に変わったようなコロナ禍が到来してきました。これが恐怖のどん底で、いつ平安がくるのか到底わからない中、遠征なんぞもっての他という状況になってしまいました。正に現代の黒死病の如くのようだった気がします。それで多くの方がお亡くなりになりました。その恐怖すら今は無かったように、国内外から人々が再び押し寄せ、インバウンドまくりの昨今です。当選ながらその間の南方回帰計画も3年以上の間頓挫してしまいました。今もコロナウイルスが絶滅した訳でもないのですがそれでも、漸く生活はまた元に戻ろうとしています。そんな、コロナ禍も過ぎようとしている最中にも大きな戦争が繰り広げられ、紛争も含めると混乱は続いています。世界情勢は、ますます混沌としています。我が国は、先の大戦後戦争というものを経験していないのは幸いですが、空想のお花畑だけは、あちらこちらに依然と残っているように思います。
少し国内の釣業界という極小な業界にスポットを当ててみますと、コロナ禍アウトドアブームに乗ったその勢いと、その終息後では少し違います。所謂コロナ禍需要の収束です。一気に不景気の波はこの趣味産業にも流れてきました。これには、大手2社でさえお手上げ状態です。90年代から主力となり始めた大型量販店の平日は、閑散としているようです。コロナ禍中は、週末ともなると満員御礼だったキャンプ場もかつての勢いはみられません。ましてや乱立していた施設型のそれも今はどうなのでしょう。昔も今もやはりブームというものは一過性のカンフル剤でしかないようです。それを知っていてもやはり同じ手法を使ってしまいます。目先の利益は、それだけ刺激的で必要不可欠なものなのかもしれません。そこに残されているのはいつもその遺影と言うべき廃墟とかであったりします。過去のバブルと少し違う点は、それにデジタル化と中古市場の盛隆です。バブル時代は、ほぼ使い捨て文化真っ盛りでちょっと古いものはゴミになっていました。正にバブルです。釣具も飛ぶように売れました。それがはじけるまでは。現在は、モノは溢れ返り有り余っています。中古屋さんにもりだくさんの在庫フロー状態です。ネット上にも少し検索すればこれは!というものも出てきます。
さらに極個人的なレベルとして本編に関することに話を戻します。それは、このシリーズにたまに出てくる“そば”のことです。それは、もうあえて言うまでもありませんが、そばと言っても所謂蕎麦粉を使ったお蕎麦ではありません。そばと名前こそついていますが、主原料は小麦粉です。今現在は、沖縄といえば“沖縄そば”ですっかりと定着していますが、前述したとおり私が師匠(釣りの)に御馳走になった90年代初めの当時の八重山そばの認知度は、まだまだ今のように世間一般的ではなかったと思います。沖縄そばでもそれは、八重山そばという八重山地方のそばになります。そこは、現在差別化されているようですが、八重山地方へ行った方でないとそのことはそうメジャーに知られていることではなさそうです。それから何十年も経ってからのこと、このそばが時々近くで食することがきるようになりました。それは、八重山そばではありませんが店主は、八重山出身の方です。最近は、そのお店もかなり有名になったのか何時も混むようになりました。混むようになるともう私が行かなくてもいいのかなと勝手に思ったりもします。そこには、和食で鍛えたベースのある店主の作る特性のスープの味とは全く正反対とも思えるあのルートビアもあります。これがもう歯磨き粉とも言われている味ですが、我々の祝杯の定番でした。沖縄と言えば、A&Wのルートビア、そしてうちの家族の誰も知らないと言って批難を受けている、紫、コンディショングリーン、喜屋武マリー&メデューサです。これは、解る人には判ります。もちろんそのそば屋の店主もそれは良くしっていることです。主に70年代の沖縄で青春を送られた方々の思い出に過ぎないことなのかもしれません。今でも紫のアルバム、インパクトはたまに聴いています。特にMAZE迷路は好きな曲です。そう書いていると、当時の曲がまた聞きたくもなってBGMにしようと再生してみます。ああ、これってやはりBGMとしてはちょっと。という感じになり、止めました。
地元でも愛される勝浦の沖縄そば
優しい味と風味
時々お店の前を通過すると、いつもそれなりにお客さんが居て、車が停まっています。また連休ともなると並ぶ人も見えるようになりました。こうなると、地元の人は二の足を踏んでしましますが、これは、この街の超推奨のラーメンの以外では、異例なことのように思えます。寂れきったこの街は、そのラーメンばかりになってしまいましたがそれも流行る店とそうでない店に分かれているようです。やはり、たまに一見でトライ的要素の強い食事よりも、負担の少ない優しい味を知らず知らずのうちに求めて行ってしまうことの裏付けにもなっているのかもしれません。そういう意味でもそろそろこのB級グルメにも更に進化が求められるような気がしてならないのは私だけでしょうか?
本編ではでてこなかったですが、今ならそれを書き足せそうです。
それは、その八重山そばをなんとか釣り場のベースキャンプに持ち込んでイソンボそばを作ってみました。これが理想どおりとはいきませんでしたがまあ仕方ないところもあります。また、毎回企画しては駄目というか企画倒れになってしまう“イソンボ草鞋カツ”や保存と味を両立できる“イソンボ西京漬”も西京みそまで持ち込んで迄はみましたが、遠征先では結局のところその時間に追われて未だ実現できていません。せいぜい唐揚げにするのがようやっとでした。それも極めてシンプルな塩のみの味付けです。他に料理といえば、刺身と焼き切り、カマ焼きくらいですがなんとかやりました。薬味らしい薬味もないので、持参したシークァ―サーが唯一のパンチです。当然食べきれませんので、その大半は島人へおすそわけということになります。当時は、この釣りを教えてくださった師匠もご健在でしたので師匠とその関係の方にも食して頂きました。ここでその評価がとても面白いのですが、一様にこれがあのマグロか?と言われたことです。出会った当時の師匠の評価も、イソマグロは美味しくないと言われていました。そこで、師匠に今までどうしていたのか?とお聞きしたことがあります。師匠にはその南方回帰市シリーズⅠから関わって頂いていましたが、その更に15年前の1990年初頭からこの釣りを一人で確立してこられた方です。始められたのがまだ師匠が40になるかならないかの頃だと思います。それは、東京から帰郷してすぐの頃だったと聞いています。道具はというと、ほぼ東京から持ち込んだらしいとのことでしたが、帰郷してからの師匠はどの道具の調達にも大変困っていたとのことでした。今現在のように大手ネット通販サイトも何もないほぼ100%アナログの世界です。せいぜいFAX送信程度ですが、多くの情報は、釣雑誌で通販を行っているところのみの時代です。電話で通販と言ってもアナログ電話でかつ、遠距離となるとまだまだ通信料金もそれなりにお高い時代のことです。本編にもでてくる、釣サンデー別冊巨魚フィッシングにも当時の通販先である、幾つかの専門店が広告を掲載しています。師匠は、そんな状況下の中でも、こつこつと積み上げてガンガン実績を上げていきました。私が参入した2002年頃は、既にその釣りが確立された頃のことです。筆者は、そこから少しずつその仕掛けをよりモダンなパーツに仕立て替えてきました。それも師匠が居なければここまでは当然辿りつけなかったとおもいます。今までも何度もお話ししたことですが、やはり最初にやったものが一番偉いということになります。業界や、他の売名行為または、自己顕示欲の強い人は、多少改良程度でも自分の名前をつけたがる傾向にあるのは、今も変わってはいませんが、筆者は師匠の名前を付けて流星(隆生)リグ改と銘々しています。時が変わって継承されたとしてもその名前が残って欲しいという願いからです。今となっては既に故人ですのでその前に継承できたことは幸いでした。大変几帳面な方でしたのでどこかにノートかメモはあったとおもうのですが、それもどこにあるのかは私には判りません。
こんな離島だと鮮魚は食べ放題と考える人が多いとは思いますが、案外新鮮な魚にありつけるのは極少数以外の人は毎日とは行かなかったようです。私が通い始めた2002年頃でさえ、とある婦人と会話を交わした時に美味しい魚は、“あの脂ののったサケ”と言っておられたのを思い出します。それは、荒巻でもなく、アラスカ産紅でもなく、チリ銀だったのです。そうチリ銀です。当時のチリ銀は内地のスーパーで厚切り80円とか言っていた時代の頃です。切り身から既に溶解したオレンジ色の脂が出ていたあのチリ銀です。当時は、まだ数人程、漁師さんから売店に入荷する魚もありましたのでそれが刺身用となれば即日無くなっていました。それも遠征後期ともなると、お亡くなりになったとかで無くなってしまいました。ここ5年以上も行っておりませんのでもしかしたら誰かがまた販売しているかもしれません。そんな食糧事情ですので、刺身で食べられる鮮魚はある面とても喜ばれました。そんな中で師匠は、そのイソマグロの処理や、他の魚の処理、料理まで追求はしてきませんでした。聞いてみると、仕方がない部分が多くありました。なんせ単独釣行がその殆どだったからです。そして持ち帰った後の処理や下ごしらえする人もおられませんでした。当然その釣りの理解者など居なかった、と申されていました。そんな師匠は、一日に20㎏台のイソマグロを麻袋へ入れて4~5往復したことがあると仰せでした。(たしか、最大7往復と聞いたと思います)これはやった方なら解りますが、とても40代いやそれより若くよほどの体力がある方でも至難の業です。貴重な蛋白源ですので、それは無駄にはしなかったようです。流石です。労働力という体力を武器にしての荒技でした。師匠にその後の魚のことについて聞いてみると、〆ることはしていなく、夏場もほぼ野締めです。野締めでは当然すぐに腐ってしまう状況ですから、いち早く処理しないといけないことになります。腐っては、食すことは当然できません。そうなると1本、1本運ばなくてはなりません。当然冬場なら多少纏めてということもできたでしょうが、2本で既に30~40㎏下手すると50㎏超えとなると、それはかなり危険な重労働です。また、冬といってもまず基本はマイナスになることはありません。10℃も切りません。また、当然悪路です。それで持ち帰った後は、冷凍庫に入れるという感じだったようです。それりゃあ、お世辞にも美味しいと思えないでしょう。また、料理といってもそれを解凍しての刺身か、味噌汁にぶっこむか、揚げてしまうかです。師匠がごはんを一緒にとお誘いを受けて仰せの時も、その時に釣ったオオメカマスやヨコスジフエダイ、アオチビキ等々ぶち込まれていました。ヒメフエフキはマース煮か、煮つけにされました。これは別格のような扱いでした。元々食に関しては食べることができればそれでいいという感じでした。それは他の人もおおむねそうでした。それは、この島々の多くの方が食糧確保についてはなかなか大変だったであろうことは容易に推測ができます。また、ここにでてくる監督と称するY先輩は、かの誰もが知る有名な離島の出身ですが、子供の頃は、それが口に入ればいい、食べることができれば味や鮮度は二の次であると仰せでした。それは、豊富な食材に恵まれている地域のそれとは全く違ったそうです。それはそうでしょう。それはつい最近の1970年代までそんな感じだったと仰せでした。それは、野人ことF先輩も同じでした。わさびこそ現在は簡単に入手できたそうですが、子供の頃となるともちろんそんなものはなく、辛子と醤油か酢味噌で食べたようです。師匠と野人先輩と3人でイソンボの刺身の食べた時のことです。師匠は、どうせ生臭いからと言って、醤油でディッピングして更に箸でぶつぶつと穴をあけながら、しばらく漬けて食べる感じでした。その醤油も主に九州産の甘い醤油でした。すかさず従兄でもあるその野人先輩が、
「それじゃあ魚の味が解らなくなるじゃあないか!」
と師匠に言っていました。
私も漬けに近いなぁと当時思いました。魚は、新鮮なものを頂く機会がなかったようです。そんな地元でもそう高評価ではない、どちらかと言うと不評なイソマグロを師匠の従兄である先輩(野人)と釣ってからは、現場で即〆、血抜き、腸だし、を素早く行い、なかなかの作業で水汲みバケツですべての血を洗い流しました。それから、しんどい思いをして持参したペット氷をお腹に入れて米袋に入れて運び一旦家へ帰って発泡スチロール箱にいれて氷をして、また現場に戻るという技をやってのけました。それから帰宅後、寝る前に解体作業に入りました。“ある程度のサクドリまでして終わり”という作業をやってのけました。正に野人パワーというか長年水産業に従事してきた先輩のなせる技です。20㎏前後程度では楽勝です。足の早いイソマグロですのでここまでやらないと美味しくは頂けないようです。特に大きければ大きいほど、冷やすということが困難になってくるからです。その点は、他のマグロ同様です。またイソマグロの場合は、どちらかと言うとマグロのようにある程度の長い熟成期間を経て旨味を増幅させて行くということはなさそうです。肉質もドリップが幾分多めです。そうして処理された、極上とはいえないかもしれませんが、かなりのクォリテイーで宴会に出された刺身が、イソマグロとは島の人も判らなかったようです。「これがあの、トカキンかぁ?」という反応です。釣人複数であってもなかなかここまでの処理を行うことはとても難しいことです。ましてや、遠征となると尚更それはそうです。これが渡船の磯となると更にそれは難しくなります。扱いも雑になるし、冷やすこともままなりません。ほぼ野締めか締めたとしても保存手段がほぼありません。(一部、即船が回収してくれるということもあるそうですが)
そもそもお金にならないとして、漁の餌になってしまったりもします。そんな、こんなでもある程度の処理をしたものは、美味しく頂けることが判りました。もちろん比較対象を本家本元のマグロ科に属するクロマグロやミナミマグロ、メバチマグロ等とすることは論外になります。あくまでもイソマグロという限りなく、マグロから少し遠いこのイソマグロを美味しく食べるということです。昨今では、ビンナガでさえそれなりの価値と評価を得てそれなりに水産重要魚種となっていますが、ビンナガは、その脂の乗り具合で価値が大きく変わる為、脂のない生ビンチョウよりも旨味があり美味しいイメージです。それはあくまでも個人的な意見はありますが、両方を食したものの意見はある程度重要かと思えないこともないでしょう。
そんなこんなで筆者とその月仲間は、ある面食べることに於いても貴重なイソマグロの刺身をその鮮度を落とすことなく食べることができていました。仮に1本でも上げてしまうと食は一気にイソマグロ一色になってしまいます。そんななか、1本の処理後のイソンボそばということになります。それも小型を含めて、4本プラス他魚ということもありましたのでそうなるとやはり冷凍庫必須になってしまいました。
いずれにせよ、ひと昔前の魚類図鑑や一部の釣人伝説のように不味いを連発されていた方の多くは、鮮度や保管、流通の問題からそう良い魚体には恵まれなかったのだろうと推察できます。また多くの釣人は、そのようが機会にもめぐり合えてなかったことでしょうか。なお、昨今では多くの料理人やその道のプロが参考にしているという“ぼうすコンニャク”こと藤原昌高さんのサイト市場魚貝類図鑑をご参考にしていただくと良いとおもいます。その味評価度は、五つ星になっております。この方の水産資源に対する付加価値評価は、ななかなかできることではないと思います。
将来は、このイソンボが多く捕獲できる国々で寿司ネタになっているかもしれませんね。そうなると、今度は乱獲の恐れも出てきて別の問題が発生しかねないとも限りません。是非とも管理型漁業を実践して頂たく思います。
そんなイソマグロですが、今のところ全国区で水産食品としては重要かつ、経済効果も小さい魚ですのでここ近年揉めに揉めていてなおかつ、その釣りもスピニングタックルでの限界を超えていて既に竿溜して正規のファイトすら極めて難しいクロマグロと比べてもそのトラブルの要因としてはかなり差があるようです。この差が、容易に遊漁、スポーツとしての釣の対象として成立する数少ないマグロに近いターゲットとなると思います。これは、釣人にとって幸いなことです。彼らを何本か獲ったところでまず揉めることがないのはとても大きいことです。近年は、関東でもメジャーとなりつつある、キハダに関しても今のところそう大きく揉めることも無く釣ができてはいますが、今後の動向によってはこれも制限が掛かってくる対象になりかねないと思います。いずれにせよ、我々釣人にとってイソマグロは大変貴重なターゲットには変わりありません。
一度命が終わるとそれは、死の色となる
どの生物も生きた色はやはり素晴らしい
解体作業前のイソンボ
遠征中企画で無理に揃えて実現させたイソンボそば
遠征中だとこれができる限界のようである。
ネギが入手できなかったとしてもせめて、乾燥アーサーでも買って持参すべきだった
前人未踏のイソンボそば、いやトカキンそばが適正な名前なのか?
それでもとても美味しかった
こうしてどんどん掘り下げて行くてうちに資料というか画像が出てきました。釣紀行は、月竿のその魚を釣るまでのストーリーが主たる目的でそれに多少の流れを書き足して単なる釣行記というものから少し幅を持たせた構成にするつもりで始めました。よって他の事柄は当時記載していないところが多々あります。そんな一つ、二つがこのあとがきの項の中でもイソマグロの活用を少しだけ記載してみましたが、その当時全く記載する気がなかったイソマグロを運ぶということでした。それは、南方回帰Ⅲ(2009)でおまけとして記載しても良かったところでしょうが、当時の私にはその気も無かったようです。資料を探してみると、残っていました。それも私が撮影したものではありません。お礼としてメールで頂いたものです。折角ですので序に書くことにしました。その南方回帰Ⅲでは、ここにでてくる野人先輩が40㎏程のイソンボを釣った時です。それは今の私よりも当然若い頃になります。当時新製品で出ていたダイワ精工の名品ソルティガZのエクスペディションが発売されていた頃です。まさにダイワのこのZシリーズは名品でした。当時のリールを撮影した筈なのですがそれが見当たりません。どこに保存したかわかりません。いまだにZを愛用されているユーザーを見るとスピニング最高峰に相応しいものであったように思います。そのⅢでは、幸いなことに何本ものイソンボをキャッチすることができたので、うち1本をなんとか空輸で送ることはできないかと四苦八苦して空輸で発送したことです。なんせ連携ができないと不可能な企画でした。しかもイソンボとなるとそんな魚体を入れる発泡箱も早々ありません。しかしながら、当時は売店にはある程度のサイズまで売られていたのです。最大のものを購入しましたが、それでも小さいイソンボも入れることができません。まあ、仕方ないので入るギリギリで尾の部分を半分切って折りたたんでなんとかかんとか入れました。お腹は既に出していますのでそこはかなり目減りして氷のスペースがあります。なんとかかんとか氷をいれて船が出ることも確認しましたので船に積み込み、ハブ港で運送会社に取に行くようにお願いしておきました。一応この時代となると、ガラケーがほぼ普及していましたので、港から携帯で受け取った旨を聞きました。これなら本日の航空便に間に合うとの力強い連絡を受けたことで、少しばかりホッとしました。あとは、到着後果してこの肉質が維持されているかどうかということになります。これもその翌日、確かに受け取ったと連絡がありほっとしました。多少魚を下せる方なのでお任せしました。聞く話ではファミリーとその友人知人でパーティーをしたらしいです。普通に美味しかったと連絡は帰宅後聞いたのですが、それがそれ以上のコメントがでてきませんでした。当然、友人知人ともなるとただのマグロパーティという企画になっていたらしく、確かにイソマグロであると伝えたのですが、本人はそんなことは全く聞いたこともないみたいで、あろうことか“磯から釣ったマグロである認識であった”とのことで少しがっかりもしましたが、それも仕方ありません。しかも、しかもです。その友人は、そんなデカい魚は下せないとのことだったので、更に知人の水産関係者に手伝って下したそうです。水産関係者なら間違いないとおもいきや、それは私の一方的な思いであったことは否めません。あろうことかその方は、それをキハダマグロと仰せでした。それでみなさんキハダパーティとなったようです。子供達は、手巻寿司でマグロがいっぱい食べられると喜んでいたそうなのでそれなりに感謝はされたようであります。思えば、筆者もイソマグロの手巻寿司など食したことはありません。一度はやってみたいです。とんだ勘違いになってしまったマグロになりましたが、それも私の落ち度といえば落ち度もあるとおもいます。また、突然頼まれて善意で引き受けて下さったその方にはやはり、感謝という言葉しかありません。いろんな事情もあったでしょう。そこを忘れてはいけないと思いました。ご家族の子供さんとその友人たちが美味しくい頂ましたといったお言葉を頂いただけでも感謝すべきなのだとおもいました。それで、自分を納得させました。いや納得するほかないでしょう。
我々現場を振り返ってみますと、中落ち丼すらやっていなかったと思います。それは、記憶にも画像にもなかったので恐らくやっていません。骨身をこそいだ記憶も無いので尚更です。それでも捨ててはいないので当日の昼あたりに中落ちとして皆で食したようです。
その後、ある機会に当時子供であった人にその当時のことを聞いてみました。
「まったくおぼえていません。」とのことでした。
まあそんなものです。
そんなこんなでしたが、ほぼ100%に近い数字で関東圏では流通することもないそんなイソマグロを知らなくても致し方ありません。しかも水産加工関係であってもさほど変わった魚類を扱うところ【店や業者さん】でなければ、マグロは恐らく、冷凍メバチ主体のキハダ、ビンナガあたり、たまに蓄養クロマグロかミナミマグロ、当時は無規制だった本メジとかではないでしょうか。それをイソマグロと認識または、調べる興味もなければ変わったキハダ程度にしか認識されないでしょう。まだ超特大ハガツオくらいに考えていたならば、ある程度の魚に触れたこともあるでしょうが、ハガツオも案外足が早い魚なのでそれも厳しいかもしれません。昨今では、スーパーの記載も昔と比較すると、ある程度正確またはそれに近い表示にされているのでそこは今現在だとあらかじめ調べているのだと思います。
最近近くのスーパーでも多彩な魚種を見かけるようになりました。しかし、私はそれの殆どを買ったことがありません。とても買う気になれないのが本音です。それでもこれは?!と思った時には手が伸びることもあります。本日は、ボラが売っていました。ボラは本来の江戸前では中の上ランクにあった人気魚と聞いていますが、現在は、その都市汚染以来、とても都会河川に接続しているボラを買う気になどなれません。これをカラスミにする方も増えた?とかで本当に消費者減の中それはそれで多様化しているのだなあと思います。時代は、水産物をそう摂取しないという我が海洋国家です。比較的肉食が増えた我が国では、この先は一体どうなるのか見てみたいです。しかしながら、漁獲高は限りなく減っていて、その価格もそれなりになり、近海物を購入して自分で下して料理するということもかなり減ったようです。いつの間にか未利用魚になってしまったものも多いでしょう。それは、とても残念ではありますがブロイラーという名のとても安価でほぼ骨なしの唐揚げは美味しいものです。それは否定できません。ブロイラーは、すでに人間様がその肉を食すように改良管理生産されていて、スーパーでは既にから揚げにするようになって販売されているのですからとても安価で便利でかつ市時間を割くことができない方にとっては大変助かります。その時間もない方には、すでに唐揚げになって販売されてそれなりの価格で販売されています、ブロイラー様々です。ちょっと意味合いは異なりますが、後輩とナマズ釣りでリリースして遊んで、帰りに夜間でも営業している大手外食チェーンの冷凍唐揚げ定食を食べている私も矛盾だらけです。そういえば、さらにちょっとずれてしまいますが、なんとか怪魚と称して、その前後にチキン南蛮とか良く聞きます。因みに、筆者も誘われて何度か合間に食べたことがありますが胃もたれします。
水産資源も他の畜肉と同様に養殖へとシフトしてきていますので将来は天然魚を捌いて食べるということは少なくなってくるかもしれませんね。
空輸後のイソマグロ
なんとかなりそうである
当時は、120万画素程度のデジカメ
サクドリした画像が送られてきた
結構な量になっている
手巻寿司パーティーらしいが筆者は参加していない
楽しそうでなによりでした
魚あるあるになってしまいますが、今現在のことなら後輩であるフィッシュナビの八鳥にでも送ればそれなりに魚のことは理解してくれて、なおかつ料理もそれなりにこなしていたのは間違いなさそうです。それも私が日ごろまったくやらない少しおしゃれな風に撮影してくれるかもしれません。しかしながら当時としては、お世話になった友人に送るということが最優先であったようにおもいますのでこの件はこれでよかったと思っています。それもタイミングでしょうかね。思わず当時のことを思い出して画像を探してみたということなのですが、当時のデジカメはやはり今現在よりもかなり画素数も性能も当然かなり劣っています。折角ですのでここでその当時送られてきたそのパーティー画像を添付することにしました。
祝杯のルートビア
歯磨き粉の味がすると言われて久しい
元々は、健康飲料としていたらしいが
お変わり自由と言われても
大変危険な食べ物です
千葉でいうマックス珈琲レベルの甘さ?
スーパーフライとサンデー
それと、本編ではイソマグロの貴重な現場の画像が揚げられないことも多いのです。今現在は、編集ソフトもあり、それもAIを使えば勝手に画像を修正しまくれたりします。それは、もはやリアルかそうでないか見分けがつかないくらい綺麗かつ精巧に編集できてしいます。そんな中でもできるだけそのまま使いたいということもあり、画像付きとはいえ読む側にはインパクトが少ないかもしれません。そこを言葉で表現できる人のことを文豪というらしいですが、私にはその器はありません。ここら辺が限界なのかもしれないと思っています。20数年の間地道に通ったこの場所も、今では普通に動画で晒されてしまうようになり、とても悲しくも悔しさ満載の心境ですがそれも諦めるしか今のところないようです。晒す側には、そんなことは全くおかまいなしのようです。最近ではそれでトラブルも起きているとのようです。現在においては、もはや秘境や幻の場所ということはまずあり得ない時代になりました。
2024年もあっという間に11月が過ぎて2025年へと移り行きます。一体この9年間もの間どんな生き方をしてどんなドラマを作って、どんな希望を見出してきたのでしょうか。そう考えると今も心の曇りはとれそうもありません。そしてその曇りを払拭するために旅に出たくなるのかもしれませんが、それも年々、刻々とその気持ちが薄れて行くのはなぜでしょうか。曇ったままで良いということなのでしょうか。それは、人生が朽ち果てるということと変わりないようにも思えます。
こうして編集の為にと再び撮影したAVETを目の前にすると、今もそこに存在している愛機とその戦歴を物語る傷跡が、昨日のことのようにイソマグロとの戦いが蘇ってきます。心躍り、大袈裟に言えば全力で戦ったことが体のどこかに、衰えかけた脳にも迫ってくるようです。
筆者所有のAVET(2024年11月現在)
右はSXの初期型
それは歴史の刻みともなり得るのだろうか
1998年頃製造したごく古いもの
ブランクは1922年創業の超老舗だったFISHER USA製であるが倒産して久しい
2001年7月と2004年12月の2回ほど簡単にレストアしてある
若者であった私ももう初老です。昔のように飛び回ることなど到底できません。そんなことが自分に迫ってくるとは、その若い頃にはまったく思いませんでした。その時の竿達もレストア等はするものの、いくつかはそのまま存在しています。それを売ってしまうと自分の心まで売られて行く気がするのは私だけでしょうか。
ここ最近、月竿もオリジナルユーザーから手が離れて行くことも極僅かというか、少量ではありますが、他人の手に渡ることが多くなりました。当方は、そのユーザーシリアル所得者の希望を極力聞いてからの製品も多くありますが、それらが流れて行くのを散見するようになりました。それは、月竿の理想とは違うところにあるものも存在します。それをまた別の方が評価するということも多くなりました。月竿オリジナルユーザーの方はそれを良く承知の筈ですが、それが流れ流れて他の人に渡ると、全くちぐはぐな竿にしか見えないこともあることは当ブログでも挙げてきたことです。酷いものは、既に複数の手で転がされているようです。他ユーザー様へ申し上げておきますが、その点だけはご理解の程宜しくお願い申し上げます。
私の愛する道具達もいずれその時がくるのかもしれませんが、リール一つ、竿1本見ても当時の思い出が昨日の出来事のように思い出されます。そんな、小さな夢を見られただけでも幸せとしなければいけないのかな。とそう思うこの頃です。いずれその記憶も薄れていき、前も後ろも判らなくなる前に記述できること、撮影できることはできる限り、時間が許す限り、残していきたいと思っています。少年の頃のリールと今のリールではその性能は比較にもなりません。でも勝ち取った夢は同じ価値であることを信じたいです。
筆者とJUNN氏(2015年当時)
その心の牙は己の為に磨け
2024年11月20日
月竿代表
南方回帰Ⅴ‐闇と光₋微残光2015₋9 ― 2026年05月01日 18:40
終わりに添えて
JUN氏がオカヤドカリを撮影している
ソーキそばソーキ特盛
特注なのは言うまでもない
2015年は、世界情勢はますます複雑で、平和な国はそう多くはないと考えさせられた。また、国境が違えば文化も考え方も違う。だからといって、海水も空気の流れにも国境はないので、影響を受けてくるのは当然の事である。我々のそう遠くない未来に於いては、心を一つにして問題解決をして行かなければ我々に未来はないと思った。
たかが、その一瞬の遊び、釣りと言う趣味さえできない日が来ないように願うばかりである。
小さな我々の遠征も終わった。
2016年は一体どのような年になるのか。
どうせ早く過ぎ去ってしまう1年ならば、その内容だけは何とか濃くしていきたいと思うこのごろである。
小反省会の割には、豪華な模様
いつも最後の夜はこれになってしまうのは監督の希望でもある
方回帰そのⅥは訪れるのであろうか
それはきっと訪れる
2016年元旦
南方回帰Ⅴ‐闇と光- 微残光2015‐8 ― 2026年04月27日 15:54
随分と空いてしまいましたがその8へ入ります。恐れ入りますがその7以前からの続きを再度ご一読の上お読みください。
大多喜の猪バーガー
ジビエブームというか各地で展開されている昨今のようです。
闇の洗礼
光も自然であれば、闇もまた自然
その合間に朝まずめもあれば黄昏もある
白昼の光りも当然ある
終わりが闇で光が始まりであればそれはそれで良いのかもしれないが、それは誰にもわからない
オカヤドカリは沢山いた
SYUUに言われて撮影している
最終日、その朝の天候は荒れていた。北東の風もかなり吹いていた。
雨はスコールのように打ちつけたり、また止んだりの繰り返しだった。
単独釣行だと、ついつい休みになってしまう状況である。
そんな天候は、やはり気持ちを削がれる。それでもなんとか可能と言う判断で我々は、午後のやや悪天候中のポイントに向かったのである。
風は昨日のそれよりも吹き付けるようになり、体感温度もかなり低く感じた。それでもその先にある希望を掴むためには、前に進むしかないのだった。
波は高かった。飛沫が時々磯に上がる。波は一旦えぐれた磯にぶち当たりそれから返す波と混ざりあって上へ上っていくのである。
それでも竿を用意している我々。
希望を決して忘れない様にと祈る気持ちである。
それから早々に竿を出してみるが、反応はない。
波は、大きく、磯にあたっては飛沫を上げる。
時々“ドーン”と打ちつけた波がその飛沫を上げて迫る。
しばしの沈黙。
その波間にアタリがある。
南遠征にはつきものであるバラフエダイ
その凶悪な面構えもだが、中々の強力ファイターでもある
その正体は、バラフエ君であった。そこそこ、それなりの抵抗もあるが、それでも我々の敵はない。
そしてその後、ちょっと微妙なサイズで大物とも言えないネムリブカとのやり取りも、その波に揉まれに揉まれてのランディングとなるとかなり危険な感じであった。ほんとうに骨が折れる。仮に無事奴を寄せる事が出来たとしても、果たしてランディングできるだろうか?そう思ったが、幸いにもハリスが切れた。この番手のステンレスワイヤ-ハリスを切って行くとは。まあサメには良くあることである。昨日のサイズ以上だと、ランディングを断念と言う事も念頭に入れての釣となりつつあった。いや、そうならざるを得ない状況であった。思わずほっとした。ランディングできない場合は、リーダーから切るしかない状況だった。
そんな終盤戦。
それでも、希望は失わない。
失えないのだ。
その悠久なる歴史の中でこの陸が出来て以来、ずっと波は興りそしてそこに打ち続けてきた。その浸食は、今から数えて何年前からなのだろうか?
また、ところどころある、岩のそのポケット穴は、小石、石塊が回転して拡がったと言うが、それも一体何年の歳月を有したのであろうか?それだけ見ても長い時間をここで転がっていたことになる。
そんな事を考えることも早々に、何時止め時かを考えるばかりであった。
打ち付ける波はどんどん高くなっていった。
そうなると、釣り云々ではなくなってくる。
「うーん、どうするかぁ~。」
「そろそろ危険ですよ。」
「ここら辺でストップフィッシングかな。」
「そうするかぁ~。」
そんな会話が続いた後、撤収の判断を下した。
「では、撤収~!!」
それからは、できるだけ早い撤収作業に移った。
ここまでくると命あってのものだねと言うことになる。
我々はそそくさと撤収作業に入るが、何と言ってもリールクランプ外し作業が結構現場では手間取る。これって良い方法は無いものかと思ったりもするが、長いリールの歴史でさほど変わっていないところをみるとこのネジ式がベストなのかもしれない、そう思った。早々にネジを緩ませると、リールをバックにしまう。
それから、車までの到着は60分程かかった。これには、流石に地獄からの生還と言う感じの我々であった。
横なぶりの雨と風と共に、最終日はこのような結果になってしまったがこれも釣りのうちと理解して組み立てないといけないことである。
計画に想定外と言うことでの言い訳は通じない。この事くらいは想定内に入れておかないと・・・とは思うのだがやはり、最後は、“どうかやり切らせてくれ!”と言うのが正直な思いだった。それは、メンバー全員がそうだったと顔には書いてあった。真に残念である。
慌てるもその日の朝、船は出ると言うことを聞き決断した。最終便で島を後にすることにしたのだ。終わりも予定通りとは行かないものである。
無事最終便に乗ることができた。その日の夜は、島ブランドとなってしまったおきまりの在来和牛の焼き肉はそれなりに、胃に負担がかかったものの、それでも美味しかった。日頃、焼き肉など殆ど口にしなくなった歳にはなったが、1年に一回くらいの御褒美なら許される事なのかもしれない。あの、美味しい脂身とサクサクとあっさり噛み切れる赤身は、野生では先ずあり得ない筋肉なのだろう。正に、現代人に合わせ立て作られた牛なのである。そんな和牛を仲間と食べる。そんな食事は、やはり美味しいのである。ある時は、監督と2人で。またある時は、島人野人と私と監督で。また今回のメンバーで。一体何度この晩餐が繰り返されてきたのだろう。それは、その時々それで楽しいひとときであることには変わらない。
東京から帰宅
羽田に着くとやはり寒い。半袖から一気に上着が必要になってくる。そこから地元へ帰ってくると幾分暖かいと言う今年の冬とは言うものの、とても寒かった。一気に移動すると尚更である。
心も寒くならないようにと思いながら。
その日の夜は、手荷物で持ち帰ったそばを家族で啜った。
そばとカマボコと…それで十二分だった。
明日は、またそばかな。
きっとそばである。
もちろん八重山そばです。
師匠に頂いたソーキそばの店は、もうかなり前から無かったけれどあの味以来時々欲しくなる味である。それは、1992年の冬からだったように思う。それからかなりの月日が流れて行ったがそばは、進化系も含めて繁栄しているようである。
今回、活躍してくれた主力道具達
その団欒の果てにあるもの。
趣味という遊びの中で勝負してみる。
闇から闇へ・・・
光から光へ・・・
そして、また空を仰ぎみてみるも、それは一様に平等だった。
その空は、暗くても明るくても誰でも・・・
皆その下にあるものには平等であった。
そんな、平和は我が人間社会に何時訪れてくれるのであろうか。
塩の結晶
2015年師走の吉日
南方回帰Ⅴ₋闇と光₋微残光2015₋7 ― 2026年01月16日 17:03
-漆黒の衝撃-
そこに浮かびあがるのは生命感の中の紫とも銀とも知れず
たまにはドラマを作って欲しい
しかも、想定外の・・・大勝負
フラッシュ越しのグアニン反射は少し紫かかっても見える
へとへとになって帰って来た彼らをよそにSYUは俄然やる気になっていたようだ。時々いたずらする奴雑魚たちを、今度は餌確保としてミジュンサビキを投入する。
投入後、直ぐに反応があった。JUNは言うと、ここら辺は手馴れたもので、いつものコバンアジを的確に仕留めていった。サイズは、30cm程で大きくても40cmくらいのものである。この餌取が案外多い。また、こいつの皮は相当硬い。それは、財布ができそうなくらい硬い感じの皮で、ケミカルシャープ針の切っ先さえ、非常に通しにくいのである。我々は、クブシミ(コブシメ)撃退作戦には失敗したものの、小判、コバン釣には成功した。猫に小判でないだけまだいい。
早速、SYUがそれを取り、上顎掛けにした。そしてキャスト。いよいよライブベイトの投入である。今まで散々餌取りとして齧り続けたその報いは、直ぐに訪れた。それは、自らが餌となるという制裁であった。何の躊躇もなく投入されたその30cm程のコバンは、何かに怯えているのか恐怖なのか、どうなのか手前に近づいてくるではないか。先ほどまで何処に投入しても喰いついて来たのに。
このコバンアジは、皮の硬さとは全く関係なくとても美味らしい。いつも餌になるだけなので、今度機会があれば試食してみたい。特に生が良いみたいである。
「えらい手前にくるなぁ…。」
「はい・・。」
コバン君は、ゆっくりと左方向へと移動している。
投入から数分後・・・・それは興った。
“ギィ~”
リールクリッカーが突然勢い良く鳴くと・・・同時に
「ああっ・・キタ~!」
SYUUのコールと共に一同一斉にその方向を見た。
一気に斜め左にラインが流れ走って行く!
彼は、グンとパワフルな合わせに入ると一気に竿は、弧を描くと、台湾製最上級コンベンショナルリールのスプールが逆転に転じた。クリッカー音が闇夜に鳴り響く。
「まえ!」
「前にでて!」
とは言うものの、踏ん張るので精いっぱいらしい。
「ムリッス!!」
突如襲った激しい引きに全力で耐えるSYUU氏
それは、間違いなく今までの外道とは違う引きだった。魚は、まっすぐに沖には向かう事もなく斜め左前へと方向を変えなかった。
「ああ、SYUU!そっちはマズイよ!」
と言われずとも解ってはいるが、相手がこちらの言う事を聞く筈もないのである。
「あああ…ぁ~すってる、擦ってる、スッテル!」
竿を伝わって根に擦れているのが解るようである。
あの嫌な感じ。
何かズリズリとするあの感覚。
何度も経験したなぁ。
正に真剣な表情で、SYUUは耐えていたが、その方向を変えられる事もなく、更に奴が走って行った。止まった感もあるが、バタバタ動く感じが伝わってくるらしい。
「イソンボではないなあ!」
「うーん。」
静寂から一気に騒然となるこの釣座が、なんとも踏ん張っているが・・・・。
言葉にならない緊張に変わる。
こいつが本命かどうか解らないけど、かなり強烈な引きを堪能する余裕は全くないSYUU。まさにその姿がそこにある。
彼の顔が真剣かつ紅潮しているのが分かった。耐えるしかなさそう・・・そんな感じであった。暫くすると、魚は止まったように思えた。彼は、その先にバタバタと暴れる奴がそのラインの先から伝わっているのが解る感じで、余裕がなさそうではあるが分析はしっかりしている様子だった。
「ああっ・・・・!」
「切れた!」
耐摩耗ラインが切れた。
その擦れた感じの中で何時切れるか解らない恐怖が、その結末によってはその恐怖からの解放には繋がったが、その代償は、落胆と言う大きな遺産が待っていたのである。
一体その先には何が付いていたのであろうか。
ラインブレイク(糸切れ)と言う事葉は、いつも悲しい。釣人にとって悲しい出来事のトップである。その歴史の中で、テグス切れと呼ばれて以来、釣師、漁師であればどれだけ悔しい思いを先人達はどれほど多く経験したのであろうか。一本の糸で繋がる事は、その事自体が一瞬で全てを失う事になる。それは案外、人の道もそうなのではないかと思ったりもするのである。幸いな事に、それはやり直しが利くと言う事であるが、備えが無ければ次のチャンスがない。それも人生と同じなのかもしれないと思った。チャンスは、一様に皆に回って来た事になる。
その結果は、別として。
それからまた我々は、俄然やる気が出てきて頑張った。
しかし・・・それから後はチャンスが再び訪れることは無かった。
それでも、全員の帰路の足取りは重くは無かっただろう。何せ、ドラマは訪れてそれなりの結果をもたらしたからのだから。また“明日頑張れば良い”と言う気持ちも多分にあったのであろう。その明日への期待は膨らむばかりであった。
誰でもその希望と言う名の希望を奪う事はできない。
誰であっても・・・。
奪う事ができるのは、一体何者だろうか。天は、それを奪う事は決して無いと思ったりもする。誰でもその加護と運を受けたいと思うこころは同じだからである。
そんな気持ちも都会ではその御利益を期待してしまう正月元旦以外は、殆ど持ちにくいのかもしれない。恐らく、そこに待ち受けるのはコンクリートとアスファルトと淀んだ空気の洗礼に継ぐ洗礼であって、希望が霞みやすいのかもしれない。そう思った。その生活感には、人間が作り上げたモノだけがさも当たり前の如くに存在していて、自然がそれに勝てていないのが日常である。しかしながら、時としてその逆が起こる時がある。それが、一番畏怖を失った現代人への最大の恐怖であったりするのか。
ラインは、何れも長い距離を擦っていた。傷だらけである。PEラインならば即殺だったのであろうか?未だPEラインの方が全てにおいて強いと信じている人が多いのには驚きだが、事実は事実として受け入れるしか方法はない。私は、釣糸の伝道師ではないのだから。何れにせよ、根擦れとの闘いになるのは、この釣りに於いては命題であろう。はたして、ラインメーカーの必死の説明というものは、一般には伝わらないのであろうか。恐らくは、伝わらないのだろう。
OKUMA
ANDROS 12Ⅱa
台湾を代表するリールメーカー
良くできている台湾製である
南方回帰Ⅴ₋闇と光₋微残光2015₋6 ― 2025年08月23日 17:51
静寂の中の興奮
肘を押さえつつ
仰ぎ見てはまた空
闇と雲の狭間
雲と雲の狭間
心と空間の狭間
実と虚
虚無と希望
海は、にわかに波だっていた
本日は北東の風が少し和らいだように感じる
波間に浮かぶ光が2つ
静寂とまた岩を切る風
北からの冷たい風
しばし、二人の後方で様子を見る事にした。
いつもながらこの狭間の空間は、悔しさと反省の中に現状への幻滅と反理想を見いだしてしまう。
その2つの重いリスクの払拭が急務の時間。
漸く息も整い、再度投入の気持ちの中、リールチェンジを済ませた。この手の釣では予備は必須である。現場で糸巻き換えとなるとなかなか辛い、また時間も大幅に取られてしまう。
“ふぅ~”
やる気満々の彼らと監督と共に見ていると……。
突然、クリッカーがほんのわずかにジィッ・・と鳴った。
その間一秒あるかないかである。
“んっ?!”
その瞬間の間、JUNが竿を大きく合わせリールを巻いてまた合わせをくれているではないか。CT1363-UM9pは、既に弧を描いてその先にオレンジの耐摩耗ラインが走っていた。ここは上手く、竿を立てられたみたいである。腰もしっかりと落としていた。
ここが第一ハードルの肝であろう。
魚は、その頭を思うように反転出来ていない感じで沖を目指そうとしている。このテンションのかけ方は良かった。
クリッカーは、勢い良くギィ―となるが、それもほんの数秒なのか1秒もあるかないかと言う感じだった。
常にテンションは掛かっている様子。
奴は、沖を目指そうともがく様子と見て取れたが、その竿はよく溜められていた。その加速は、あまり出来ていない様子だった。
一方JUNは、必死の形相だった。(勿論奴も必死と思うが)
息も一気に上がっている。
しかし、糸は何故か巻けている。そしてまた、ギィ―と鳴るとリールスプールは逆転して糸は出ていった。それも10m無い程度だろうか。
その状況をみて、彼の後ろにフォローとして入る。
「右、右に走ったよ。」
そう言うと竿を左に向ける。
そうしたかと思うと今度は、左に走る。
必死に耐えながら竿を握るJUN の姿。
腰を落としたままである。それから3分くらい経過すると、息はかなり上がってきた。少々乱れ気味だったが、彼の真剣さも、必死の形相も変わり無かった。
あと20mを切ったところだろうか、奴が完全に弱る事もなく、またそのオレンジ色に輝くラインがそのリールから滑っていった。その度に、JUNは竿を保持しようと必死であり、リールハンドルを回転させようと必死であった。
不思議とリールインされて行った。時々、荒い息に交じって、“くうっ~!”とも“んぅ!”とも解らない言葉と必死さが後ろを掴む私にも必要十分に伝わってきた。
その場の緊張感は最大。
これは、彼にしか解らない興奮なのは解っていているが、なんとか表現したい。一方ガイドする方は、安心感と正確な指示と誘導が必要となって来る。それを己に言い聞かせて、彼の腰を掴んだ。一気に戦闘モードでしかも、かなり息が荒いのは、その極度のアドレナリンのためなのかどうなのかは本人にしか解らないかもしれなかったがはたからもそう見えた。
そこで監督から指示が。
「ライト当ててみたら?」
「・・・・・・。」
少し早いとは思ったが、総監督からの指示では仕方あるまい。
高輝度LEDを燈火した。
この海が抜群の透明度を持ってしても、まだその魚影は見えない。
“やはり、まだ見えないか・・・・”
しかしラインが走るその方向はくっきりと見える。
「あと少しだよ!頑張って!」
と取りあえず励ましの声をかけるのだった。
最近では珍しくは無くなったが280ルーメンは強烈である。これが400とか600ってどんな感じなのだろうか。はたまた軍事用5000ってどんなものだろうか。恐るべし、LEDの進化。
ほんのわずか10年前の20ルーメンが主力の頃と比較すると、かなりしょぼく見えてくる。釣人は昔から変わらないが、工業、科学技術と言うものは日進月歩なのであろう。ハロゲンランプがとても懐かしい。(あれは、大変重かったがそれが当たり前だとおもったのも1990年代の話)
JUNは、1回転、2回転とリールハンドルを巻き取って行く。
すると、うっすらとそのLED光照射に白銀が反射してくるではないか。
その燻銀に映る魚体は、右に横切っているがその力は先ほどのそれとは比較できない程落ちているようだった。それがうっすらと漆黒の海に映るのは、とても神秘的でもあるように思えた。
それは、今度はまた左に方向を換えた。
水面下で漆黒に浮かびあがるその銀色の胴体が一回りも二回りも大きく映り、それが更に恐怖にも見えた。
その魚体が果たして水深何メールなのかは解らないが5mくらいはまだあるようにも思える。
ここがLEDの実力なのか。勿論海の透明度もあっての事なのだが。
「ああ、イソンボだぁ!」
いよいよ本命のお出ましである。
俄然力が入ったかと見えるJUNではあるが、それは気持ちだけで彼自身はかなり息を荒げていたのである。無理もなかろう、4本目にして漸くここまで辿り着いたのだから・・・・。
「あああ、確実!20㎏超えかも!」
水面下数メートルと言うところでヒラ打ちした魚体がはっきりと解った。それからそいつは力なく、岸際をいったりきたりと背中を見せて左右に泳いでいた。その背中が光に照らされてブラックメタリックのような怪しい魚影をくっきりと浮かび上がらせていた。
これは、イ・ソ・ン・ボ。
しかし、ここが危ないのである。
「よしよし、もうちょっと!」
「もうすぐひっくり返るよ!」
「おお、腹を見せた!」
イソンボは、最後必ず腹を浮かせる。ここが他のマグロ類には見ない光景であるが、とても面白い。明らかに他のマグロとは少し違っているのはここら辺にも出ているのかも知れない。
力無く奴がゴロリ、と腹を上にしていた。
それは、完全グロッキー状態で波間に浮いていた。何時見てもこの最後は、はっきりとしていた。殆ど動かせない尾鰭と左右に出た胸鰭を出して力なくプカプカとその波間に浮いていた。
さてここからが大変な作業である。一人では不可能とも思える作業である。二人掛かりでやっとこさとさっとギャフを掛けると、ゆっくりと引き揚げ作業に掛かった。ここまで5分以上手こずったのであるが、なんとか・・かんとか・・この落差を上げて来こられる時がきたのである。
「あれ!」
「やばい、外れた!」
引きあげていたSYUから、慌てた声が飛んだ。
その高さは1mくらいだったのか、波音にかき消されてかさほどでも無かった。ラインは切れていないようである。また、魚も外れてはいないので仕切り直しに入る。
「大丈夫、仕切り直し!」
再度ギャフ掛け作業に入った。
それから更に2~3分後、やっと掛ける事ができた。
先ずは、一番危険な波からの引き上げ。
ここがクリアできると半分は獲ったようなもの。
しかし、ここが一番の注意点であり、危険な場面である。
過去には、ここで何本も取り逃がしている。
SYUは、再度引き揚げにかかる。
30cm・・1m。
2m・・・3m・・・
そいつは、ゆっくりと引き揚げられてくる。
慎重かつ、パワフルにSYUがロープをタグリ寄せるのであった。
「やった~。」
そう言うJUNを制止して、
「まだ早い、まだ言うな~!」
ともう少し我慢するように促した。
奴の頭が見えた。
あんぐりと開けた口から牙が見える。
やっと頂点まで引き上げると、それを2人かかりでズリ上げた。
「よし!やったぁ~!!」
やっとこさ上げるとそこからは、爆発的に喜ぶ他ない。
それはチームプレー共有の証。
ここはお決まりの万歳を。
ここが欠けては、釣りは本当に面白くない。たぶん・・・・。
それは、良い釣りが出来た証拠でもあろう。
監督曰く、「目がぎょろぎょろ動くんだよなぁ~。」
「これがなんともいえないんだよなぁ。」
確かに、生きた証の目が動く。
これを我々は、何度も経験した。
彼が見る最後とは、一体どのようなものなのだろうか?
彼が最後に見たものは、水の中では無かったが
何がどうなっているのか。
何が現実なのか。
今オレ(イソンボ)の体に何が起こっているのか・・・。
俺は、死ぬのか・・・・
コレが見る現実なのか
ああ、意識が飛んで行く
そう思っている様にも思えてならない。
それは、生と死の狭間。
彼らに我々のような意識が存在するかどうかは解らないが、それはそれでこちら(人間)側の勝手な思いかもしれない。
がしかし、相手の気持ちが少しでも解ればそう無駄な殺生のない世の中になっているのかもしれなかった。
畜生にそう思う心があれば、人などそうあやめられるはずもないと思えるのだが。
激戦の痕は、生身と血で染められた現実である。
決して忘れる事はできない
現実の世界は、そうはなっていない。
本来即、処理になるのだが、やはり初物の記念撮影に少し時間を取ってしまった。
喜びは最大になるが、早速作業にとりかかる。
「監督!ガーラナイフある?」
「ああ、あるよ!」
そう言いながらも収容してあるのは、私の青いバッカンであるのだが。
それを、JUNに手渡した。八重山産琉球松をあしらった柄に琉球松の鞘作りのガーラナイフである。やはりここは、これの出番だろう。
月竿オリジナルガーラ(初期型)
〆る、切る、刺身までこなしてしまう
右からオリジナル2014、中オリジナル2014、2022記念極小、2020限定極極小
ガーラナイフを先ず鰓に立てる。南無阿弥陀仏。それは、活〆と言うよりは、もう既にその心臓には力が無かった。最早虫の息。
その刹那の息の中で鮮血は、少し闇夜には赤黒く映ってゆっくりと流れる。それでもその血は、流れ出て行った。血は、血で争うとかそうでないとか。
月竿オリジナルガーラナイフ各種(21周年記念時)
ハリスの編み込みステンワイヤーが、ところどころ切れて枝毛風になっていた。その牙を飛ばした代償としてなのだろうか。最初のバイトからのランでの衝撃故だろうか。
血抜き
水をかける
一度
二度そして三度
鰓抜き
つぼ抜き
腹を開けてから血合い(腎臓)を取り
今度は、何度も血を洗う。
ここの作業は、例えイソンボだろうがなんだろうがキープする以上迅速に行う。
折れた牙は、野生の突進力を意味していた
その牙を折って走った
顎の辺りを見ると、奴の象徴である筈のその牙が何本も折れていた。喰った瞬間の衝撃で飛ばされたのであろうか?それともその後の疾走の力でワイヤーと勝負して折れたのであろうか?
真剣勝負とはこの事なのか。
その牙と一本のワイヤーハリス。
その先の命のやりとり。
そしてここからがまた、一仕事である。
水と鮮血の入り混じった滴りがなくなると、それを準備していたアルミバックに入れる。それを今度は、通称自転車紐でアルミキャリア(おいこ)括りつける。尾柄部がすっかりはみ出てはいるものの、それはそれで無いよりはずっとましであった。
魚を背負い、車まで移動する。と一言で片づけてしまうが、ここからも一仕事である。建設的な労働ではあるが、重い物は重いのでできるだけ軽量な程良いのは人情と言うものであろうか。JUNはそれを担ぐと恐らく来た道を戻って行くことになる。
冬と言うには、まだまだ暑い南国の夜。
涼しいと言う時間にはなってはいるものの、それでも一汗かく事になる。
牙と鋼とステンレス。
その先には、強固なスイベルとナイロン糸。
その先には、その戦った人の思いがある。
血抜き、腸抜き後のイソンボを担ぐ専務ことJUN
自分の仕事なので致し方ないところだが
それとは裏腹に気分はすこぶる良いのだ
車には、予め氷が容易されていた。
“釣れても釣れなくてもここは万全にしておこう”との作戦会議であったが、 そこは今回計画通り行っていたのである。
JUNと監督のコンビで魚を移動するコンビになってもらい、SYUと私が現場に残った。
さて、順当で行けば次の番は、SYUになるのだが。
その後は、SYUを中心に積極的に竿を出した。
しかしながら、その期待とは裏腹にアタリは無かった。
60分をとっくに過ぎた頃、先ほどの二人組がやっと戻ってきた。
どうやら迷ったらしい。
“うわぁ、それは地獄道”
2人組で良かった。
そう思ったのは私だけではなく、一番そう思ったのは彼ら二人だったに違いない。
賽ノ河原は、永遠に続くようにも思える冬の岩場の出来事。
それを知るものは、その月と星、風と雲。南の潮風に乗るどこからともなく訪れる音。
そして、空の果て
ランディング直後の姿は既に満身創痍
お前はその眼でなにを見てきたのか
南方回帰Ⅴ-影と闇₋微残光2015₋4 ― 2025年04月03日 19:30
3日目
後半戦の日
何かがおこりますか?
ドラマや映画だと、それなりに何かないと困るのですが
はたして、リアルである=現実と言うものは?
お決まりのヤギさんをJUNが撮影してみる
勿論家畜のヤギさん
ほぼ一年がかりで準備した遠征も、その時がもう半分が過ぎ去り、後半を迎えようとしている。国を背負う事と個人が背負う自らのプライドとは、全く異なる次元かつレベルは違う事が解ってはいるものの、丁度オリンピックに備えるアスリート達が何年もかかってその一瞬に全てを掛けるのに類似した心境に近いのかもしれない。あくまでも近いかもなのだが・・・・。
たかが釣、されど釣、趣味と言えば、趣味。道楽といえば道楽。競う相手が人間でもければ、スポーツと言えるのかもどうかも解らない位置ではあるが、我々が行っているのはスポーツフィッシングと言うものには違い無かった。
それは、一貫してブレてはいないと思う。それは、自分自身との闘いでもあり、自然に身を委ねることが前提の戦いでもある。自然と対峙してみるとその多くは、太刀打ちできないことへの裏返しでもあるのか。
日本における磯釣りは、ここ30年間でそう大きくは変わっていないようである。勿論、釣り方や道具は進化によって多少変わってはいるが、基本は同じかそれに近いかもしれない。ましてや今我々が行っている釣方は、その昔はあまり認知がない方法だった。
時代は大きく変わっているが、近代の遊漁の歴史程度はたかが知れている。
当時(昭和)が解らない方は、1988年刊の“別冊釣サンデー巨魚フィッシング”を参考にしていだだくと良いだろう。当時の通称“釣サン”は、小西ワールド全開でその主観に満ちてはいるものの、それはそれで面白かった。なかでもp34-35は、100kgの魚に耐えうるには、クランプを必ず付けて置くこと、などと書いてある。また当時の剛竿は、そのウエイトも2kg弱前後だった。故小西さんは、とてもこの釣が好きだったのであろう。それも今となっては聞くこともできない。
結局のところ人は、その釣り人生がとてもとても短いということなのだろう。寂しくも悲しいかもしれないがそれが釣り人生の現実である。ただその短い人生をいかに駆け抜けてきてその渦中で多くを体験、経験したかはその短さの中の華でもある。その華は、その人によって違う。その大きさや華やかさそして、華麗さ、美しさもそれぞれである。当然咲かないまま、終わってしまったり、腐り落ちたり、無理やり摘まれてしまうこともあるかもしれない。
それは、まだ私が若い頃こと。このグループの一人に偶然出会ったことがあった。その当時私は、サツキマスなるものを狙ってルアーを投げていた最中の事である。当時たしか使っていたロッドは、今となってはもうその存在もほぼ知られていないCOTAC社のCOMA SPINにMITCHELL630、ユニチカシルバースレッドナイロン6Lbだったと思う。その人は、遠征以外の遊びで時々野ゴイ(しかも巨鯉のmオーバー)を狙っているらしいが、メインはあくまでも遠征離島の磯と言う事だった。その体もボディビルとかで鍛えていたと言って、その太い上腕を見せていた。恐らく、当時の私よりも10歳は上だったと思うのでその人は当時30後半から40代始めと言う感じだった。彼は、小西さんと良く遠征に行くと言っていた。その会話より、磯からの勝負に燃えていた感じが溢れていた。当時は、そのような釣にはあまり興味が無かったのか、はたまたサツキマス釣りの邪魔をされては困ると思ったのかはとうに忘れたが、その詳細もあまり覚えていない。ただ、ここには10㎏オーバーのコイが居て、庭で飼っているとかそんな事を言っていたように思い出された。他には、石鯛釣とかしているとか言っていたようだった。そんな話をほぼ一方的に聞かされたが、それももう過去の話になる。後日のことだが、久々にその巨魚フィッシングを捲ってみるとなんとその彼らしき人物が写っていた。とても面白い縁だと思った。その方が現在も釣りをしているか、はたまたご存命であるかは定かではない。因みにそこで7㎝ミノーに喰ってきた大きな野鯉を禍何度か掛けたが、いずれも20~30分のファイトの後切られた。その殆どは障害物に巻かれてしまったのが原因だが、そもそもタックルがこのトラウトロッドではアンダーパワーだった受けたのは楽しい時間だったように思う。
1992年頃横浜で購入したコマスピン
主にサツキマスを狙ったが後に57㎝程度の小さなイトウをキャッチした
当時18000円くらいだったが、日本製である
まだまだ中国製はほぼ無かった時代
フレンチデザインの香港製MITCHELL630LS
辛うじてオフランスっぽいデザインだった
当時より最早国産リールにかなり後れを取った感があった
当時の“巨魚フィッシング”から、時は既に今は2015年なので27年前と言うことになろう。現在の道具は、当時の道具より遥かに軽量になったが当時はと言えば、細いラインを駆使して取る釣方はまだまだ確立されていなかったと思われるし、専用の道具も無かった時代だった。御関心のある方は、p84~を読んでも面白いと思う。
時間は、足早に流れて行った。
あっと言う間である。3日目と言う現実は、既に後半にさしかかり、泣いても笑っても明日には帰り支度をしなければならないと言う事である。そう言うことも考えながらの釣りである。本日は、勝負に出たいところではある。予期しかねる対戦を願うばかりだった。とは言うものの、やはり相手が自然と言うのは、こちらが勝負に出たいと思っても相手次第である。しかも、その時は何時やってくるか解らない。それが緊張と疲労を繰り返し、ダメージレベルが上がって行く。
JUN曰く、そのアドレナリン緊張状態と、気を抜いた時の疲労感が交互に繰り返されて相当精神的にも肉体的にも追い込まれるらしい。
所謂拷問を受けているに近い心理状態らしい。それはそれでとても大変な精神状態だろう。
「うわあ・・・緊張する~。」
「ああ・・疲れる~。」
そうなのか、確かにそうだ。
今までそう考えてこなかったが、確かにその繰り返しが何度も襲ってくるように思える。そして、最年長の私には、それがかなり堪えてくる。この境地は、なかなかそう出くわす事はない。恐怖にも似た興奮がせり出してはまた疲労に押されて眠くもなり、また興奮。それの繰り返しだった。
間に眠魔の恐怖
確かに拷問に近いような気がする。
監督から
「そろそろだよ~。」
恐怖が更に加速する。
「ああ~眠たい。」
と何げなくぼやく私。
「それをいっちゃ駄目だよぉ!」
即監督のお叱りを受ける。
潮に変化が訪れる。
夜10時を回ったところだった。
先ほどSYUが釣った70cm程のオオメカマスを使う事にする。大きく切ったオオメカマスの切り身餌を投入する。
猛禽類リールから糸が吐き出されていった。
クリッカーを入れ少しラインを送りこんでやる。
いい感じ・・。
いい糸馴染み。
いい流れ。
痛む右肘をかばいつつ、左前構えから左手で竿を持ち、右でラインを送っていった。流れは変わりつつある。
そんな予感がするものの、それは何時来るのかも解らない。
潮の流れと風。
波打つ音。
言い知れぬ恐怖と緊張。
その合間に襲ってくる眠魔。
そして降って涌いてくる緊張の連打。
その狭間の中、スプールに触れている左親指に僅かに摩擦感がする。
「ギィッ・・ギギィ」
同時にクリッカーか鳴き始めの瞬間での事
「イソンボ!!」
「なのか?!」
リールのレバーをストライクに入れる。
即、ずっしりと重さが乗って来る。竿は、大きく弧を描くではないか!
“合わせ!”
左前構え変わらず、そのままバット際で溜めつつ合わせを入れる。
そこはいつもと勝手が違ったが、そこまでは及第点の反応であるとおもった。
ロッドエンドを左わき腹にややアップで溜めて態勢を整えようとするのだが、これが、ベストのベルトに引っかかってしまった。
「ベルト!ベルト!」
そうは叫ぶが、態勢が整っていない。
中途半端な態勢からスタンドに持ち込むのにあまりにも不具合な態勢。
やはり左前構えにて、完全に体が開いてしまっている。
これは、辛い。
良くない。
テンションは、かかったままである。
これが、こと思いのほか重く感じる。
その奥の生命感も更に重く圧し掛かる。
仕方なく、そのまま耐える態勢になった。
ラインは伸びてクリッカーに勢いを与えつつあり、既に悲鳴に変わりつつある。
“これはかなりやばい”
既に冷や汗に変わっている。
そのままリフトする事も出来なく、JUNがフォローに入ってくれているにも関わらず態勢は、今一の左半身構えのままだった。
ただ糸が悲鳴と共に出ていった。
“これはまずい”
“かなりまずい”
“かなりやばい”
態勢もまずいばかりか、目をリールにやると既にラインは、ナイロンはあっと言う間に出されてしまってバッキング近くまで出ていた。
100m以上も走られてしまった。
“磯の暴走族”
とか
“磯のダンプカー”
と過去には呼ばれていたらしいが、勢いに乗ったイソンボは加速に加速をさせた。これは勢いづけてしまった。
“まっマジか!”
相手の猛ダッシュを許してしまう。
正に、昨年の専務状態になってしまう。いやしまっている。ついにラインは、遂にバッキングまで出てしまい、最新鋭のYGKのブレイデッドラインの10号が出て行く。更に糸は出つづけて、120~130m出たところでふっと軽くなった。久々のファイトに、成す術もない状態だった。
これは、流石に堪えた。
あっさりのラインブレイク=糸擦れ切れである。AVETの調子もそうは良くないばかりか痛む肘のせいにもするが、それは単なる言い訳に過ぎない。
否定は誰もしなくても、自ら否定される。
否定の中の否定。
そしてその奥。
その奥は、反省と言うむなしい言葉では決して辿りつかない。
誰が責め無くても。
自分を責めろ。
自責の念を叩きつけろ。
なあ、自分。
これでは勝負にならないではないか。
南方回帰Ⅴ‐影と闇‐残微光‐2015‐3 ― 2025年03月12日 20:25
晩秋の釣り
このような題目の釣り雑誌があっても良さそうだか、そうすると秋しか釣が出来なくなるのでそんな雑誌は出てこないと言う当たり前の話をしてみる
実りの秋が終わると、それは冬への始まりなのだがそれを敢えて話しても何の意味があると言うのであろうか
ただ釣に行くと言う事
それだけな秋
凶悪面構えの牙付き魚
なぜこんな悪態面に見えてしまうのか
性格まで悪いと言う訳ではなさそうな感じなのに
口を閉じるとしっかり収まる
それは、神のみぞ知る
いざ、かの南方へと思うとまだまだ暑いだろうなぁということと、この房総の冷え込んだ朝の服装はどうしたものかということから始まる。その他準備は、計画通りに運ばなくてはならない。なのに、毎年、毎年、ごちゃごちゃと最後は駆け込み気味になるのは今もその前もあまり変わらない。僅か実釣日は何日間かというスケジュールしかない日本人的遠征であるが、半年前から構想を練る必要がある。その間が一番楽しい時と言う釣り人もいる。確かにそう思えたりもするが、この歳になるとそれも薄らいで行くのであった。遠足に行く前のワクワクした少年の頃が遠くに褪せているこの頃。
とても裕福とされる日本人に生まれた幸せと同時に、あくせくと働くバケーションと言う言葉の殆どを知らずに一生を終える我が民族。果たして本当のバケーションと言うのは、欧米並みの12日間の長い休みなのか?それとも、短くても幸せを掴む事ができるかもしれないことなのか?未だに解らないのは、この我が国に住んでいること故なのだろうか。その点は、先進国と言われる我が国は恐らく最低レベルなのだろう。
ただこの遠征で楽なことがひとつある。それは、それが北への遠征であれば、衣類だけで既に重量オーバーになりそうだからだ。所謂服装は、比較にならないほど身軽で軽量ということだ。
昨今の旅行事情は、とりわけ飛行機の荷物制限が必ずつきまとう。それは年々厳しくなり、今はLCCでないにも関わらず総重量が20㎏。パック旅行ならまだしも、釣りとなると(他に大変な装備のスポーツやレジャーは多々ありますが)そうは行かないのである。それもコストを気にしなければ何とでもなるのだが、ついつい貧乏根性が出てくる。恐らく日本の庶民の大半はそう考えるだろう。それを考えていない時点でエコノミーという選択肢は全くでてこない。
荷物のうちの半分は、既に別送しているにも関わらず、既に20㎏は超えている。問題は、ロッドケースだけでも空でも3㎏くらいあり、スーツケースの ハードも4㎏を超える。ロッドの中身は3本で、2.0kgになるかどうかだがパッキンを入れた時点で5㎏超え。スーツケースの中身は殆ど入れる事ができない。完全に中で遊んでいる。
手荷物の方が何故か重い。
それでもなんとか工夫して20㎏にした。
それにしても面倒な作業。
その割にはかの航空会社からは、男のロマン、釣りの旅プラン~などと案内メールが届いたりする。それは、航空会社が釣に対してほとんど理解が無いと判断するしかない。まったくもって。彼らのマーケティングというのはなんなのだろうか。
さてさて羽田にて手荷物を預ける際の事になる。
今回は、予想だにもしない質問が来た。
「お客様、電気のリールをお持ちですか?」
と始めて聞かれた。聞いてみると最近聞くようにと会社から言われたらしい。
今となっては、遠征も電気のリールとやらが主力となってきた事を示唆することなのだろう。そう言えば、何とかTVとかでも遠征先で電動リールを毎回使っているのを思い出した。おそらくは、その際のリチウム電池のことなのだろう。
ジャスト20㎏の重さだったので、なんとかかんとか行きはよいよいと言ったところになったような気がした。
そのような対応のやり取りで少し、ネタになりそうな感もしたが、JUNと二人でのくだらない話になった程度だった。
これは後で落ち合うSYUに言わなければならないネタである。
さてさて、南国へ、旅立つ。
島は、さらに大きく発展していた。
一年経つと幾分活気も出てきたかも知れないが、そろそろ開発も上に伸ばすか、原生林を伐採するかしかないが、今の御時世よほどの利権が絡まない限り森林伐採とはならないだろう。また、無理な開発は後で災害の元であろうからそこも考えてはいる様子なのか。気になる点は、それが外資系だったりすることである。
その日は集合の後、さほどバカを言う事もなく終わった。
強いて言うならば、SYUのホテル場所をちょっとしたÝ監督の勘違いで別館に行ってしまったことくらいの間違え程度だった。
さて、その日の昼時我々は、早々に荷物を出して準備にかかった。
リグも既に予め初日分は作製してある。ここは準備万端というところ。
主力リールのAVETと予備リールSEA LINEには既に耐摩耗ラインが巻いてある。ナイロン24号で90Lb近くの強度もあるそうで、幾分そのオレンジが頼もしくも見えたりした。それも気休めなのかも知れないが。
それでもなんとか午後3時過ぎにはそれなりの出撃態勢になり、初日出撃となった。さてさて、早速現場へ・・・・。
現場に着くと早々にセットする。
期待の一投目。アタリはない。以降これが、予想に反して、全くアタらなかった。投入しても、また投入するも全く音沙汰なしだった。外道のアタリがぽつぽつとくらいでフックアップ(針かかり)には至らなかったのである。その日は竿が一気に曲がることもなかった。これは、渋い。果して魚は、回遊しているのだろうか。
ならば翌日と気合いをいれて出撃するも、本命のアタリはやはり無かった。
風は北東。
肌寒い。
南国の暑さが消える。
星も見えたり見えなかったり。
月は雲の間に見えたり隠れたり。
雲は風に吹き流されて速い。
風を切る音が唸りを上げる。
キャスティングも潮の動きによっては、逆風に向かってのキャストであったりする。これが、なかなか飛距離を阻害する。それとバックラッシュ。
DCコントロール・・・欲しいかも。(と一瞬魔が差す意見が上がるが、しかしDCにこのクラスのリールは無い)
それとはまた違う方向に潮は流れるので、なかなか環境的には苦戦である。そんな中、ヨコスシマクロダイと言う愛嬌のあるお魚をJUNが初めて釣った。サイズは、30cm~40cm程を2本。と言うか一同初めてみる魚種である。なぜか撮影し忘れてしまったようである。それにお決まりのヒメフエダイ。(通称おいしい魚=ミミジャーと言われています)
ここまでガーラ(ロウニンアジ)の姿は、見えない。ガーラにとって水温が低いのだろうか。いや、凶悪な外道達も少ない。何の反応もないのは不安を掻き立てるが、潮が止まる前後にはやつら(コブシメ)がいたずらを仕掛けて来る。しかし、今回のやつらは少し小ぶりなのか、秘密兵器の傘(イカ針)も抱かないので益々ストレスを溜めそうにもなってくる。これでは秘密兵器とは全く呼べない。コブシメのおかず確保も、ほぼ諦め状態である。
ブーンと回転音がしては、回収の繰り返し。
通算で私のAVET RAPTORも早5年が過ぎようとしている。JUNのAVETも、既に3年が経つ。一方SYU先生の最新型のOKUMAアンドロスは調子が良いみたいである。このSYUのANDOROSのブレーキは、少しびっくりした事がある。それはと言うと、てっきりマグネットブレーキ搭載と思っていたのだが、それは、
ダイヤル式のメカニカルブレーキだった。ここら辺もしっかりと使いこなせば、もっとユーザーも快適なのだが果たして何人の方が理解してくれているかは 疑問なところであったりする。まあ、元々国内で売る側も米国での使用を全く参考にしていないようだった。そもそも、そのような使い方をするアングラーが国内に何人いるのか?相当疑問なところで、もしかしたら当方らが初めてではないかとも思う。何せ、売る側の総代理店でもそう使えるとは一言も説明がないのである。しかしながら、このダイヤル式のメカニカルブレーキは初めてなのでてっきりマグネットブレーキだと思いこんだ。後になって思えば、そもそもセンター位置にそれがある事で気付かなければならなかったかもしれない。結果としては、この釣には使えると言うことには間違いなさそうだった。いや使える…十分な性能である。
これがまた凶悪顔のバラフエ・・・そうシガテラ満載のお魚だがその引きもなかなか凶悪である
正に煮ても焼いても食えぬ存在だけれど
ゲームフィシュとしては、なかなかのいやかなりのパワーファイターである
厳しい状況下でも、時々お月さまは現れて我々にも平等に挨拶してくれた。ここには不平等という言葉はない。極めて平等である。
監督も来られて、その日は釣れないなりに外道と戯れたり、半分気休めの冗談を言ったりして、あっと言う間に釣は8時間を超えていた。
風は時々吹きつけて、メガネは潮風で真っ白になる程だが、それなりに楽しい時間であったように思える。釣れないなりの楽しみなのか、まだまだ余裕なのかは解らなかったが、遠征の過ごし方を経験しているメンバーと言うのはとても心強いことだ。いい時も悪い時も仲間というのはいいものだと思う。そんな夜中。
曇り空と風と・・・時々月な夜。
星がメガネの曇りもあって更に霞んで見える夜。
北寄りの風は、何処でも吹きつけて、竿を時々強く煽って行く様である。
「もう明日があるからそろそろ納竿にしようか?」
「はい~・・・。」
そうしてこの2日間があっと言う間に過ぎてしまった。
このような渋い日が続くと帰り道の荷物はずっしりと重くもあり、足取りも重かった。
その後、我々が寝床に入ったのは午前様とはもはや言えない朝4時を超えたところだった。早くもターニングポイントを我々は終えてしまったのである。
その4(3日目)へつづく
南方回帰Ⅴ‐影と闇‐残微光2015‐2 ― 2025年01月14日 14:24
CASTING-試投
2015年購入のTRUTH REEL
SM
結局この会社もその名称を2回替えたことになる
試し打ちでも試切りでもないのは幸いである。
その昔はその対象が人であったりしたからだ。
竿を試し振りで済むのは、それだけ平和な国と言うことなのだろうか・・・
それから30数年以上も経ってからの現実に戻るとする。
秋の房総はとても天候が不安定なのだが、その日は風もそうでもなかった。
そこで、夜時間も空いたので新型リールの試投に行った。
ロッドは、MOON 1363-UM7Pベースのロープロファイルリール仕様でリールシート位置は、大きくストリップガイド(バット)に近くなる。
いきなりブレイデッドラインにロングリーダーでの試投である。
まずは、軽く振ってみる。
マグネットブレーキは強めにと思ったが案外回転数は落ちていない感じだ。
むしろ回転が良く、サミングはもっと強めが必要かと思った程であった。
それと、メカニカルブレーキ併用は必須であった。
しかしそこは、進化に進化を遂げるDCコントロールとは訳が違った。
日本の町工場でも十分製作可能と思われるこの異質なリールは、特別異彩を放っている。このようなリールは、日本の技術があれば直ぐにでもできそうな感じだが、それをやってみようと言う日本人は今のところいない。いや、未来もあまり期待できない。
少しだけ大森製作所のことがまた頭をよぎった。ダイヤモンドリールのことを。高度成長期から数えても、多くの釣具メーカーと言うものが立ち上がり、そして倒産、閉鎖に追い込まれていった。それから、2000年以降もどんどんと倒れて行った。フィッシングショーと言うものも、私がブースに立っていた頃のピークからすると大きく衰退してしまい、今や会場は半分以下の弱小展示会に変わってしまった。それはすなわち、我が国の業界の現状レベルを推し量るには中心指標となると思える。
話を元に戻す。
それではと、次にマグネットブレーキノブをほぼいっぱいに締めてから投げてみる。
グーンともギューンともつかない低い唸りを上げて糸は吐き出されて行った。ラインが細いとルアーの飛行角度やスピードによって途中からでもバックラッシュになりかけようとしながら指をラインが叩く感じが時々発生する。
“これはサミングコントロール”も細かく必要かな。
そう思ってまた投げた。
ああ良く飛ぶなあ。
“ファントムよ、時代はこうなった。”
“世界初電磁誘導ブレーキは決して無駄では無かったよ。”
“そう思える時が過ぎて行った。”
“ラパラモドキのバルサミノーは投げられなかったけど。”
“ダイワ精工もなくなったけど。”
“全く動かなかったロビンもハイロのコピー感満載のコネリーも好きだったし、このバルサミノーもアイ調整しなければまともに動かなかったけど・・・それでも好きでした。”
“コピー全開のあの頃のルアーもないけれど。”
それから何年も経ってからあの“ドリンカー”や“バスジャッカー”、“シーバスハンター”、“リブンシゲーダー”が出てきたのである。
まずはこのリールの癖を掴む事からなので、当然ナイロンから始めるのが一番良いのは解っていたものの、いきなりPE3号でキャストしてみた。ラインは、太ければ太い程トラブルは減って行くのは勿論解っていたけれど、細いとも太いとも言えない3号の8本撚り糸に80Lbナイロンリーダーのコンビ。
その状態で何度か投げると癖に馴れて来たようだ。
馴れてくると、段々と相性が良くなってくる。
そこでついつい距離を伸ばそうと力を入れてしまう。
その行為が、竿の曲がりとその戻りとリールの回転数のバランスを崩してしまう事になる。
そんな、秋の夜の試投。
SUPER MOONとやらの夜。
波間に常夜灯の光と影。
こっそりと投げているつもりでも、これが目立ってしまうようだった。
そこは、房総の港。
かなり向こうでアジングとやらをされている青年が近寄って来た。
ありきたりの挨拶ができるタイプか無視して通り過ぎるかの2択であるとおもうのだが、どうやら彼は前者のようだった。
「こんばんわ。」
「はいこんばんわ。」
「何がつれますか?」
「何もつれませんよ。」
「えっ?」
彼は、明らかにいぶかそうにこちらを向いた。
「何も狙っていないです。」
「・・・・・・・・・。」
「あぁ・・・この道具では何もつれませんよ。」
「・・・・・・・・・・。」
何故か彼は納得がいかないようだった。
「ただのためし投げと言うやつです。」
「あぁ、そう言うことかぁ・・・・・・・。」
彼は、特段に関心のある様子もなくそれがどういう道具かも当然関心がなさそうだった。ただ、鰺狙いでないということは、なんの情報も引き出せないのでさっさと行こう・・・というところだろうか?幾分納得したかの様子だった。
じゃあと言う言葉もなく、そっけもなく距離を置いて過ぎ去った。
現在のコミュニケーションの手筈を少々欠いた感はあったが、それも致し方ないところであろうか。最近は、良くあることだ。
そのような月夜は、全くない会話よりも少しはましな方かもしれなかった。
相変わらずの疑似餌であるギブスのポラリス31/2ozは、これに良く付き合って来てくれた。何も掛かる筈もないのに、やっぱりそのポップ音と前に押し出す水飛沫見たさに竿を操作するのであった。その先には、大きな水柱が立ったかと思ってもみても、ここにはその現実はない。脳裏に焼き付いた過去の水柱が突然脳天を刺激するだけである。
それからこれらを持って何度か試投に行った。
解った事は、結構タイトにメカニカルブレーキとマグネットブレーキを締めてトライした方が良さそうということだった。
それから、そいつ(ポラリス)とは直ぐにお別れになった。
ほぼ20年近く付き合ってくれたポラリス。今でも名品であって欲しい。昔からSimple is bestと何となく言葉を使っているが、その発想が続いていて製品化しているのは本当に必要なものと、そうでないものをはっきり区別したがる性格というか民族性というか。道具は、簡素で使い易く無ければならないという、一つの答えなのか。そして飽きの来ないデザインと言うのは、簡素にある美なのかもしれない。
1990年半代半ばに購入したPENCIL
POPPERとその後の2000年代のPOLARIS(左)いずれもGibbs社を代表するルアー
多くのモノに触れる事は、このありふれた現代社会にもそうないのだろうか。モノの無い時代に選択肢が無いのは当たり前で、それを大事に使う。今の日本には、それが気薄になっているのかと思う。それは、個人がそうしたくても、世の中の流れはそうは行かないと言うことの表れなのかもしれない。それには消費という経済の流れも影響しているのではないかと思う。時代は、大量消費時代なのだ。
南方回帰Ⅴ‐影と闇‐残微光2015‐1 ― 2024年12月31日 01:43
南方回帰Ⅴ
影と闇-残微光2015
Fishing from rocks near the
shore of the ocean
何が影で、それが闇で何が光なのかも明確ではないにも関わらず人はまた求め従う
定めが何かもその光がなんなのかも判らないのに
繰り返す光と闇
そこには、残光さえない恐ろしくも寂しい闇が・・
幸福は、幸福になろうとする光を掴んでいれば、必ず幸せが訪れると信じきる決意がいるのだろうか
ひとつだけ言える事は、幸せは誰もが願う事だが、それを決して諦めてはいけないと言う事である
N氏の勇士を撮影してみる。
さてさて年毎に訪れる人生の消費は、なんともし難くかつその期限が解らないのではなおさらのことである。あっと言う間というありきたりの表現で言わせてもらえば、その如くである。そう思うと長文をだらだらと打ってみても、はたして誰が読み、誰に影響や感動を与えられるかと思うと、それは全く無意味なものに感じてしまう。そう思い始めるとそれは、やる気を削ぐと言うこと以外の何物でもない。おまけに、通称テニス肘とやらで、右肘の痛みは消える事も無く、それが増大しているように感じる。流石にこれは、痛むばかりで、タイピングが更にそれを悪化共助しているみたいである。通称テニス肘(上腕骨外側上顆炎)を患ってみて味わう何度も何時でも迫ってくる痛みとのにらめっこである。
もう今回は止めようかなぁーと思っていると・・・。
「今回は、釣行記書かないのですか?」
とわざわざ質問してくれる後輩がおられたではないか。
幸か不幸か私のくだらない紀行文を読んでくれている人がいるという事は、明日への励みにはなるものの、正直面倒くさい症候群の兆しの今日である。
面倒くさいということを理由に書かない事を決めると正にそれは、更に敗北感がするので、なんとか重い腰を上げて打ち込む事にした。
しかも、これをやり始めると他に何も出来なくなってしまうネックもある。
素人なりにそれは大変だったりする。
執筆を本業とするプロとは遥かに自己趣味の延長線上のものなら好き勝手と思うのだが、それでも思いどおりには行かないのが現状である。とても何とかライターとか言える口ではない。もちろんそれをいとも簡単に申す人も昨今では少なからずいるらしい。何人かそれを知ってはいる。ライターと言えば少しカッコよくなった気にもなるが、その内容はまちまちなのは皆が知っての通りだろう。
昨今では、釣と言う話題すらもっぱらその主力は動画になり、動きを言葉で伝える事もそう多くは無くなった感は否めない。しかしながら、言葉が示す独特の響きは、読む人の思いを巡らせて想像力を働かせる。百聞は一見にしかずと言うことわざがあるが、それも今の動画では説得力が無さ過ぎる様にも思える。
所詮バーチャルなのか、自由に構成できるのか、必ずともそれが真実では無いようである。便利で誰でも解るこの動画は、新しい境地を見いだしてくれて、世界をますます狭くしてくれるのだが、なんでも度が過ぎるという事は真実を超えてしまうと思うこの頃である。そうかと言って、未だ現役の釣り雑誌の部類は明瞭会計の如く未だそのコンセプトのブレがないのかどうなのか解らないが続いているのは凄い事である。しかも、それがおまけDVDまで付録として付いているゴージャスさであるが、素人に近いホームビデオレベル以下のものも少なくないという。実際そのようなホームビデオの延長のようなDVDを何度か視た。実に面白くなかった。それは二度視ることもない内容に過ぎず、釣雑誌のくだらない記事の延長線上にあるただのディスクというものに過ぎない。実に、意味がないことか。
そんな肘を痛めて早一月が過ぎようとしている私。
そして、またいつもその時間が来てしまうのである。
房総の夜。
静かに訪れる夜は、いつものことだった。
秋口を過ぎると、少しばかり夜が長くなって来た。
月夜は、その光りと明るさをもたらすが、闇夜はすべてを覆う様でやる気を少し奪って行く気がする。それは、その満月よりも釣れそうなのですがね。
そのような田舎の夜。
静寂な夜。
それにしとしとと降る雨の音。
秋の空と空気は、静かに訪れては消えていくようである。
そんな夜。
CASTING-試投前夜
旧ダイワ精工製ミリオネアST-40
その昔(またかよ・・・と思う人も多いかとは思うが、今後もこの路線は展開されると思って頂いて間違いなさそう)の事、旧ダイワ精工が誇る?ファントムマグサーボと言う名品?があった。当時は、どうみてもフィンランド製のRapalaというルアーをその日頃の小遣いでは買えない子供が買う事ができたと言っても良い“ダイワバルサミノー3.5g”も投げる事ができてなおかつ、パーマと呼ばれたバックラッシュに対する救世主として急浮上した、電磁誘導ブレーキ搭載のダイワファントムマグサーボ。その電磁誘導ブレーキが効いて、脅威のバックラッシュ(パーマ)防止に役立つというTVCMに心躍らせたものであった。
(全ての記憶が頭の中に残っているのではないけれど)
しかし、当時はまだBait casting reelと言えば、まだまだABUだった時代に生きていた私は、可能であればあの北欧の輝く名品が欲しいと願うのであった。良き時代であり、モノがまだ溢れていない時代であり、道具と言うものの個性が光っていた時代でもあった。それは、それぞれの国がその特徴的なデザインと性能で勝負して世界へ出ていった時代である。ABUは、スウェーデンが誇る釣具会社であったのだ。実に、北欧の雰囲気の中にある遠い存在だった。
今でこそ、ロープロファイルで高速ギアが主力の様にも思えるベイトリール市場だが、この頃のデザインも未だ誕生前夜であり、ギアボックスをそのラウンドフレーム内に内蔵すると言う発想しか見当たらない時代なので、あの形状は、80年代独特の中途半端な出来具合の時代だったように思える。そんなデザインでも今の若者には斬新らしい。
後で師匠に聞いた話では、(また私の記憶も正しければ)高速ギアコンベンショナルリールを最初に開発したのはダイワだったと言うことだった。そしてその名は、SEALINE SHシリーズがその元祖と言うことらしい。そのギア比1:6.0と言う当時としては超高速であったと記憶している。
その後、90年代半ば過ぎになって 同社は、ジギング専用ベイトリールとしてこれをベースにグランウェーブと言うリールを発売したと記憶している。
(筆者はその初期型を所有していたが今から15年くらい前に手放してしまったのでその画像等はない)
なぜそれが今頃になって思い出させるのか疑問だが、よくよく考えてみると、それは今でもマグネットブレーキが主力ブレーキシステムの一翼を担っているからでもあり、現役の機構である事もさることながら、あのマグサーボがここまで進化しているのか、とても関心がある部分でもあったのかもしれない。(実際は大して発展はないと思うのだが)
それは、今(2015年)から遡る事、30数年前の事。
それに影響を真っ先に受けたのは当人(筆者)の弟であった。
その一万円を超える価格に躊躇した私をよそに、なんと弟はそのお年玉と言う子供最大の武器を片手に、呉の“ささき釣具”へまっしぐらであった。
今思えば値引きも価格も健全だったのであろうか?
当時店内にはmade in China と称されているものは1つも無かったと思う。国産主体の品ぞろえで、高級品はすべて輸入品の舶来品と言った。
また店の活気は、凄まじいものだった。
イワイソメ(ホンムシ)やユムシ(コウジ)などは、とても子供が買える代物では無かった。チヌ狙いのモエビも升売りだったが、大人達は勿論なんの躊躇も無かった。大人達は、こぞって高級サーフリールを買い、餌もいわゆる大人買いであった。厳密には当時の子供でも買えたのであるが、それは量り売りと言うマジックに成り立つもので、とても大人の真似はできない所謂子供。
餌に1000円札数枚と言う驚愕の支払いは全くと言っていいほど不可能であった。定かでないが1980年でユムシは1匹150円から200円前後であったかと思う。それを20匹とか30匹とか・・・あり得ない話であるが、経済力のある大人の釣の世界では普通だったのであろう。そのおじさん達の目標は、マダイやクロダイ、大型アイナメであったのであろう。それも土曜は、はんどんといい、午後から基本フリーだったように思う。次の日である日曜日の早朝もしくは、その土曜の夜から夜釣りが当時の高度成長期の一般的労働者の流れだったように思う。今思うと労働条件は、かなり今と比べると悪く、有給という買い取りがまだまだ横行していた時代である。休みなし、なんて週もざらだったように思う。
その大人達の熱気の中を掻い潜って、弟は堂々のマグサーボを手中にしたのであった。これには私は驚いた。2つ下の弟が年一回とは言え、一気にそれを手中にしたからである。今思えば、それは釣具店の一コマにさえならない日常の流れだったと思える。それは、一瞬の出来事であり、それを凌駕する大人達の景気に上乗せされた消費をどんどん促していったのである。
「にいちゃんついにこうたど~!」
誇り高く物言いする弟には、このリールに対する期待感と夢を相乗させ、昇華させて言った。もはやそれは、 妄想に近い理想の形の夢の釣具に見えたに違いない。しかも、お年玉という子供の最大の武器を使ってである。がしかし、その少年の理想や夢、空想は、一気に崩れさる歯目になることをまだ我々兄弟は知る由も無かったのである。
「糸ななんにするかのう」
「ルアール(ダン)にするかストレーンにするか?」
「やっぱりストレーンの4号16ぽんどじゃろう。」
ルアールとは、当時ダン社が開発したルアー用カモフラカラーラインだった。
当時はそう抵抗もなく、受け入れたライン=ルアールだったが、それを受け入れた理由は、店主の強力かつゴリ押し気味の薦めと、その価格であった。ある意味それは、古き良き時代の現在でいう一押し商品だったに違いない。
それは“ささき”の歴史を見て来た古びたケースに連結スプールで収納していた。
「ルアールください。」
と言うと、ささきの当時おねえさんはそれを快く出してくれた。そのお姉さんは今では良い御婦人になられたが、末っ子と尋ねた今年(2015)のお正月には、まだまだお元気そうだった。少しだけほっこりと安心した。親子二代でお世話になった。それはそれでとても嬉しかった。ささきのお姉さんは、それなりにお歳を召されてしまったが、その心は和やかになった気がしたのは私だけであろうか?ワームもまだバラ売りされていた。末っ子はそれを喜んで選んでいた。昭和の当たり前の時代からそれは極レアな景色に違いない。
一方ストレーンは、当時DAIWAが主力で展開していたアメリカDu Pont社のナイロンラインだった。所謂輸入品であった為、その価格差は歴然であったが、信頼も厚かった。選択肢がそう無い時代の所謂信頼品であったようにも思える。勿論当時の我々にIGFAクラスの言葉や意味は全くチンプンカンプンであったのは言うまでもないが、その言葉は周りの大人にも解らなかったのである。またその10年前程は、ドラグ機能を使うと言うのも当時はレアなケースであったと思う。ドラグは前ネジだと思っていた私は、周りの大人がそう思っていたからである。DAIWAといえばストレーン。懐かしい時代だった。
はたして意気揚々と当時勝手に最新鋭と思い込んだこのコンビネーションで挑んだマグサーボは・・・・・いかに・・・・。
「あれ、ぜんぜんとばん・・・・。」
「電磁ブレーキがつよいんじゃぁないか?」
「ほうかのう・・・・」
「やっぱりとばん・・・」
「ほんまかぁ?」
「あらほんま・・・・。」
これには言葉を失った。
バルサミノーはおろか、Heddonのタイニークラスも論外であった。
「これは、こわれとんかも・・・・しれん・・。」
「こがあな、ことはないじゃろう。」
「テレビではぶち飛ぶかんじがしたけえのう・・・」
落胆は最大限にして最悪状態だった。
子供二人は、後悔の念が渦巻く。知恵を絞った。
子供ながらに打開策を考えた。それはと言うと、父親がダイワの工場に勤めていた友人にこの製品が不良なのか故障なのかを調べてもらうこと。そして壊れていたら直してもらう。それを実現する為に、その友人に依頼したのである。
当時はおおらかだった時代背景もあり、無事リールは熊野工場へ行った。友人の父親は、検査してくれた。とてもありがたかった。
回答は、というと
「どこもこわれとらん。」
と言う事だった。
「ほんまかぁ?」
「・・・・・・・・・」
我々は、また当然言葉を失ったのである。ああ、あの暗い衝撃は闇夜の一撃な気がした。当時国産最新鋭の超高性能ブレーキ付リールが、私達兄弟の中で急坂を転げ落ちていく瞬間だった。
「つ、つかえん…。」
それで半分諦めた頃、弟はそれなりに何とか投げる事は可能になり、ギリギリのウエイトであるヘドンタドポリーブラックで30㎝くらいのバスを釣った。良くもまあ、高額なヘドンルアーを買えたものである。しかも、どうみても釣れそうもない形状とカラー。無機物間満載のもの。驚きだった。
それから、彼が中学に上がった頃、釣りの回数はめっきり減り、そのままお倉入りする事になった。とってもつまらない部活に追われる日々だったように思う。なんで空手部もボクシング部もないんじゃあ。柔道部ですらない。一体何に入れというんじゃ。
その頃には、勉強もろくにしていないのに受験生と言う名目で私も釣りがめっきり減った。引っ越し先から海が少し遠くなったのもそれを加速させた。自転車では海に行けなくなったのである。
高校時代になると、更にそれは加速して行った。私は、高校の往復等に時間を費やしていった。次第にますます物理的に時間が取れなくなっていった事もある。時代は、子供の沢山いる時代競争というプレッシャーは高校生にも及んだ。とても詰め込みで、受験戦争とやらは加熱して行ったように思う。もちろん予備校は大いに栄えた時代である。
さてリールに話を戻すことにする。
結局のところ最新鋭のダイワファントムマグサーボSS10は、皮肉な事にブレーキもドラグも付いていない私のダイワのミリオネアGS1000cの方がその飛距離が出たと記憶している。
今思えば、最初からヘドンマグナムクラスを使っていれば、より問題は無かった様にも思えるが、誇大広告気味に感じた少年の頃の大人の会社社会のCMの存在は、鵜呑みにしてはならないと学習したようにも感じたのであった。最初からABUを買えば良かった・・・なんて・・・そう思ったが、そのお年玉の範囲では到底届く事のない、大人の高尚な趣味道具だったように思える。それだけ海外品は子供とは無縁のところにあった。
それからの80年代初頭もしばらくは、ABUの開発した自動遠心ブレーキ全盛期がまだまだ最高とされ、その後の機種でも主力であった。しかしながらマグネットブレーキは、より進化を遂げ続け、遂にその座を譲った様にも思えた。
それから30年以上過ぎてみると、それぞれ進化を遂げて今も生き残っている様である。しかも、一番エントリークラスに最も採用されているブレーキシステムになったのである。ここは、当時のダイワ精工の技術と先見の目があったのだろう・・・恐らく。
スウェーデン王室のエンブレムは、高貴で高尚に思えた昭和の50年そこそこである。そのABUも今となっては、興味の対象から大きくその本質を失ってサブのサブとして扱うようになった。ましてやもうABU社という存在はない。単なる買収された1ブランドに過ぎない。ただし、未だ世界一のベイトリールバリエーションの多さから、選択肢の中心にあるのは否めないのが現状である。とりわけREVOは、韓国製だが同社の高級仕様なのはおそらく間違いないであろう。たとえ、それが耐久性に大きく欠けるプラパーツが多くなったとしても・・・である。(ここは、物凄く残念ですが仕方ありません。)
また現在のそれを扱う営業マン達は、そう彼らの看板であるABU製品の事を殆ど知らなくなった事がとても寂しいが、それも時代と共に忘れられて行くのだろうか。
とある若者に「ABUって安もののすぐ壊れるメーカーですよね?」と聞かれ思わず
「そうだなぁ。」と言わざるを得なかった。
亡霊を掴み取ろうともがく子供の私の心とは別に。
北欧の誇り高き亡霊様。
どうか、その亡霊が跡形もなくなりそうな気がしてならない。
南方回帰Ⅴ‐影と闇‐0 ― 2024年11月30日 17:53
いよいよ2024年も、あと30日あまりとなりました。いよいよ年の瀬が迫って参りましたがそれも毎年のことです。千葉も急に寒くなり、外房と言ってもそれなりに冬支度です。それも22年間付き合ってきました。炬燵も引っ張り出してきました。それでも、雪や霜が降りるのは年を越して数度あるかないかになってはきました。
ようやくですが、南方回帰シリーズⅤの編集が終わりました。(といっても完璧ではないので、そこはすみません)あとがきでもまた重複してしまうのでここでは多くは延べません。
それでは、南方回帰-Ⅴ-影と闇のその1からアップになります。序と言ってはなんですが本編及びあとがきに掲載しなかった画像の何枚かアップしておきます。
Truth
Reel SGとSM(2015年撮影)
その後Truthという真実の銘は終わりを告げる
OKUMA
RB20(2015年撮影)
特に意味はないが2015年当時、本編Androsと当時期に撮影した
プッシュボタン式はリアドラグに多く見られるシステムである
おそらく元祖はABU製品ではなかろうか
1990年代から2000年初頭のエントリーモデルを彷彿させる
一応撮影してよかった
南方回帰Ⅴ-影と闇-15その1へつづく

























































































