楽園の終焉Ⅲ-1 ― 2021年03月22日 19:15
‐楽園の終焉Ⅲ-
END OF
PALADICEⅢ-No,1
-GT in Bali
2013-
三度目のウブドの段々畑
定番のレストランから望むがもちろん観光客以外はいない
一体何年探せば、それは見つかるのですか
それは、永遠に見つからないのでしょうか
ふと思えば、物心ついた歳から極楽浄土を教えられ、それを信じて・・・それが・・幼き心を失ってしまうと、それも忘れてしまう。
以来何年何年も同じ様に楽園を探してみるが、そう簡単には見つかる訳でもなく、そもそもあり得もしないものを探す事事態が無駄も極まり無いとはこの事であろうか。
同じ事の繰り返し。
無駄な事の繰り返し。
業には業の迫りくる毎日。
灰の上にまた灰が積って、また雨で濡れて、積って、固まって。
塵なのか灰なのかもうどうでも良くなる毎日。
ああこの有鬱な日々と先進国特有な精神状態。
脱出不可能な、闇と影のこころ。
これがおもてなしの国の片隅にある人の日常なのか。
碧く果てしない海原と皆は表現して言うが、その何処にも幸福など見つける事が未だ出来ていない。
むろん偶然にも落ちている事もないだろう。
この碧いと言う海にも、利害と欲望が渦巻いているからなのであろうか。
その海の中をそんな事などどうでも良いかの如く、魚達その中の老成魚達が、ゆっくりと泳いでいる。
そこには何の矛盾もないのに。
自然は、同じように流れているのに。
太古の昔から。
何の矛盾もおきていない。
矛盾しているのは、我々人間だけなのだろうか。
そのような心と海。
世間では怪魚ブームとからしいが、それはそれで良い事なのかも知れないが。それは、極東アジアの我国の人達が、それだけ地球を小さく捉える環境になっている事に他ならないと言う事なのだろうか。
そして現代に於いては、その気になればいつでも何処でも行ける環境にはなった。
アジアが縮み、世界が縮む。
その事を近くなったとも言うらしい。
それ自体は、とてもありがたい事なのであろう。
問題は、その恵まれた環境をどう使うかにあるような気がする。
身も心もとっても寒い2014年の冬の新年。
言葉の表現としては、‟身の毛が余立つ”という表現を採用したいと思ったのだが、例えの使い方としては間違っているだろうから、‟芯まで冷えるので鳥肌も立つよ”・・・・と言う感じである。
それこそどうでも良いと言われる釣りの世界でも、何処かに真理が落ちているのではないかと"服部博物館"と言う服部先生の本を見てみたり、小西和人さんの"たのしみを釣る"を読んでみたりしてもみるがそこに、その歴史を観る事が出来たが、楽園など見つける事が私には出来なかった。おそらく、多くの釣り人が見る事も読む事のそう多くは無いであろうその本を読んでみる。また、そのような中でも最も読まれたであろう開高健先生のあのシリーズは別格であろうけれども、ヒントすら見つける事が出来ないでいる。ヒントもなければ、打つ手も無い、正に八方ふさがりとはこの事であるが、特段普段と変わり無く生きている今日この頃。開高先生もその苦悩は、多くあっただろうけれども何の解決には至らなかった・・と言うのが結論の一つ・・とも感じられた。
先日、とある機会があり、高田先生からのお話を聞いた。
「若い頃に銀山の宿であった釣り人にお説教をされた」と言っておられたが、その人が開高さんだったと当時の事をお話されていた。私も諸先輩の話をじっくりと聞ける歳には一応なったけれども、所詮釣りは釣り。それ以下でもそれ以上でもないらしい。その先生の内容を要訳すると、‟君たちこのように魚を全て殺してしまって、将来はどうなるのか考えるべきである”云々と言う事らしかった。再放流ということが我が国にはほぼ皆無に近い時代のことらしい。
ましてや属世間の中の更に属の話であろうから。
まさに、ピンキリのキリの話なのであろうから。
そして、時の流れと共に故人は忘れ去られて行くのかもしれないが、何故か最近それがものすごく寂しい事のように思えるのであった。あまりにも寂しい事ではあるが、それも風化と言う点と捉えれば自然の流れなのかもしれない。それは、急速な風化であって数十年後には、語られる事もないかもしれない。
ボロボロと、崩れ浸食されて行く。
ただそれを受け入れ続け、誰も知られないで終わって行くような気がした。それは、気がするだけなのか、実際そうなのかわからないままである。
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