DOGTOOTH IN RYUKYU-05 南方回帰Ⅰその1 -For Shore Fisherman-VOL1-3 ― 2017年10月02日 17:24
その日、師の第一声は、
「これは(ラインの太さ)細すぎる。」
との意見であるが、ここで巻き換えするには少々やり辛く、そのまま35Lbメインライン(道糸)で決行する事にした。
忘れ去られていたヒメフエダイ(ミミジャー)の画像を追加してみる。
大型のクラスに入るらしい。
何流しかで60cmクラスのオオメカマスをぶち抜き、カッポレも1.5kgクラスもごぼう抜きする。
ヒレグロハタ、晩御飯の一部になった。
味は覚えていないがおそらくK師宅のおかずになったと思う。
美味しいらしい。
カッポレは、地元でも美味しいとされているのか、どんどんクーラーに入っていった。
それから・・・暫くしての夜半も過ぎたところで私の竿に変化があった。
我が竿 1202-UM9XPの先が一気に強烈に入り、とっさに合わせファイトの姿勢に入る。
一呼吸置いてライトタックルパッド(腹当て=ロッドベルト)のピンにギンバルをセット。
負荷が掛かってVS300から、ギーィーと金属クリッカー音を上げながら、ドラグが滑る。
これは、なかなかである。
本命だろうか。
そこ・・・・までは良かったのだが・・・・。
これもあっさり玉砕してしまったのである。
昼間の様には行かないものだ。(昼間でも駄目かも)
日頃130Lbしか使わない師には、理解できないラインブレイク(糸切れ)であると言う。
再度「仕掛けが細すぎる。」
とのご指摘を再度受ける結果となってしまった。
その後宿に帰宅してから、師匠の通常使用ラインは24号=80Lbと言う事が解った。
その日は師匠にとって、日常のおかずが手に入ったと言う事で、外道多数と底釣に関しては満足な結果となった。
いわゆるおかず確保は完了したと言う事である。
そのおかずの量は半端ない。
若者が持ってと言われるが、優に15㎏は超えている。
すっかり午前様で、午前2時を回ってから終了した。
まあ、最初はこんなもんかな。
そう思うしか他なかった。
実力不足も大きかったのだが。
DOGTOOTH IN RYUKYU-05 南方回帰Ⅰその1 -For Shore Fisherman-VOL1-4 ― 2017年10月05日 16:28
次の日の釣りは
おきまりのアオチビキであるが
あくまで外道である。
大型のものはメートル越えのこいつもなかなかのファイターである。
翌日は師は仕事があると言うので、友人(元島人)と2人で開始することにした。
師匠の指導と指摘を受けて、本日は80Lbラインに巻き替えてある。
少しずつではあるが、理解度は上がってきた。
はやり郷にいては郷に従えと言う言葉は、あてはまる。
やはり本日も夜半を回り南十字星が煌めき始める。
天の川も観えた頃、”きれいだよ”という友人の言葉に少しだけ天空を観察してみるのだった。
時間が過ぎて行く。
真っ暗闇の洋上を見つめるが。
静から動への一瞬。
高速でケミホタルきが移動して行くのが見えた。
なんの前振り無しにヒット!
イソンボに間違い無い。
ぐっと腰を下ろしてしてフックアップ。
そして溜めに入る。
80Lbラインが出始めたころ、なんとも聞いた事もない糸の出方に戸惑う。
それからいくらもたたないうちにラインがバチンという音を立てて切れてしまった。
これには何がなんだかわからない感じで闇夜にはとてもびっくりな出来事であった。
「えっ??」
またまたあっさりの・・ラインブレイク(糸切れ)。
右が1202-UM9XPとセットされたVS300リールベイルレスのフィンガーピックアップタイプのリールである。
当時最高級品であった。
これはラグサーのクラックと言うリールがそのルーツと言うのは、日本人の殆どが知らない。
ベイルアームのすぐ上でラインは切れたらしいが、まだ状況を理解していなかった。
なんの言い訳も出来ないまま ラインがベイルアームに何度も絡んでいた度に、手探りで解いていたのだが・・。
この時はその傷も確認しなかったばかりか 勝負に移るやいなや1R完全予告KOにて・・・勝負あった。
流石にVS300リールのベイルアーム無のフィンガーピックアップ機構でこの闇夜では日頃あり得ないトラブルに見舞われた。
信頼の信頼リールと自分の技量の不甲斐なさにも少し呆れ気味であった。
悔んでも仕方がない程、こころも粉砕された。
画像は、同じフィンガーピックタイプのPENN 706Z USA製
1996年頃購入のもので、 このような感じで絡んでいたのは全くのNGの極みだったと思う
VS250オリジナルUSA製 98年頃購入
その後はジグに変えてキャスト&リトリーブするもヒットは無く断念した。
その日もアタリは、その1発きりだったが残念と言うには余りにも情けない話である。
そして暫くしてから、友人の竿9Pが勢い良く曲がって溜めに入った。
ガーラ(GT)らしきアタリにて、竿をかっちりと溜めると少々踏ん張ってみる。
今度は、数分の攻防にてなんと、痛恨のフックアウトだった。
なんとも力量不足である。
DOGTOOTH IN RYUKYU-05 南方回帰Ⅰその1 -For Shore Fisherman-VOL1-5 ― 2017年10月10日 17:08
夜の磯は、なかなか思うようにはいかぬもので、結果ばかりを追い求めてもそう簡単にはいかないものだと改めて認識するしかなかった。
もちろんそれが、日中であるからと言って簡単に行くとは思っていないが。
当たり前だか、どこか一点でも詰が甘いだけで勝負にならない現実を突きつけられて、ただただ現実を受け入れて明日への課題としたのであった。
甘い。
全く甘いのだ。
受け入れ難い事もまた真実として受け入れる事が勝負の始まりになるのであろうか。
真剣勝負での負けは、即死であるが、その真剣勝負でなくて良かったと思う。
頼りないライトで引きあげる事にした。
そうこうするうち、もう最終日になってしまったのであるが。
翌日
この日も師匠は、ボトムに徹して入れ食いモードである。
おかず釣に徹しきっている。
既にもうトータル20~30㎏は釣っている。
一体誰が持ち帰る事になるのだろう・・・・。
師匠は、その手を緩める事なく、ひたすらオカズを釣りまくる。
一方私はというと、イソンボ一本に絞ってトライする事にする。
緊張の最中
連日の、ブレイクに緊張感が常に付きまとう。
「来た!!!」
やはり一気に持って行かれ、ギュンと竿が撓る。
空かさずそこはフックセットする。
溜めに移行して今度は上手くリフトアップする。
(んん、なんか違う引きである。)
師は「ああガーラだ,ガーラ。」
と一言にて、 そのまま5kg弱のGTをこれまたギャフの出番無しのゴボウ抜きにかかった。
GTにもイソンボにも島人にはあまり関心のない魚ではあるが、私の中では今回の外道最右翼である。
サイズはGTというには申し訳なさすぎるが巨大メッキと言ったほうが適正なのは否めないのである。
その後もオオメカマスの中大型がヒットするが、それを暫く泳がせながらゆっくりもたもたしていたら、いきなりドラグがでて外れた。
“えっ?”
仕掛けを 回収してみるがオオメカマスは、鮫かイソンボに喰われて頭から下は無い。

この喰われ方からしてサメなのは決定的なのだろうが、夢は消えていない。
この日最後まで粘ろうとしたが風が次第に強くなり、課題を多く残して納竿し終了となった。
その6へつづく
DOGTOOTH IN RYUKYU-05 南方回帰Ⅰその1 -For Shore Fisherman-VOL1-6 ― 2017年10月12日 16:33
なかなか辛いものであるが
これも旅の趣
ほぼ4日間毎日2時間睡眠程度にて久々に釣りをした。
島は観光客が他島に比べ少ないが、それでも多くなったそうで島人は少しだけ戸惑いを隠せず商売っ気ムンムンの内地の人は、 それなりに今風の商売をしている。
今回のガイドを務めていただいたK氏は、F先輩と東京で仕事をしていたそうだが、島に帰島してからイソマグロにトライし始め、独自の試行錯誤の末、今のシステムに辿りついた。
それが確立したのは、もっともっと後の事だが、
F先輩の話によれば、まだまだインターネットもない。
離島からの通販は、困難を極めた。
そんな中での苦労は、今現在では考えられないほどその道のりは遠い。
それには、どれだけの失敗があったか。
掛けるところから、取り込みまでたった独りである。
何年も、かかったそうである。
そんなこんなで、トータル2t前後は釣ったそうで脱帽である。
その内容は次の南方回帰Ⅱ Ⅲでも記載している。
今は仕事に追われて、年齢も積み重なり、次第にイソマグロ狙いの釣も減っていったとのこと。
内地からはロウニン狙いで長期泊り込みの方もいて、3点式のロープワークをメインにした嘗て全盛期のあった釣りサンの「巨魚フィッシング」路線を持続しておられる方も居るそうだ。
素泊1泊2500円、隣は売店にて困る事も無い。
何時の日にかまたトライして行きたい。
望みは捨てず人はまた海に石を積んでいく。
それが捨石となって、いずれかはおおきな堤防になってゆくのかもしれないのだ。
2005年5月吉日(2017年10月12日ブログ版)
その7へつづく
DOGTOOTH IN RYUKYU-05 南方回帰Ⅰその1 -For Shore Fisherman-VOL1-7 ― 2017年10月15日 08:22
それから11年後
それから、何度もこの釣にトライするとは、今さらながら思いもよらなかった事である。
11年と言うスパンはとても短いが、それでも周りの状況も釣も大きく様変わりして行った。
最重要課題でもあった仕掛けの習得と完成は、その後少しずつ改良に改良を重ね、身内ではRYUSEIRIG-KAI(流星仕掛け改)と勝手に命名した。
2015年も多少の改良をしたが何といっても最初にそれを見いだした人が一番偉いと言う事には変わらない。
最初に開拓した師匠には、尊敬の念を決して忘れてはいない。
昨今では、釣りの情報も、それに付随するリグ(仕掛け)事情も大きく様変わりしてしまい、さも一から自分で作り上げた最高傑作風に紹介する風潮は、流石に如何なものかと思う。
それは、守・破・離の3原則に反している事は明白であるのだが、そもそも、その理屈などどうでも良いと思っている輩には到底理解できない事かもしれないとおもった。
その後参加する事になったJUNNやSYU、監督は、その先人の恩恵を多分に受けていると思う。
話を大きくすれば、
その他に於いても歴史の恩恵を受けている現在の我々は、その英知の結晶の恩恵をも受けているのである。
なんと言っても便利になったのは、ライト(懐中電灯)である。
師匠達は、単1アルカリ電池4個入りの豆電球懐中電灯に背負い籠無しのスタイルだった。
私自身もこの非常に重いライトに電球がこの頃くらいまではメインだった。
(思えば皆さんナショナルの白いヘッドライトを買ったものであるが私もこのころまでまだ家に転がっていたと思う。この辺りの話は、ある程度の経験のあるアングラーは皆さんご存知で懐かしいところかと思います。)
それから20ルーメン程度のLEDライトも導入し始めた頃である。
2015年時点では、通常の普通クラスの少し上の280ルーメンを使用している事からすると想像を超えている。
また交通に関しては、航空事情が大きく異なってしまった事である。
これには当時からするととても悩みの種である。
それだけ9・11の影響も大きかった事になる。
そして2015年は、世界でも激動の年となった。
師匠は、2015年時既に完全に磯からのイソンボ釣をリタイヤされてしまったが、その目は決して衰えてはおらず、まだまだ先を見ていたようであった。
こと釣の話となるとその皺の奥にある目を輝かせておられた。
この引き際は、言葉に言えないほど武人であると思う。
引き際の難しさは、先輩方が良く承知の事であるのであえて割愛させて頂く事にした。
この間にも師匠のお父さんも既に100年の人生を超えられた。
一旦話始めると止まらない性格は、先祖代々なのかそれとも個性なのかは解らないが、師匠も師匠の父上もその妹様もとてもお話の好きな方であった。
何時までも人は若くはない事を、若いアングラーに無駄とは解っていても話をしてしまう。
それは、彼らにはきっと将来がある筈だからである。
一時の勝手に作り上げた名声など、ほんの灯にさえならないまま、忘れられ、消え去る事を知らないでいるのは、あまりにも不憫でならないと思う親心からかもしれない。
経験値に裏付けられた実践度を尊重して行かなければ、我々に明日はないと思う。
最後になるが、この釣り紀行を続けるにあたり、10年以上も悩み続けた一番の課題は、釣りをしない人には全く理解されず、チンプンカンプンと言われて困ってはいるが、釣をする人対象なのだから、まあいいかというつもりで書き続けて来た。
だが、そこに落とし穴はあった。
釣をしている人と言う大きな括りでは、既に全く理解できないと言う釣り人の意見があったからである。
よくよく思えば2016年の時点では、釣専門誌、とりわけ紀行文等々メインの書籍と言うものは全く持って皆無に近くなっている上に、それを皆求めていない時代にネット上にそれに近い内容を記載してみても良く解らないと言うのがごもっともの様な気がした。
小学生の頃、無理して、釣り雑誌“フィッシング”を読んだのを思い出した。
それでも、当時の私(同世代)は、その意味が少々解らなくても、解ろうとして必死だったのかも知れない。
師匠譲りのトリプルラップデザイン。
苦労の果てには、その幸せを願う職人魂がある。
どうか良い釣りをしてほしい。
人生にとって良い思い出と共に。
2016年1月4日追記
2016年1月8日追記並びに訂正
(2017年10月15日ブログ版)
おわり
BLACK DRUM IN NJ-06(00)-1 ― 2017年10月16日 13:42
BLACK
DRUM IN NJ-06(00)
その巨大ニベとは何か
それはもう過去の事なのか
過去は、未来に繋がらないのか
過去の事は、記憶と共に既に消えてしまいそうになる。
その時間と空間の超越の中には、どれだけの記憶と言う思いがあるのか、残るのか誰も知らない。
その消えかけた記憶を辿る事は、人生に於いてそうない。
なぜならそれは薄らいで消えて行こうとするからだ。
そんな歴史の刹那にも現実がある。
左からCT-591-4xp 16Lb、MOON-701FTS-16
701-LB5pと701-FTS-20
乗船前に撮影
なんとも雰囲気が良い港はその奥が湿原になっていた。
ワンドの水路になっていて、60cm程度のストライパーがライズしていた。
小型ポッパーなら掛かったに違いない。
ふと、思った事がある。
昨今の釣り事情は、アカメという限定された地域に生息する魚も、多くの露出環境に出くわすようになった。
同時に日本最大級のニベ科の魚、オオニベの釣果を同じく多く目にする事にもなった。
勿論ニベ科と言っても案外とその種類が多いと思うのだが、この(日本に生息)オオニベが世界最大種だと思っている人が案外多い事に以前から気になっていた。
それで急に思いだした。
釣紀行を始めたのはいいけれど、その半分いやそれ以上の釣りがそのまま記載される事もなく、時が過ぎて行った事である。
そもそも、釣り紀行のUSA第二弾は、このブラックドラムにしようと考えていたにも関わらず上記の如く、結局はそのままになってしまった。
当時は、ドラム釣行2回目の事もあり、撮影スタッフも助人で参加してくださった。(その道のプロ)
当時としては、まあ個人、零細レベルとしては、良い出来のDVDまで作製できた。
そのような事もあり、それで満足してしまった感もあってか紀行文も書かずに終わってしまった感も否めない。
また、いずれ工房月サイト内でこのDVD紹介をするつもりもあったので、紀行文は必要ないかとも思ったりした。
全くもって、暫く保留にしているうちに今となってしまった。
それも暫くと言うにはおこがましい限りで、既に10年と言う歳月は、一人生なのだから。
それでもよく紀行文に加えようと思ったのは、これ幸か不幸か。
その記憶は、かなり飛んでしまったが書き始める事にした。
既に忘れ去られた感も否めないまま。
その2へつづく
BLACK DRUM IN NJ-06(00)-2 ― 2017年10月18日 15:57
-9.11前夜-00
あの衝撃は止まらなかった。
そして癒える事はない。
2000年時のファイト中のアナログ撮影のファイトシーン
なんとかかんとか 写真を見つける事ができた若き頃の私
後にも先にも再生可能なのはこれを含めて数枚のみだった。
ロッドはLamiglassだったと記憶している。
右端の若者は、確か大学生と言っていた。
バイトで乗り子をやっていると聞いたが、魚に関心があり彼の専攻は海洋学だったと記憶している。
リールはPROGEAR220と思ったがほんの僅かにハンドルとリム部分が見える。
当時、北米の釣りに関心のある日本人は、殆ど聞いた事が無かった。
我々の情報としては、開高健のサントリーの宣伝で「NYでストライパーを狙っての釣り」くらいで、それが記事になったりしたかは定かではないが、確か何かの連載か記載分であったかもしれない。
御関心のある方は、開高健記念館を訪れてみると良いと思う。
検索すればあっと言う間に辿りつく現在とは、かなり事情が違っていた頃。
日本では、それほどPC環境(ネット環境)は今程でもなかった。
ブラックドラムとの出会いは、正にその時の6月だったか7月だったか記憶にはない。
当時、友人から突然Chesapeake bayにて御誘いを受けて訳も分からず参加したのが始まりであった。
画像に出てくるPROGEAR REELは1990年代から存在していたがまだまだ元気な頃だった。
誘われるままに、経験をとばかりに参加したのだが、今思えばかなり恵まれた事であったと思う。
しかしその時は、アタリが数回あるだけで、魚を掛ける事ができなかった。
そこでと、アメリカ人なりの最大の気遣いを見せてくれた、同行者がフックアップした竿をわざわざ私に渡してくれた事である。
当時は、自分が掛けた魚でもないのでそれは良くない事と言うイメージをもっていたが、その後は一転、一気にその思いを払拭させてくれたばかりでなく感謝さえしている。
その気遣いは、ある面本物であったと思う。
毎日の事と一生に何度あるか解らない事柄について、それには大差がある事と思う。
人生に於いてチャンスは、必ず誰にでもあるが、それをモノにできるかどうかは本人次第という事なのであろうか?
また、上記画像にあるそのクル―の青年は、“フィッシュフィーレカットサービスをしましょうか?”と同船者に聞いていた。
同船者の一人がそれをお願いしたのを見た。
魚は、彼がオイルストンで綺麗に磨がれたナイフで彼なりに綺麗に下していたが、背中の切り身だけがカットされていった。
下ろし方も、面白いもので、魚と立ててから背中にナイフを縦に入れていった。
当然ながら日本人とは感覚が違う事と思った。
この画像のドラムは、私が血抜きをしたが、それを彼は真剣に見ていた。
なぜ血抜きが必要かも聞いていた。
とても真面目な海洋学部青年であったと記憶している。
何処にでも熱心な人は必ず居るものだ。
またその逆もしかり。
その3へつづく
BLACK DRUM IN NJ-06(00)-3 ― 2017年10月23日 08:42
その後聞いた話だが、クル―(乗り子)の収益の殆どは、釣りの補助サービスとこのカットによるチップがその殆どだと知った。
そんな2000年の初夏頃の事であった。
郷にいれば郷に従うと言うことわざをそのまま実践したが、それが今に繋がっている事を考えると感謝としか言えないのである。
また当時は、既にPCはかなりの勢いで普及していたが、まだ私は所有していなかった。
よって撮影は完全アナログ撮影のみで殆どその写真は見当たらなかった。
確か2、3枚は撮影したように思えたのだが・・・それを見つける事ができないでいる。
必死の捜索の甲斐もあって、翌日なんとかそれを探しだす事ができた。
これ幸いとスキャンしてみるが、ここまでくるともうアーカイブスになってしまうのは否めない。
早速 これもスキャンしてみた。
今思えば、まあまあの型だと思う。
これが、全く、もって人が掛けた魚で、やり取りだけさせて頂いたという事なのだが記念撮影までさせてもらった。
何とも、当時は微妙な気持ちではあったが、今思えばそれはそれで良き思いでとなっているし、その後の釣り仲間とか友人とかと言う関係を根底から考えさせられる事のきっかけになったと思う。
世界は広いと思った時代であるし、当時北米に釣に行く日本人は確かに存在したが、とりわけブラックドラムとなるとそれは極端に少なかったと思う。(当時私の知っている人の中では、皆無だった。)
その後、このドラムと言う魚を再びトライする事ができるとは想像すらしていなかった。
なにせ、その海は、日本からかなり遠い大西洋の話だったからである。
ただ、明日があればいつかはチャンスがあるかも知れないと思った。
それは、希望すればすぐ近くに案外あるものかもしれない・・・・・・・・・。
現実はそうはいかないと言うけれど、確実に世界は縮まっている。
1998年頃購入したPRO GEAR 251 とLAKE LNAD社のトリガーシート。
漢のリールといわんばかりの無骨さと存在感は、当時のどの国産リールにも無かった。
レイクランドのシートは全く耳にする事は無くなったが、それでもこの存在感とデザインは捨てがたい。
BLACK DRUM IN NJ-06(00)-4 ― 2017年10月25日 12:42
2006年の初夏
それから6年と言う歳月が果たして長いのか短いのかは本人が決める事なのかもしれない、そんなつい最近の10年前
筆者にとっては、2000年当時が初めての北米大陸であり、見るものはすべてアメリカンであった。
世界の大国の前には日本は中国の一部と言い放つ米国人もいた。
なんとも残念であるがアメリカの教育レベルの差はかなり大きい。
(決して教育レベルが低いと言っている訳ではなく、格差レベルが違い過ぎると言う事です。むしろハイレベルなところでは太刀打ちできないほど秀才や天才は存在する。)
それから6年経ってからの2006年、再びチャンスは訪れた。
お客さんの一人が、ドラムツアーでかなりの大型を含んで好成績を上げたから、君もトライしてはどうか?
と言うのがチャンスの始まりだった。
思い立ったら・・と言う行動力だけは、当時まだまだあったに違いなかった。
それには、若さも必要な事のひとつだと今は思う。
それにしても、成田-NY間の道のりはとても遠い。
全くもって遠い。
できればビジネスクラスで行きたいものであるとつくづく思ったのである。
せめて現実的には、日本の航空会社で行きたかったものである。
そして、あの大国は病んでいる。
そう思ったが、今現在の2016年の世界は何処も病んでいる様にも思え、我が国もその一つには違いないと思った。
今回のこの初夏は、Cape may NJ で再びこの釣りを実現する事になった。
その段取りの全てを友人にお願いしたので、これまた大変恵まれていた事になる。
友人には、大変感謝している。
当たり前の様で当たり前でない。
真の友人とは、真に良いものである。
当たり前と思っていた、思いやりや心遣いが出来ない場合が増えたように思える我が国のそれとは、違うのか。
あっているのか・・・。
これから、その当時の事を記憶している範囲で簡単に述べたいと思うのだが、何せアナログ撮影の為、良いショットがなかなかないのである。
それでもリバーサルフィルムを4本近く使ったのだが、そこから興したスキャンも今と比較して断然劣っているし、本当に良い写真を撮ると言う事に技術やチャンスが必要だった事に気づかされるのであった。
ボートに乗る前に近所のサーフでのんびり、クローカー(イシモチ)釣と決めた。
それにしてもとても美しいサーフだった。
外房よりも自然である。
見えている先のテトラの堤防を目標に皆で歩いた。
気持ち良い初夏だった様に思える。
途中カブトガニの空が落ちていた。
また、それが釣れたりして笑った。
ここでは天然記念物ではないらしい。
BLACK DRUM IN NJ-06(00)-5 ― 2017年10月31日 16:34
これが東海岸に生息するクローカー。日本に居るシログチに良く似ているが別種である。いわばアメリカイシモチ?なのか?
さほど遠投せずとも釣れる。美味し魚らしい。
そして、バケツに入れていた隣の親子は、それがいっぱいになると帰っていった。
親子で釣りとは、また健全な時間であるとも思えた。
ここは世界共通な普通にある、小さな幸せなのかもしれない。
その後NJの韓国料理屋さんで、焼き肉を食べた際、このクロ―カーの丸揚げを食した。
確かに、白身で淡泊、日本ではシログチに近い味だった。
美味しい。
初日
終わりよければすべてよし
なんて言葉もあったかな
ただし、これは良ければの話と言う事になる
高速で何時間も走った後、時間があると言う事で、立ち寄ったタックルショップで“クローカー釣をしたいのだけれど、何処ですればいい?”
などと友人が聞いてみるが、なんともそう簡単には教えてはくれないのではないかと思ったが、それなりに親切に教えてくれた。
勿論、餌はブラッドワームを30ドル位購入したが、昨今の日本ではそう詳しくは教えてくれない方が多いのかもしれない。
そこは、懐の深さと言うかアメリカの限りないと思ってしまう、フィールドの多さとポイントの多さの現れなのかと思った。
そうあくせくせずとも、魚影はすこぶる濃い。
流石に何処にでも大漁という訳にはいかないが、そのフォールドの豊かさは日本ではあまりない。
16時がチャーター集合時間なので午後までゆったりと釣をしたが、何ともこのクローカーのリグは大ざっぱではあるがそれでも針掛かりする。
隣の親子などはバケツ一杯に30㎝前後のクローカーが入っていた。
所謂イレグイである。
移動して、さて本番初日。
潮を選んで挑むチャーターであったが、まさかのボーズとなってしまった。
これには、流石のCapt. Bobも困まった顔をしていた。
それらしきアタリはあったものの、全くのボーズで外道のDogfish(サメ)に齧られた程度だった。
キャプテンの話によれば、このサメは美味しいそうである。
(どちらかと言うと食用にされるホシザメに近い。)
期待はいつも大きいゆえにその落胆も大きいが、何故か前向きだった。
その夜は、釣りに似つかわしくない、リゾート風のホテルに泊まった。
友人の話では、いわゆるモーテルや民宿や日本で言う船宿は近くに存在していないと言う事だった。
その日は良く寝られたかどうかは、全く覚えていないが往々にして私は、床が変わると寝られないタイプである事からきっと数時間眠った程度だったと思う。
この町は、NY、NJのそれとは全く異なり、とても美しかった。
とても落ち着いていて、日本人でも快適に思えた。
あのゴミ臭さにいささか滅入ってしまう、NYのチャイナタウンのストリートやゴミがあらゆるところに散在するNJの街とは少し異なっていた。
美しいアメリカ東海岸と言う言葉がそのままに思えた。
眼覚めの朝食は、ビュッフェスタイルで、果物が沢山盛られていた。
この果物達に罪はないのだが、どうしてこうも味が薄く、香りがないのか、スイカとメロンには手が出ない。
それでも野菜代わりになると思って口に入れるが、とても美味しいとは言えなかった。
これは毎度の事である。
野菜も何故だろう。
味が無い。
不思議なのはそれだけでは無かった。
卵に味がないのはなんでだろう。
これまた、飽きのこないと言う言葉の反対で全く持ってすぐに飽きてしまう。
いくら、ソフトドリンクフリーと言ってもあの1000mlサイズかどうかも忘れたが、おばけサイズのカップを何杯でもと言われても全く気が進まない。
固形物が食べたい。
しかも新鮮な野菜が。
と言う事でMにて、サラダセットなるほぼ草のものとドリンクのセットにした。
ドレッシングとチーズ味しかしなかった。
それでも不快になるのも面白くはないので楽しむしか方法はない。
なんと言っても世界一を誇る超先進大国らしいから。
味覚だけはこの国では退化しているのではないかと思った程である。
なかでもジャンクフードと揶揄されるMは、それでもある一定のレベルの安定したものを提供している。
(安定と言う言葉には、高い安定と、低い安定と様々であるので、そこは個々人にお任せ致します。)
その6へつづく