儚き偶像の行方2011-Ⅰ-3 ― 2019年04月09日 20:25
今年に入ってから、セイゴいびりとインガンダルマ(ミ)とか釣った以外は、ほぼ出会っていない。
そうこうするうちに、あっと言う間に4月に入ってしまった。
令和と言う響きがまだ定着していないこの頃。
令和が文字通りであってほしいと願うこの頃である。
職人魂(Craftsman ship)
しばらく、ご無沙汰であった師匠に連絡もせず、その時は突然起こった。
永眠のご連絡を聞いたのは、あの3.11震災後の5月であった。
師匠先生のブログによると・・・。
昨年末ごろから右肩が痛み始めて、仕事はボツボツといった状態であったが、この春先から痛みが強くなり、病院通いを続けていたところ、つい先日、疼きを感じていた部分に筋断裂が炸裂音と共に突発性の激痛を伴ってやって来てしまって、このところ、右手は一切使えない状態となって、服の脱ぎ着も歯磨きも寝返りも出来ず、箸も使えず、字を書くことも出来なくなっていたが、少し痛みが和らいだのか、何とか字を書くことが出来はじめた。
そんな訳で、現在のところ作品を注文いただいている方には、作品をお渡しすることが出来ず迷惑をかけているが、いずれ鎚が振れるまで回復したら、心をこめて鍛えたいと思っている。
だが、元のように回復できないのではないかと心配している。ただ、これまで造りためて来た作品が少しはあるので、その内には、肩の痛みも何とかなるだろうとノーテンキに思っている。
さて、4月に入り四万十も急に春めいて、ウグイスの鳴く声が響き渡るようになった。
河川敷の柳も若葉を広げて青々として来た。ボケの花も満開、黄水仙の花も咲き誇ってドヤ顔をしている。
川岸の道に植えられている桜も満開である。暖かな春風が、一日も早く、東北関東に吹いてほしい。
元気ならば、被災地に飛んでいってお手伝い出来るのに、この痛くて動かせない身がなんともいまいましい・・・・・。
(工房くろがね湧風の戯言4/2より抜粋)
そして、師匠も数々のドラマを残されてご永眠されたのである。
後になって思えば、その2年前の秋に最後に打って頂いた大出刃を打つ時に肩が痺れるほど上がらないので
今後、このような大物はもっと長い仕事期間をください。
と聞いていたのであるがその時より師匠の体は少しずつ蝕まれていたのかと思う。
多くの教訓とドラマを与えて下さった師に深く感謝をしてこの2011年を乗り切る事にした。
そして、消えかけていた若かりし頃の私と岡田師匠との思いではまたふっと昨日の如く思われ、目の赤い魚もすぐそこにいる気がした。
師と師の心は永遠に。
その4深海の怪物へとつづく
儚き偶像の行方2011-Ⅰ-4 ― 2019年04月12日 17:00
櫻はすっかり散ってしまったのに、この寒さは堪えます。
それでは、その4になります。
深海の怪物
Striped Jewfish
深海の魔王とは
果てしなき野望の行く末には、無限地獄が潜むと誰が言ったのかは知らないが、まさに人間の欲望には終わりがないようだ。
蠢く人の群像と偶像は、常に欲望が渦巻いている。
偶像商人の心には、信心など程遠いらしく、一切の責任を負うこともない。
心の闇はいつまでも奥深くに潜み、希望まで闇にしそうになる。
そんな深海の暗い奥底に彼らは生きている。
深海の魔王。
そこには、果てしなく広がる砂漠とその中の大いなる金の小牛。
まったくもってこの世の中は虚栄と偶像ばかりで真実はねじ曲げられてゆくばかりである。
その昔モーゼは何を考えて荒涼とした荒地を流浪したのであろうか。
何に希望を持っていたのだろうか?
紀元前の話は、現代人には届きにくい。
今年はまさに誰もが想定していない天災に苛まれてさらに政治と経済の不安が重なり、もはや窮地の我が国であるが、混乱と混沌ではなく、復興と復活が一刻も早期に成就されるべきであると思う。
天災から人災となったあの惨事は、ああ私の祖母達が経験したあの放射能の悪夢が蘇ってくる。
暑い2011年も7月が過ぎ七夕も過ぎて気温は毎日30℃を優に超して真夏日が続く房総の夏であった。
あの日の8月6日も猛暑であった。
悪夢であってほしいが現実は興り、また過去になる。
それでも祖母達は立ち直って我々がここに生かされている。
いつまでも悪夢を見続ける事の無いように未来はしたいのである。
儚き偶像の行方2011-Ⅰ-5 ― 2019年04月16日 15:30
房総のすべてではない・・と現在でも思ってはいますが、その激動のポイントからその声は聞こえてこなくなりました。
驚いた事は、サビキ仕掛けセットの様に仕掛けセットまで売られたいた事です。
先進国で唯一根絶やし?が認められている我が国も、少しは考えなくてはならないと思ったりもするこの頃です。
おおな魚
おおな魚。
春、菜の花の咲く頃から釣れはじめ、五月末までがシーズン。
標準和名オオクチイシナギ。本州南岸では和深沖の「おおな地」だけで釣れるという。
ある冷たい冬の日。空腹と寒さで疲れきって和深の里へたどりついた貧しい旅僧が、ある漁家で一夜の宿を乞うた。
そのあたたかいもてなしに感謝した僧は「この沖一里(四キロ)、深さ百ひろ(約百五十メートル)のあたりに"おおな"という魚がいる」と言い残して旅立った。
おおな魚は、そのころから釣れはじめたのだ……と。
和深東平見にある大師堂は、さきの旅僧が弘法大師だったと知った村人が、その功徳に感じて建立したといい、旧歴一月二十一日にモチ投げがある。
(和歌山県昭和57年刊「紀州 民話の旅」小冊子より抜粋一部改訂)
房総小湊には、日蓮上人とマダイの話があるがこのおおな魚(オオクチイシナギ)も弘法大師とも縁がある由緒正しき魚?であるかもしれない。
硬骨魚類における大型種はそう多くはないがとりわけこのスズキ目イシナギ科に分類される。
通常は水深200~400mの岩礁帯に生息されるとあるが、最大2.5mに達するともあるがこの多回性産卵型の最大は
3m近いものも存在してもおかしくはなかろう。
自転車のスポークの如く鋭く硬いこの棘条は、これぞ硬骨魚類の真骨頂と勝手に称賛する。
また自国に於いては、古くは縄文の時代から利用されていた記録されているらしい。
地元には過去イシナギ漁というものがあったらしい。
現代の近代一本釣り漁の基本は、勝浦松部の石橋宗吉翁が基本を築いたとあり、イシナギのテンヤ釣りというのもあったそうで、餌にヤリイカを使い誘い(アクション)をかけて釣ったそうである。
(これには、賛否両論があるらしいが、文章に残っているものでしか第三者は資料とすることしかできない)
それから半世紀以上も経ってから、現代ではイシナギ漁はなかったが遊漁という形を変えて職漁まで復活するようになり小さな街に波紋がひとつ、またひとつ。
房総の夏は、やはり暑く変に熱い。
資源管理されることが非常に少ない我が国の水産事情は、かなり遅れた感があるのは、資源管理型漁業や、インターナショナルアングラーを育てるには厳しい環境にあるかもしれない。
また、漁業先進国と言われるノルウェー等からはこの点は大きく遅れている事になる。
アジアではお隣の韓国でも資源管理型漁業が一部実施される方向性にあると聞いた。
我が国の漁業衰退の原因の一つは、管理する機関がないということと、それを行使する権利がない、処罰の規定もないということも少なからずあるだろう。
私は欧米のやり方すべてが正しいとは決して思わないが、この点については、もはやアメリカナイズされた個人主義者と個人の権利ばかり強調した現代教育の行く末の現代では、モラルとかマナーという言葉はもう歯が立たないのが現状ではなかろうか?
その代り自由の国として名高い米国も、多くの法に則っている。
その処罰規定も日本では考えられないほど厳しく、厳格である。
勿論自由の国の闇は多くはあるが、そこは今回触れずにおこう。
その6、血塗られた安息日につづく
儚き偶像の行方2011-Ⅰ-6 ― 2019年04月23日 17:10
気候の温暖さは、心地よいのですが。
そう能天気にいられないのが現実なのかもしれません。
温暖化の波は、押し寄せている気がします。
さて、数年前であれば、イシナギシーズンインですが、それも過去の話の様です。
嘗ての勢いの1/10にも達していないのかもしれませんね。
血塗られた安息日
危険だからと、血抜きされたイシナギを撮影する。
活き〆状態ではあるが、活きた色はもうない褪せた体色
地元市場に無造作に並べられてフォークリフトに吊るされた魚体が次々に写メされて更新され、その異常さには驚愕するばかりであるがそれが、平成23年の勝浦の夏である。
皆活きた魚には関心がないのか、誰も船上で写真を撮る人は無かった。
活きた色、生きた色は美しく、褐色と銀とグアニンっぽい光沢、ストライプを目に焼き付けた後、その死体の竦んで赤茶けた茶色が死体に比例して細胞の死を意味する"死の色"である。
彼らは、ただもくもくと釣るだけである。
そのスタイルに関しては、「スタンディングしかも手巻き!」って、それは一体何なのか、欧米人には理解し難い事であろう。
和製英語は日本人の得意とするところであるが、もはやカタカナ英語は日本語と言ってもよいくらいに融合している。
いくら「"スタンディング"なんて釣りは無い」と言ってみても釣具メーカーのカタログやTVのナレーションにまで記載、放映されるとあっては、もうこれで定着してしまったのだと半ば諦めてはいるものの、間違いは間違いなのである。
"立っている"釣り方であればなんでも良いということなのか未だに定義は無きに等しい。
"電動スタンディング"しかり。
G社もD社も世界進出で安定を築いた、日本の企業なのに、どうしてそうインターナショナルな発想が国内にはまったく反映されないのだろうか?
全く疑問である。
イシナギ等の大型化する多回産卵型の硬骨魚類は、何十年も生きた結果がここまで大きく成長させるのだが。
この暑さと人の熱さが比例しているかどうかはわからない・・・・・。
無造作に並べられる死体を観て感情をあらわにする事もなく、釣り人はそれを見下ろすばかりだった。
まさに私にとっては、更に暑すぎる夏である。
そして彼ら個々人の偶像への爆発は、何時興っているのだろうか?
全く都会の能面。
ストレスというのはどこからでもやって来る。
その答えが感情を表に出さない犠牲との相殺なのだろうかと思う。
そもそもこの大都会の人口の過半数以上は、他県からの移住組なのだから。
そのようなストレスから解放されにこの洋上へと辿り着いたのではなかったのであろうか?
まさに血塗られた安息日の結果であろうか。
巨体と死。
そしてその血の代価は、
一体誰が払うのだろうか。
因果応報とはこの事なのかと思ったりした。
儚き偶像の行方2011-Ⅰ-7 ― 2019年04月27日 18:05
そろそろ我が国も分散を促すバケーション制度があったも良いのかなあ?
とも思います。
未だ有給もろくに使えない企業が多くある日本は、仕事中心社会である事を否定できない。
こんな国は、世界的には異例らしい。
管理人が置かれている駐車場で大出を振って釣りができる港は、そう多くない。
流石に参った様子だった。
撤去はされたが、時々まだコマセの臭いのする袋が落ちていたり、コマセのこびりついたまま撤収する釣り人は多く居る事に不快感を抱く。
おばちゃんの話
血抜き作業中のイシナギ。
その血はどんどん出てくるが。
近くに何年か暇つぶし(釣り)に通っている港の有料駐車場がある。
その管理のおばちゃんの話である。
ここ(この港町)に嫁に来て48年になるという。
つまりそろそろおばちゃんというには厳しくなってくる感じ。
一日いても平日の稼ぎは、いくらになるのだろうか。
また、時化の日は全く収益がない。
おばちゃんは自分の取り分が幾らかご丁寧に話してくれる事もあった。
それでもおばちゃんはせっせとスクーターで来ては小屋に通い、みなさんからわずかな駐車場代金を徴集する。
この間は脚の手術もしたと言っていたが、多少動きには脚を庇いながらの歩行ではあるが元気そうであった。
嘗てはゴミ箱も設置していたがあらゆる人が様々なゴミを捨てて行ったのだが何年か前、管理に困ったのか
大変なのか撤去された。
時には、釣り合羽や長靴、ジャンクな釣竿、紙おむつまで捨てられていた。
もはや、総合ゴミ置き場と化していた。
台風がまだまだ今年は居座っていてなかなか通りすぎないので海の様子を確認がてら駐車場(と言ってもただの広場)に車を停めておばちゃんの小屋にいく。
最近はベッド風になっている板も敷かれていた。
おばちゃんも横になりたいのは頷ける。
「おばちゃん!」
「はい!」
「おばちゃん元気ですか?」
「はい元気です。」
「最近はどうですか?」
「うぅうんとねぇ。」
「なにか今釣れていますか?」
「あのテレビによくでてくる○○さんたちがメジナ釣ってるよ!」とおばちゃんの元気のよい声ではあったが
正直その言葉は、何度も何度も耳にたこができるくらい聞きました。(実際多く通っておられるのだろう)
「アオリもいるよ。」
しばらくの間ネタを調整しつつ。
「○○は釣れる?」
「さあ、最近は聞かないねえ。」
またしばらくのやりとり後
イシナギの話になった。
おばちゃん:「今年はなんでも異常だねぇ・・・」
「この前も、マダイが異常にここで釣れてねぇ・・・今までこんな事なかったんだけど、ずらっと並ぶくらい人が来てたよ。」
「これ見てコレ。」
そう言っておばちゃんは年代もののボロボロ宝地図みたいになった普通上紙に荒い画像でプリントされていた兄さんが持っているマダイの画像を誇らしげに見せてくれた。
(一体春から何人に見せ続けたのだろうか・・・・。)
おばちゃんも持っているその宝地図風の4つに折られた画像は、釣った本人の顔も良くは解らず、辛うじてマダイであろう。と認識できるグレード。
異常な事情に耳を傾けると、イシナギも今まで見た事がなかったが今年は何度も水揚げを見たと言っていた。
「あれ、どうして食べるのかねぇ。」
「あのなんだかとか間違えたよぉ。」
「なんだかって?クエ?」
「ああぁ・・・・・・・そうそうそう。」
おばちゃん今年も元気で頑張ってください。
今年の夏も更に暑そうですがね。
そう思いながら車を近所のお気に入りである和菓子屋に向かわせた。
そんな2011年の台風6号の夏。
それから数えて10号が沖縄に接近しているこの夏であったがそれから真夏日と言われる日が少なくなった。
蒸し暑さには、あまり変わりはないのだが。
悪夢はまだ消えていない夏であった。
全く悪夢な夏と悪夢な夜。
血が抜けるとみるみる色が失われてくる。
七夕過ぎの昼下がりとイシナギ
儚き偶像の行方2011-Ⅰ-8 ― 2019年04月30日 11:40
筆者は、昭和、平成、令和と三時代をまたいでの人生になります。
七月の小さな悪夢
Nightmare of July
多くのバザーが知っていた、SMITHWICK社の悪魔の馬
1982年前後に購入 USA製のウッドルアーであった。
それは、F氏からの突然の携帯電話で始まった。
先日F氏らのグループがイシナギの50数キロを釣ったそうである。
どれどれと早速サイトを確認してみると、
確かにブログ上には吊るし上げになっている大きな魚体が乱立されていた。
まさに非常事態宣言改め、異常事態。
F氏の話によれば、頭部および内臓は、その後港にれっこされたとの事を聞いた。
ノッコミとはいえ、ここまで連発するとは、船宿さえ想定できなかったのではなかろうか。
ここ勝浦では、午前船と午後船とがある。
他の地方では、午後船は無いところも多い。(もちろん他地域や釣りものによってあるとは思う)
「明日どうですか?」
と急な話ではあったが、それを承諾した。
心の憂鬱とは裏腹に、のんびりと午前10時半頃港に着く。
丁度船が帰ってきた。
あろう事か皆クーラーというものを持ってきてはいるが、明らかに入るはずもない。
頭と尾鰭を半分以上はみ出してなお、あり余り状態でそれを納めるには、到底可能とは言えない無理な話である。
イグロの160(クーラーボックス)でも35kgを超えると入りきらない。
イシナギは、目方の割に案外と全長が長く、この160サイズでは中小型しか、入らない。
最初から入らないつもりで持って来ているのかどうなのか意図も解らないが、‟とりあえず無いよりは良いだろう"という考えなのかもしれない。
でも簡単には頭も尾鰭も落とす事はできないのである。
驚愕したのは、軽自動車バンの荷台一杯に毛布で包んで行く人もいた。
これはかなり危ないと思ったが、3人がかりでくるくると巻いて軽自動車に斜めに入れた。
60kg強サイズらしい。
一歩間違えると、遺体にしか見えない。
いやそのものに見える。
氷も効かない状態で社内をエアコンでガンガンに冷やしてもたかが知れている。
どの程度の距離なのか解らないが、帰宅した頃は腐敗臭がしていそうだった。
その結末は、想像がつく。
キープするなら、その後もちゃんと考えてほしい。
言葉を失って見学していた我々2人であったが、気を取り直し、船に乗り込んだ。
F氏と顔を見合わせて、「あれ、大丈夫なのかな?」
と言ったのであるが、後の祭りという感じ。
梅雨明け間もないという感じであったがとても暑い。
湿度もこれでもかというほどありそうだ。
猛暑が訪れる気配を感じながら、肌露出部分に日焼け止めを塗りまくる。
汗は滴るも、船の進行によってもたらす風が少しだけ気持ち良い。
イシナギ釣りとは言ってもその大半は、餌であるスルメ(ヤリイカ)釣りがその半分程度の釣りとなる。
そのスルメが釣れなければその時間はさらに延長される。
それでも釣れない場合も考慮して、生か冷凍のスルメを購入しておくが、余りにも釣れない場合はその購入したスルメが餌の主力となる。
他泳がせ釣り、ライブベイトの釣りも我が国では、殆どがこのパターンとなるが、下手をすると餌釣りの時間のほうが長くなる可能性もある。
今日もそんな雰囲気が匂ってくるが、2時間以上もかけてやっと一人数本のイカを確保した。
水温は23℃以上あり、スルメの泳層は水深120mとその水温差は10℃以上となって当然スルメに負担となる。
「はい、ポイントに着きました、では投入してください。」
とのアナウンスを待って投入を開始する。
フックは、孫バリを使わないネムリ針のタフムツ35号にスリーブ止めのシンプルな仕掛けである。
ハリスは、YGKのFC130Lbを2m強ほど取る。
ほどなくそれぞれ餌を投入して、一流し目となる。
サミングを入れながらボトムコンタクト(錘の着底)に集中する。
ボトムコンタクト。(着底)
空かさずリールクラッチをいれて、ボトムから2mほど巻き上げ。
船はゆっくりと流れる。
釣り船としては割と大型に入るこの船のローリングは小さく、安定してなかなか良い感じがした。
投入してすぐに、棚を取るとゆっくりと船が流れる。
しばらくするとコツコツと小さな前アタリ。
"奴だ。"
コツコツというアタリは、実際あの大口にあの魚体でどのようにつついているのであろうか?
疑問である。
心の焦りと偶像と不振と緊張とかぐるぐると回想し始める。
早く"合わせろ"と言う逸るこころが蠢く。
そのコツコツと言うアタリは、次第に重みのあるゴツゴツというアタリに変わり、緊張感は増幅して行く。
しかしヒット宣言にはまだ早い。
ここでいつも思う事は、この大胆不敵な面構えとは異なって細かいバイト(bite)である。
手持ちのロッド(661-TUNAp)から手元まで伸すような引きこみを2度3度と耐えて逸る気持ちを抑えてみるが、いつも早合わせで乗り切らない、或いはバレル事が多々あるこの釣りは、ここまでが一勝負一苦労となる。
同船の方々は、孫バリ仕掛けを多用しているが私の仕掛けは1本針であり、サークルフックである。
クラッチの入った状態で、ドラグが滑るくらいに溜め切って大きくスゥィープフッキング(アワセ)。
「乗りましたぁ!」
※画像カットしました。
やっとの1枚、これも一旦はボツになったのだが
他に全くないので仕方なく採用した。
ヒットコールすると、空かさず船長はそれが魚であると確認し、それが間違いなく魚であれば船中全員に仕掛けを回収するように皆に指示する。
近年の釣人は、他人は他人の基本を船の上でも押し通すアーバンな香りは、どうする事もできない。
人によっては、仕方なく、あるいは関心なく、まさに東京そのものの流れとそう変わりはない感じであったりする。
ここが極最近の乗合船の辛いところでもある。
現代日本の東京という、世界有数の大都会が生み出すカラーが最大に出る瞬間である。
船の上では、ヒットした者最優先の暗黙のルールがある。
それでも解らない人の為に船長の指示があるのである。
乗合の場合は、様々な釣り環境の人が乗り合わせるので現代に於ける乗合船のマナーは船長が通達するに限る。
それがスムーズに乗りあう基本となるのは明白だった。
どうもやりにくい船というのは、船長の指示がないか或いは殆どないか、或いは、お客に気を使いすぎて指示出来ない等の様々は理由がある。
その点はこの船アーバンなお客を常日頃相手にしているのか、特別サービスが良いという訳ではないが手慣れて快適であったりする。
まさに人間精神多様性とでも名付けるべきなのであろうか?
こちらの精神も多様化しそうで怖くなる気がした。
ドラグ設定11㎏のSEALINE900H からはスプールが少しばかり滑っているが、ほんの数メートル程度のカクカクの出方で一気に逆回転には至らなかった。
がしかし、ロッドはフォアグリップから曲がっているまさに満月状態である。
それでも長年この竿と付き合ってきたので限界点はまだまだ上にあると確信してのファイトであった。
このロッドは、作成して使い始めてからそろそろ10年が経つ。
当時このロッドのガイドラッピング剤(エポキシ樹脂)は、とあるメーカーの元同僚に勧められてテストで使ったものであるが、少々硬いのと黄変が気になるところだが、完成後のメンテが悪くなければ今も現役で使える。
コート部分のクラック(ひび割れ)は、多く出来てきてそろそろ巻きなおしても良いかと思うが、それはそれで時間の重みがあるのでそのままになっている。
本来ご法度である筈のエポキシ樹脂を溶剤で薄めると言う摩訶不思議な手段を使っていれば、そうは長くは持たないだろう。
(実際は、その作業の容易さから、薦めているところもあるそうだ。)
ここ最近は、己の持久力と体力がめっきり落ちてはいるものの、無酸素運動が切れるまで・・・少し切れても・・・なんとか・・持つ感じがした。
ショートポンプでリールインしてゆくと、あっと言う間に根は切れてこちらにも少し余裕がでてきた。
(※ショートポンピングと言う、ある程度引き込みの強い場合でも、ちょっとした隙でリールインして行く技術だが日本に於いては普及していない。)
やはりリム径の大きなローギアは、他のスピンとは比較にならないほどパワフルな巻き上げである。
キャビン内の船長から
「あと40mだね。」
の声が聞こえて一安心。
「あれ、なんで解りますか?」
「そのラインの色はそうだね、魚探にも映っているから。」
なるほどイシナギクラスだと魚探にもはっきり映るであろうと即納得した。
海の色は透明で透き通った青。
徐々に横になって光る影が見えてくる。
鰭を立ててゆっくりと円を描きながら、泡を吐き。
浮上。
底魚ならでは、と言いたいが浮き袋は出てはいなかった。
難なくギャフをその口元に掛け、船長とメイト(中乗り)が2人がかりで船へズリ揚げる。
全身の鰭をピンと立てて最後の抵抗を試みるイシナギ。
そして死体では決して見ることができないウリボウ風のこのカラーから放たれる活きた細胞。
だれのサポートも無か期待薄での乗り合い船の場合は、各自の思惑があって、いやあり過ぎて基本非協力体制ばっちりだった。
とても精神的にも辛い釣りである。
40㎏を切った小型のものであるが、成魚の雄であった。
ここまでに成長するまで20~30年をかけたのであろう。
この生きてきた長い年月を頂くには、少々気が引けたがそこは殺生という名の意味を借りて感謝して頂く事にした。
そのような概念と感覚は、日本人のDNAに刷り込まれた概念としてそう直ぐに無くなるものではないが、薄れて行くのも事実。
オーナータフムツ35号が、閂の良いところにがっちりと掛かっていた。
その顎周りはかなり硬く、その骨は厚い。
これならまず、外れる事はないだろう。
それから後は2時間が経とうとしていた。
独特の小さなアタリ(バイト)はあるものの、それ以上引き込む事もなく、乗らず(針掛かり)に皆焦りが見えてきた。
その中でアタリがまたあり、我慢したつもりではあったが、ズバリすっぽ抜けた。(なんとも情けない限りである。)
その辺りが名人とは言えない理由の一つであろうか。
何度やってもこのパターンはあるのである。
そんな夏も盛りに移行しつつあった。
※画像カットしました。
何とか同行者F氏に頼み込んでなんとか数枚ほど撮って頂いた。
なんとも、さみしい限りであるが、これがブームに則ったバラバラの意識の中での他流試合である。
完全に私達は、部外者扱いであった。
このプレッシャーが案外と耐えられないのである。
※画像カットしました。
久しぶりのイシナギも、〆てから撮影なので既に体色が褪せている。
血抜きをしたら、乗り子さんが水で放水して洗ってくれた。
そこは、とてもありがたかった。
小さな配慮に感謝しかなかった。
イグロクーラーにギリギリ収まった風の雄イシナギを持ち帰り、次の早朝下ろす事にしたものの氷はものすごく少なくとても朝まで持ちこたえなさそうだった。
生命線の氷さえ、満足に与えられないこの環境はかなり厳しかった。
その夜、板氷を何枚も補充したのは言うまでもない。
一から十まで手間のかかる魚ではあったが、彼の長く生きた証に比べれば苦労という事もない。
それからしばらくイシナギのラッシュはまだまだ終わる事は無かった。
イシナギノッコミラッシュな夏。
それは現実離れした実像で空想の中の実像に思えた。
※画像カットしました。
このような、環境では、写真撮影もままならず、これが精いっぱい
他の様々は撮影の余裕は全くない。
こんなつらい気持ちの釣りも久々である。