南方回帰Ⅳ-影と闇と残光2014-32022年09月03日 18:33

 9月にはいりました。残暑だったりしますが、夜ともなればコウロギとスズムシの鳴き声が響きます。自然にそれほど関わることのない人々にとっては、極端は自然現象や天災等がない限りその環境変化には気が付かないものかもしれません。平均海水温が1℃変われば、海洋生物にとってはかなり大きなことだと言えるでしょうか。温暖化よろしく、海の生き物の生息域は年々変わっていくような気がします。
ヨロイメバル
ヨロイメバルです。初めてまともに撮影してみました。たしかにこの柄模様が鎧に見えないことはないです。昔の学者さんは上手くネーミングしたようです。とても美味しい魚ですが、家庭の食卓に出ることはほぼないように思えます。日頃から1匹もののお頭付きのお魚が並ぶことはほぼなくなってしまった昨今です。私が学生時代から次第に魚離れが今後進むと教授が仰せでしたが、それより更に加速しているのは間違いないでしょう。最早、特別なあるいは、廻るお寿司の店でしか口に入ることもないのかもしれません。あれほど大量に獲れたサンマでさえ、そう食卓に乗ることもかなり少なくなったような気がします。このままでは、ある程度のサンマ漁は衰退の兆しがしてなりません。

さてその3へ入ります。

会談

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とは言うが、それはたった二人だけの秘密会議でもあったのかもしれない・・所謂密談だったのかも

しかしそれは今となってはどうでも良い事であり、その事実と内容だけが重要なことなのであろうか

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 1995年頃のこと、そこにはまだ今流行のコンビニの税込100円珈琲はおろか、なんとか黒船○○○バックコーヒーも無い頃のことである。
 それは、とある埼玉県の喫茶店の出来事。そこで彼と二人で行った。あたりはとっぷりと日が暮れて、もうすっかり暗くなり、夜の街を呈していた。場所は良く覚えていないが、埼玉だったように思う。
 紙コップではないちゃんとした陶器のカップに注がれた熱い珈琲の香りが匂い立つその店の名前は、既に記憶に無い。いや、最初から覚えていなかったのかもしれない。そこには、たばこの煙はお互い無かった。
まだまだ若い彼は(私も若いが)、自身に力を示そうと努力していた頃の孤独な釣人だった。
そこで多くを語った。とても面白く、興味深くも楽しい、程よい興奮と交差するその感覚は忘れない。意思疎通も魂の小さな揺さぶりも、そこから始まったような気がする。

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それは、時間にして僅か一時間半くらいだろうか。
同じ匂いのする人間。しかし、全く同じではない。
私は、ねっからのジャンクフード、スナック菓子を良くつまむ。未だにブラックサンダーですら珈琲のお伴である。そこら辺りが、突っ込みどころ満載な私とは違うところだろう。だが彼は、一切それを口にしない。当時は、私も今に比べればメタボ親父と言われる筋合いなど全く持って無い程ではあったが、今は見る影もない。対して彼は、今でも己の肉体を鍛え上げている。
 ノートPCもまだまだ普及とはほど遠い頃で、口頭とアナログな写真での会話だった。それでもとても面白かった。いやそれだからこそ面白かったのかもしれない。その100枚以上の重ねられた写真は、それまでの我ら昭和世代には、極当たり前の情報共有手段だった。一枚、一枚カードを切るように写真を見ては、ずらりと並ぶに並んだロウニンアジの写真を見ては、感心し、感嘆してように思う。更にこの時は云々・・と言う話が続いた。興味が湧いてきて、主義も見えて来て、想像も膨らんで来た。そして、妄想もめらめらと湧いて来たのである。そのフィルムからプリントされた写真にすべての思いが込められているのだ。それは、間違いなく楽しく有意義に感じられた。そんな、1990年代半ばからすると既にもう20年が過ぎ去ろうとしている。思えば、その前の1980年代が青白い感じの燃え始めの頃なので、その当時の磯釣人の先人のカラーは、もう殆ど何処にも存在しなくなったようなそんな気がした。

GTじゃない。」

「平鯵、浪人鯵なのですよ。」

彼も私もまだ20代、若気の至りな感はあるが、熱い空気がいつも蔓延していた彼だがクールなのは今も変わらない。変わった事と言えば、それぞれそれなりに親父になったと言う事だった。以降月日は、確実に年齢を刻んでいる。

それがすべて輝く光であれば何もいうことはないのだが。その年齢と月日は、闇と影を映しだしているのだ。

表と裏、表裏一体。光りがあれば影もあり、闇もあるのは常である。

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その4へつづく

南方回帰Ⅳ-影と闇と残光2014-42022年09月10日 20:15

 9月に入り台風連発ですね。12号が先島海上付近にあります。
毎年のことではありますが、ますますコースや大きさが分からないですね。
 さて先日のこと、後輩が写真を整理していたらでてきたという写真を見てびっくりしました。2000年のアラスカ遠征のことらしいですが、このギンサケの横の竿がとても懐かしく、また苦労した頃を(今も恐らく苦労の過程)思い出しました。
彼の話によれば、その日のロッジ内の大物賞とのことでした。
「リールは知らない。J〇屋のワゴンセールで山積みになっていたものを買った。ラインだけ5号の良いものに巻き替えた。」ということでした。彼らしいといえば彼らしいです。この名もなきジャンクリールの名前を知りたいのですが、この画像を拡大しても解りませんでした。当時のJ〇屋と言えば、ピナクルやシルスター、スズミくらいしか思いつきませんがどうしても解りませんでした。時代は変われど私の汗水垂らしたものがどこかで誰かの幸せに貢献したと思えば、職人明利につきます。当時を思い出すと歳のせいか少し涙も出てきそうです。

シルバーと竿

 それでは、その4です。

師匠

サトウキビ畑


それは、師事されたものの宿命なのか
その重き心の師弟関係に成り立つ人間関係であり、それは決して滅びない

 私は、どちらというと師匠と言う存在には大変恵まれた方だと思っている。当の私の方に才能がある、無いはともかく師匠と言う存在だけは恵まれた。人生の師匠に恵まれる事ほど経験を相続し、勝ち取った徳を積めるチャンスを得る事はない。また、師匠が存在してこそ指導も受けられる。師匠とは、そのような存在と心得る。そこには、自己主張とは無縁の必ず通過する“守”と言う掟が必ず存在するのだが、守のない我流と言う存在は“守”がそもそも存在しないので発展性に欠けてしまいがちで、必ず限界を迎えてしまうのである。それも往々にして、気づかないで終わってしまうのが普通なのかと思う。幸いにして後で後悔しなければそれはそれでいいのかもしれないが、多分にして後の後悔先に立たずになってしまう。それが人生というのであれば、それもまた間違いでないのかもしれない。

 さてもう昔の1990年代初頭、私は旧中村市(現四万十市)の“おかだ釣具”に良く通った。当時は、ルアー釣りがとても面白く感じた時代でもっぱら私の行う釣りはこのルアー釣りであったが、店主の岡田さんは、1970年代から80年代にかけて離島遠征を続けて来た人である。面白ことに、当時から磯竿一本勝負を平鯵(GT)に対して行って来たと言う事がとても新鮮であった。また当時からルアーフィッシングとも言っていたような気もするが、私が子供の頃は、“ルアー釣り入門”とか言う本の題名通りな感じだったように思える。ルアー釣りかぁ・・・と言っていた懐かしい時代である。

「よう行ったもんよ。」

その一言にも、とても重みがあったのをまだ覚えている。過去の紀行にも少し取り上げたが、いつもこの言葉は忘れない。

「死に物狂いで踏ん張ってギリギリの中で、ケツが浮きそうになるのを必死でこらえて・・・・。」

勿論、人間味もあり、情も厚く、土佐の武人の香りもした。たばこをいつも吹かしながらの会話も、いつも数時間にも及んだ。嫌な筈のたばこの匂いも、衣服に沁みわたってしまうけれどそこは、とても居心地の良い場所であると当時に“おかだ道場”でもあり、秘密会議室でもあった。
「釣り有名人?そんなの嘘っぱちじゃあー、おらほの方がよっぽど上手いわー。」
なんとも豪快で痛快。しかも、袈裟掛けでバッサリと、という展開になった。
そうこうするうちに、
「あんたら珈琲のむね?と奥さんがあきれ顔で出してくれた。」
時計は既に夜中の12時をとっくに過ぎてしまった頃。
「もううちは寝るけん。」
そう言うと奥さんは、粘りに粘る我々に呆れかえり奥に吸い込まれるように消えて行った。閉店もくそもへったくれもないとはこのことだろうか。
 そのような店は、もう無きに等しいのではないかと思える程、今は味もそっけもない同じ味のようである。ファミレスかファストフードなのか、味はいつも同じだし、受けるサービスも全く同じである。そのサービスの均一化は、安心感もあるが、ドキドキ感も期待感も何もない。新メニューや限定メニューと書いてあっても特段変わりはない。そこに広島産カキと言う言葉も枕詞みたいに冬ともなれば毎年のように使われるが、それが岡山産となってもまず期待はない。しかしそれは、現代の日本人の多くが、多くの冒険よりも、いつもと変わりない安定を希望しているのか、その方が無難なのか、それらが人気なのも理解できる。ならばこの私が、その小売専門時代の良さをと思っても見るが、よくよく考えてみると当時の岡田さんよりも今の私の方が年上になっているのは、時が流れていてそこには至りきれていないところを見ると、現実はそうは行っていないと言うことなのかもしれない。それは、多少の形態を変えても輪廻していることへの証明なのであろうか。時代とともに大きく変化しているとも言えるのだろう。

それから20年以上が過ぎ、かつては大変貴重であった動画は、極一般的なものとなりその動画も慣れてくると、それからは感動が出て来なくなり、プロモーションと名がつけば色眼鏡になる。そんな時代である。これが更に20年後はどうなっているのだろうか。逆に言うと、誰でも気軽に撮影も公開もできる時代になり、それ自体を商売とする人も増えた。これは世界的らしい。

そんなアナログ時代、土佐守で豪快な師匠も既にもう故人なのは少し寂しい気もするが、順当でまわってくる時系列なのは良く解っている。

 ここにもう一人、師匠がいる。
なんでも話によれば、琉球時代の銘家であるらしいが、政治犯として島に流されたらしい。その歴史は、ひも解いてみなければ全く解らないが当時の主力勢力にクーデター等や反発をすればその結果は、本人が主勢力となるか、その末は抹殺か極刑なのは今も昔も流れ的には同じである。恩歳68歳にして、その父は98歳。そろそろ師匠も高齢に差しかかって来た。そしてこの家を一人守っている。歴史は、常に勝利した側に書かれその主観に属する。正しいとか正しくないとかではない。勝てば官軍負ければ賊軍とはよく言ったものだと思う。それは世界の何処も変わることはなさそうだ。そして、現代もその繰り返しをしているようでもある。負けた側には、すべてにおいて蹂躙される運命なのだろうか。

 数年ぶりにお会いしてみると、その格尺とした背筋と、全く持ってぶれていない発言。そして、容赦ない説教。それは、一見の観光客に対しても容赦が無いのはいかにも師匠らしい。師匠は、そうでなくてはと言う師匠振りであった。しかし、そのような師匠の内心は、とても優しくて思いやりもあり人の気持ちが解る人であり、そして時々寂しい背中を見せる。愛想と言う事だけが、不器用なだけであろうか。そんな師匠は、この島では異例と言ってはとても失礼であることを重々承知の上でだが、“飲酒は身を滅ぼす(飲み過ぎ)とたばこは健康に悪い”は口癖である。そう言うと、普通では無い気がする方も多いとは思うが、元々無医村で多くの先人達をこの2つが主要因で失った経験を持つ師匠にとっては、それが元凶の一要因であることを見に染みて理解していると言うことだろう。今は、ヘリも飛ばせるし、飛行機もある。高速艇もあるので、そのリスクは緩和されてはいるものの、一昔前では、一度倒れれば即それは死に結び付いた時代を知る師匠にとっては、その口癖に変わりない。そんな、禁欲的な師匠を、島の人は変わりものと呼ぶが、私はそうは思わない。ということは、どちらかと言うと自分もそちら側の変わった方なのだろう。

 それで師匠は、今日までたった独りで完全な趣味としてこの釣りを開拓してきた。そして、独りで獲り込んで、独りで運んでくるという途方もない苦労と労力を難なくこなして来た。そんなことを聞くと、師匠には頭が上がらない。これを高尚な趣味と言っても良いと思うが、島の人がそれに理解することは、あまりないらしい。島では、ただの遊びと理解するのが妥当なところであって、本州から来る釣り人など、遊び人にしか映らないのは無理もない。実際、そのような人がこの南の島に流れてくるのは、そういう人が多いのだろう。それをよく昔の言葉では、流れ者という。

 ただ師匠と言う存在は、弟子があってこそ師匠。門下生のいない師匠など意味がない。だからと言う訳ではないのだが、ならば私が弟子になろうではないかと思ったのが2006年のことだった。同じ弟子に野人もなったのであるが、元々従兄の野人に関しては、仕事の師匠でもあったらしいし、その付き合いも50数年にもなるので その点では足元にも及ばない。ブランク【月日は経って】は空けど野人と師匠は、今でも名タッグなのだった。

 さてまた数年ぶりに、琉球古武術風隆道場の再開である。
右拳をぐっとその脇に締めて・・左手は開いて前に出す・・と言ったところか。

 今年、この島に変わった事と言えば、今年はサトウキビが大変不足で雨が全く降らなかった為に島産の黒砂糖が無い。師匠の家に瓶に入ったあの黒砂糖がないのは、少し寂しい。師匠は大変几帳面なその正確で、いつもそこは整理整頓されていて、インスタント珈琲の位置もカップの位置もいつも同じ場所である。インスタントコーヒーの雑味と苦みを感じながらの黒砂糖を齧る事は、今年は諦めた。ちょっとだけほぼ飲むことの無くなったエクセラが欲しくなった。それは、擦りこみのように感じるのだった。昭和のインスタントコーヒー言えば、エクセラだろう。少しばかりの救いは、夏にはひっきり無しと言う観光客が、かなり少なくなったと言う事くらいだろうか。これは、少しラッキーでもある。島は、元々観光には全く力を入れていなかったし、今も半数はそうであろうから静かな日中を取りあえず保っていた。

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その5へつづく

南方回帰Ⅳ-影と闇と残光2014-52022年09月28日 16:51

 あっというまに9月も終わりに近づいてきました。台風ラッシュです。昨今の台風は、豪雨をもたらしてくるというのが大変多くなりました。防災と言ってもいざという時の備えが案外できていないものです。
 そんな中、55年ぶりに国葬が行わました。これは、日本国民であれば誰も知らないことはないことですが、ついつい書いてしまいました。一度政府が国葬と言ったらそれに従うのが日本国民であると思いましたが、どうやらそれを反対する方々がその権利を主張しているようです。裏返せば、それだけ我が国はまだまだ平和な先進国なのかもしれません。国によっては、逮捕、拘束ということもあり得るでしょう。ある日突然それが保障されなくなった時点を想像すると、驚愕と恐怖に恐れおののいてしまいそうです。

イセエビ
 房総産のイセエビ。縁起物としての価値は、エビの中で最高峰なのは言うまでもありません。ゆえに脚や髭を欠くことは許されません。腰も抜けてはいけません。それだけ容姿が重要視されるイセエビです。味は、周知の如くクルマエビがいいとされます。個人的には、クルマエビそしてシバエビが好きですが、天然クルマエビは当然のこと最高級でほぼ口には入りません。シバエビは、子供の頃食べ放題でしたがそれも過去の出来事のようです。

それではその5です。

終夏

のんびりヤギさん


何ともそれは、残暑と言う概念を超えた冬という季節の中の暑さである
このような、冬も流石に珍しいらしい


Tシャツに短パンそして草履姿。
風が少し止んでくると、即蚊の猛攻がある。
思わず蚊取り線香全開してみる。ここに一か所、あちらにも一か所と、四方を蚊取煙でバリアを作る。
 そう言えば5年程前、ベ―プマットの使い方が判らないと助けを求めた若いおねえちゃんがいたな。
マットを敷かずに、コンセントを入れても全く蚊が死なないと言うのだ。これには一瞬唖然としたが、年齢を聞くと19歳と言う。もの心ついた時には、既にその家ではこのベ―プマットは使われておらず、ノーマットの時代だったのだろう。そして彼女は、一人旅という。その旅の目的は、ないらしい。ここが、昭和生まれと平成生まれとの差なのかもしれない。その差は、一人生の中ではかなり大きい。世界広しといえど、19歳の娘さんが一人旅でも特に問題もなくこなせられるのも我が国の特徴と言えば特徴だろう。今のところ治安は世界トップレベルなのはいうまでもない。それが絶対条件に思える。

旅の事務所


ここはまだ夏なのかと思ったが、島の人に聞いても暑いそうなので、どうやら季節に似つかわしくない天候らしい

とにかく暑い冬だった。

少し気になるのは、ヤモリの数が少しばかり少ない様に感じた。
専務といえば旅慣れていることもあると思うが、この島を満喫している様子である。そう、今回は専務と同行である。では、将軍サマはと言うと、彼は臨時の仕事がどうしても抜けられず、今回は延期となってしまった。そこは少し残念ではあるが致し方ない。
 スキあれば攻撃したいと臨戦態勢のこの八重山産の蚊達は、まだまだ元気いっぱいで、おまけにネズミが同じ位置前後に必ず糞を残している。この家は、完全に彼らの住処でもある。

 ここで持参した、UZUのラジエーションシャツが重宝している。
近年の機能性化繊はとても楽であると同時に荷物事情が益々厳しくなる昨今の航空事情に上手くマッチしているウェアである事は間違いなさそうである。しかし師走始めとはいえ、国内でこの暑さとは全く持って想定外であり、冬対策として持ってきた長袖や万が一と持ってきたレインギアがただのお荷物と化しているのは、嬉しいのか悲しいのかと言う感じだった。それでもまた一日が過ぎようとしている。

しましん軟骨ソーキ

その日前日の事になるが、島で“しましん”と言う島人のY本監督がお勧めの店に入った。島で野人と専務とY監督と野人の奥さんとでささやかな晩餐会をした。ギジムナが迎えてくれた。迷わずお勧めの“軟骨ソーキそば”をオーダーした。ありきたりの事になるが、ヘチマやゴーヤ、とうふチャンプルがとても美味しかった。ヘチマは、本州では食べものとして扱われていないようであるが、これが結構いけた。豆腐も島どうふと言うのは、水分が少ないそうで少し硬めであるから、チャンプルにしても崩れてぐちゃぐちゃになる事は無いそうである。どうも家庭でのガスレンジとは火力の差があり、強火で炒められることとプラス苦すぎない島のゴーヤのコンビでは最高である。とても良く口に運ばれて至福の味であった。そして、なによりも気の合う仲間との夕食会はとても楽しいものである。それが永遠に続くと幸せなのかもしれなかったが、それは昨今の状況下ではあり得ないことなのだろう。

僅か90分くらいのささやかな幸せ。
そのささやかさえも得る事ができないでいる国の人々とその世界の情勢は、いかんともし難く、ふと一人になるとそこまで考えてしまう。それが、豊かな国の人々の出来る事の第一歩なのか、それとも単なる同情だけなのかその先はまた分れるところでもある。

 胃袋が満たされると、自然に解散の雰囲気が漂ってきたので我々は、明日の事を考えて早々にお開きにした。そして我々二人は、ホテルに向かった。このホテルはと言うと系列のホテルであって、サービスは均一で、支障のない、本州のビジネスホテルとなんら変わりが無かった。(いやビジネスホテルである)そこは素直に受け入れて明日を待つ事にした。

タングステンカーバイドガイド


タングステンカーバイドガイド
実用性の高いものだが、2014年時点ですでに国内はほぼ存在していない

 その6へとづづく