残暑お見舞い申し上げます ― 2022年08月08日 20:30
南方回帰Ⅳ-影と闇と残光-1 ― 2022年08月14日 10:55
南方回帰Ⅳ-影と闇と残光2014
Fishing from rocks near the shore of the ocean
何が影で、それが闇で何が光なのかも明確ではないにも関わらず人はまた求め、従う
定めが何かも、その光がなんなのかも、判らないのに
人にも必ず光りと影はあるのだろう
現代(2014年)になっても、世界はまだまだ混迷の中を彷徨い続けている。我々は、時に宗教など関係ないと言う。しかしながら現実は、それが火種になって今も人々は争い戦い続けている現状なのである。
一体彼らは、なんの光を求めているのであろうか。
それが事実として即動画に公表されてきて、殺戮や処刑ですら動画の中の事だけのように錯覚をしてしまう。
そこには、闇の中の更に地獄のような闇が待っているのではないかという不安に集られるのは私だけでは無い筈であると思う。
21世紀になる現代なのに、紀元前からの確執はまだ解決していない様である。
南方回帰Ⅳ-影と闇と残光2014-2 ― 2022年08月22日 16:09
南国とは言うが・・・
そこにも冬と言う季節がある
また、春夏秋冬と言う四季があると言う
島人にとっては、この冬もそれなりに寒いそうである
南国の真冬
縁側から外を見る風景
日本の遥か南の島国がまだ琉球を名乗っていたころの西暦1500年、八重山の島で武力蜂起して殺害されたと言われる彼は、一体何を考えて何を思って処刑されていったのか。あまりにも明確な資料も残っていない為にその人物像は、まちまちである。一説によると、その身長は180cmを超え赤毛であったと言う。しかし、真実は永遠に闇の中なのかもしれない。最後は、田んぼの中で隠れていたところを刺されたとも言われ、あっけなく討たれてしまったらしい。それでも、英雄は英雄なのかもしれない。当時の琉球王国政府からすれば、反旗を翻し治安を乱す反省力で討伐対象であったに違いないが、圧政に苦しむ八重山の人にとっては、それを開放に向かわせようとする正義の英雄という構図だろうか。それも置かれる立場によって大きく変わってくるのは他の戦争や紛争と同じだろう。
我が国も過去の歴史には戦争が繰り返されて来たが、恐らくはその戦火を免れた国など世界の何処にもないのかもしれない。
毎日のニュースは、戦争と抗争、紛争の話ばかりである。そんな2014年も終わりに近づいている。平和をどんなに叫んでいても、世界はまだまだ平和とか平安とかとはほど遠い。
夕闇と竿と海
それは、それとなくまだまだ暖かい11月の末の事だった。
久々に友人に連絡をしてみると
「本日は、大型を掛けましたがブレイクしました残念です。」
とだけ戦友に携帯メールを送った。
その一昔、彼と出会った頃には、まだまだマイナーな連絡手段であったと同時に文字数もかなり制限されていて、なおかつ普及も今一だった。当然、私はそれを所有することも、その手段もなかった1990年代半ばの事である。因みに、携帯等を所有したのはそれから数年後であった。
「平野さん、ドンマイです。」
とだけ返事が返って来た。
たったその一言だけだが、その重みは数多くの実践の中で培われた人間のみが語れる重い一言であったと思えた。
それから一週間が過ぎ去り、そのこともひと段落ついたかに思えたその頃だった。それは、慌ただしい師走に入った頃になるが、その作法の友人から電話が掛かって来た。半年、いや一年振りになるのかもしれない。
「平野さん、元気ですか?」
「はい、どうもお久しぶりです!」
「少し気になって電話してみました。」
「あれからどうでしたか?」
そう、先のメールから数えて丁度一週間が過ぎた頃の事である。
「はい、なんとかかんとか20㎏は獲りました。」
「えっそうなの!それは良かった。」
「あれからどうしているのかと思いましたよ~。」
「あとブレイクが○、フックアウトが○です。二人で。」
「あれ、二人で行ったんですか?」
それもその筈、彼は単独釣行が圧倒的に多かった孤高の人だから、その発言にはまったく無理がない。
なんとも相変わらずお互いにスロースターターな、出だしではあったが、暫くすると徐々に勢いが付いて加速しだした。
あのまた豪快な笑いが聞こえるところを見ると、彼も元気らしかった。
少し安心した。
それはお互いだったかもしれないが。
「今回も、とても良いサイズを掛けたのですがねぇ。今回は魚が止まって寄せて来たので・・あと一息だったんですよねぇ・・・。」
「そうかぁ・・・平野さん、獲れる、獲れないと言う感覚があると思うけど沖で弱らせないと駄目ですよ・・・。」
「今回のは、止まったので獲れると思ったのですがね。あと少しで左に走られて切れましたよ。」
「魚は?」
「はい、いつものイソンボですよ。」
「おお、イソンボかぁ~!」
云々と二人の会話は、久しぶりに20分以上続いた。
彼の心配は次の言葉だった。
「この釣りは、絶滅に近づいていますよ。どうにもならんなぁ~!」
ここで彼の言う絶滅とは、磯釣りと言うジャンルが無くなると言う事では無いのが良く解っていた。彼のようなスタイルの釣りが、無くなると言う事に危惧を抱いていると言うことである。あの孤高で、研ぎ澄まされた心・技・体で挑む守・破・離の釣り。それは、スポーツフィッシングと言う海外から入って来た言葉だけでは決して括りきれないあの、先にある武徳の釣り。そんな事は、日本人にしか解らないのかもしれないが、その日本人で武人と言われる人間が何人いるだろうか。更にその先には、マイナーな釣りと言う事が重なる。
「平野さん・・・まあルアーだの餌だの言っている間は、大型が遠いですよね。」
「まったくその通りです。」
「まあ、それもこれも経験値に比例するので、解る、解らない、の質問は多分にありますがね・・・。」
勿論その言葉の奥には、意味がある。
但し、スポーツフィッシングと言う概念があるだけ欧米社会は、文化的にも先進国と言う事になるのかもしれない。
「IGFAには、餌とルアーの区別は全くないですからねぇ。」
「そうですよね。それは良く知っています。」
何処の団体でも良いのたが、現実に整理されているのはIGFAという米国主体の団体しかないので、消去法的にもそれに照準を合わせるしかほか無いのが現状であると思う。
その言葉をそのままでしか伝えられないのが文章の限界で、その先はなんともしがたく、文豪ならそれを解り易くでもできるのだが、そのような才能は私にはない。あの、日本人独特の空気を読むと言おうかその先の悟りの世界なのか、その気の先の気が流れて行くのを捉える事に集中しながらの会話だったが、それを武人の会話とでも言おうか。
そんなくだりが、過去の映画で、ラストサムライにもあったような気がした。所詮作り話といえばそれまでなのだが。
磯からの釣りには、思うに一種独特の世界観が拡がるような気がする。それは、正に自分を限定された環境のその中に置き、敢えて見出す突破口のような・・・あるいはそこに置かれた不利な状況を覆す程の知恵と勇気が必要のような気がする。
しかもそれは、飛び道具なしの一騎打ち。
飛び道具、近代兵器満載でも命がけの勝負心には変わりはないのである。がしかし、敢えて迎え撃つ場所を決めて死守を余議なくされるのならまだしも、そんな環境に身を置かれなければ、それをしなくても良いのだろう。
しかしながら、敢えてその場所に身を置く釣りも、存在するのだ。時代遅れと言われようが。
そういう磯の作法が絶滅危惧種と言う事にでもなろうかと・・・・思ってもみるこの頃であった。
なんとも不思議で理解しがたい日本の磯という釣りだが、少なからずそれにその持てる力を注ぐ人もいることも事実だろう。そこに横文字は必要ないのかもしれない。孤高の釣でいいのだ。磯は磯であってイソ、英語でISOである。