南方回帰Ⅴ‐2025あとがき2026年05月09日 15:48

 南方回帰Ⅴもあとがきまできました。
時の流れるのは早いものです。既にこのあとがきの原稿を書いていたのが2024年なので少なくとも1年半以上も前のことになります。少し予想だにしていなかったことと言えば
その戦争も未だ終わってはいないし、更なる別の紛争も起きていることです。あれだけコロナ、コロナと叫んでいたことも既に過去の出来事のようです。
 かなり空きましたがやっとあとがきです。少し長めになりますがご一読くだされば幸いです。
夕マズメの余暇
それではその10あとがきです。

あとがき2024

午後の風景


南方回帰シリーズも無事Ⅴの再編を終えました。その日の遠征後の原稿から編集をし直してからもう9年が過ぎようとしています。相変わらず仕事の合間に取り組んでいますのでなかなか進みません。最近は、頭に入っていたことや思っていたことをすぐに忘れてしまうようになりました。特に時系列的なところは、ほぼ断片化しています。そして最も難しいのがその当時の最大の感動、心情、心境、興奮がとても薄れてくるところです。それは、動画など見て思い起こすと多少なりとも復帰できますが、その時の感じたことはやはりその半分かそれ以下な気がしております。昔は細かくメモとかをとっていましたが、それはやめて画像の日時と動画でその時系列的なズレを極力減らしております。しかしながら、それも怪しい部分が多々ありますがそれもご了承の上今後もお付き合いください。

この間にまた一人生程流れては行きましたが、やはり当時思っていたことと今ではかなり違うように思います。未来とはいうものの、たかが10年程度の近未来というものでさえ結局のところ誰にもわかりませんでした。こうして編集しなおして行くと、当時の筆者の心境、心情と今現在の心境、心情が少し違っていることに気が付きます。それは、当然と言えば当然のことかもしれません。このあと南方回帰Ⅵ-2018の編集をしなければなりませんが、そのⅥから次の遠征計画2019の後、ある日の時が暗黒に変わったようなコロナ禍が到来してきました。これが恐怖のどん底で、いつ平安がくるのか到底わからない中、遠征なんぞもっての他という状況になってしまいました。正に現代の黒死病の如くのようだった気がします。それで多くの方がお亡くなりになりました。その恐怖すら今は無かったように、国内外から人々が再び押し寄せ、インバウンドまくりの昨今です。当選ながらその間の南方回帰計画も3年以上の間頓挫してしまいました。今もコロナウイルスが絶滅した訳でもないのですがそれでも、漸く生活はまた元に戻ろうとしています。そんな、コロナ禍も過ぎようとしている最中にも大きな戦争が繰り広げられ、紛争も含めると混乱は続いています。世界情勢は、ますます混沌としています。我が国は、先の大戦後戦争というものを経験していないのは幸いですが、空想のお花畑だけは、あちらこちらに依然と残っているように思います。

 少し国内の釣業界という極小な業界にスポットを当ててみますと、コロナ禍アウトドアブームに乗ったその勢いと、その終息後では少し違います。所謂コロナ禍需要の収束です。一気に不景気の波はこの趣味産業にも流れてきました。これには、大手2社でさえお手上げ状態です。90年代から主力となり始めた大型量販店の平日は、閑散としているようです。コロナ禍中は、週末ともなると満員御礼だったキャンプ場もかつての勢いはみられません。ましてや乱立していた施設型のそれも今はどうなのでしょう。昔も今もやはりブームというものは一過性のカンフル剤でしかないようです。それを知っていてもやはり同じ手法を使ってしまいます。目先の利益は、それだけ刺激的で必要不可欠なものなのかもしれません。そこに残されているのはいつもその遺影と言うべき廃墟とかであったりします。過去のバブルと少し違う点は、それにデジタル化と中古市場の盛隆です。バブル時代は、ほぼ使い捨て文化真っ盛りでちょっと古いものはゴミになっていました。正にバブルです。釣具も飛ぶように売れました。それがはじけるまでは。現在は、モノは溢れ返り有り余っています。中古屋さんにもりだくさんの在庫フロー状態です。ネット上にも少し検索すればこれは!というものも出てきます。

さらに極個人的なレベルとして本編に関することに話を戻します。それは、このシリーズにたまに出てくる“そば”のことです。それは、もうあえて言うまでもありませんが、そばと言っても所謂蕎麦粉を使ったお蕎麦ではありません。そばと名前こそついていますが、主原料は小麦粉です。今現在は、沖縄といえば“沖縄そば”ですっかりと定着していますが、前述したとおり私が師匠(釣りの)に御馳走になった90年代初めの当時の八重山そばの認知度は、まだまだ今のように世間一般的ではなかったと思います。沖縄そばでもそれは、八重山そばという八重山地方のそばになります。そこは、現在差別化されているようですが、八重山地方へ行った方でないとそのことはそうメジャーに知られていることではなさそうです。それから何十年も経ってからのこと、このそばが時々近くで食することがきるようになりました。それは、八重山そばではありませんが店主は、八重山出身の方です。最近は、そのお店もかなり有名になったのか何時も混むようになりました。混むようになるともう私が行かなくてもいいのかなと勝手に思ったりもします。そこには、和食で鍛えたベースのある店主の作る特性のスープの味とは全く正反対とも思えるあのルートビアもあります。これがもう歯磨き粉とも言われている味ですが、我々の祝杯の定番でした。沖縄と言えば、A&Wのルートビア、そしてうちの家族の誰も知らないと言って批難を受けている、紫、コンディショングリーン、喜屋武マリー&メデューサです。これは、解る人には判ります。もちろんそのそば屋の店主もそれは良くしっていることです。主に70年代の沖縄で青春を送られた方々の思い出に過ぎないことなのかもしれません。今でも紫のアルバム、インパクトはたまに聴いています。特にMAZE迷路は好きな曲です。そう書いていると、当時の曲がまた聞きたくもなってBGMにしようと再生してみます。ああ、これってやはりBGMとしてはちょっと。という感じになり、止めました。

沖縄そば


地元でも愛される勝浦の沖縄そば
優しい味と風味


時々お店の前を通過すると、いつもそれなりにお客さんが居て、車が停まっています。また連休ともなると並ぶ人も見えるようになりました。こうなると、地元の人は二の足を踏んでしましますが、これは、この街の超推奨のラーメンの以外では、異例なことのように思えます。寂れきったこの街は、そのラーメンばかりになってしまいましたがそれも流行る店とそうでない店に分かれているようです。やはり、たまに一見でトライ的要素の強い食事よりも、負担の少ない優しい味を知らず知らずのうちに求めて行ってしまうことの裏付けにもなっているのかもしれません。そういう意味でもそろそろこのB級グルメにも更に進化が求められるような気がしてならないのは私だけでしょうか?

ルートビア


本編ではでてこなかったですが、今ならそれを書き足せそうです。

それは、その八重山そばをなんとか釣り場のベースキャンプに持ち込んでイソンボそばを作ってみました。これが理想どおりとはいきませんでしたがまあ仕方ないところもあります。また、毎回企画しては駄目というか企画倒れになってしまう“イソンボ草鞋カツ”や保存と味を両立できる“イソンボ西京漬”も西京みそまで持ち込んで迄はみましたが、遠征先では結局のところその時間に追われて未だ実現できていません。せいぜい唐揚げにするのがようやっとでした。それも極めてシンプルな塩のみの味付けです。他に料理といえば、刺身と焼き切り、カマ焼きくらいですがなんとかやりました。薬味らしい薬味もないので、持参したシークァ―サーが唯一のパンチです。当然食べきれませんので、その大半は島人へおすそわけということになります。当時は、この釣りを教えてくださった師匠もご健在でしたので師匠とその関係の方にも食して頂きました。ここでその評価がとても面白いのですが、一様にこれがあのマグロか?と言われたことです。出会った当時の師匠の評価も、イソマグロは美味しくないと言われていました。そこで、師匠に今までどうしていたのか?とお聞きしたことがあります。師匠にはその南方回帰市シリーズⅠから関わって頂いていましたが、その更に15年前の1990年初頭からこの釣りを一人で確立してこられた方です。始められたのがまだ師匠が40になるかならないかの頃だと思います。それは、東京から帰郷してすぐの頃だったと聞いています。道具はというと、ほぼ東京から持ち込んだらしいとのことでしたが、帰郷してからの師匠はどの道具の調達にも大変困っていたとのことでした。今現在のように大手ネット通販サイトも何もないほぼ100%アナログの世界です。せいぜいFAX送信程度ですが、多くの情報は、釣雑誌で通販を行っているところのみの時代です。電話で通販と言ってもアナログ電話でかつ、遠距離となるとまだまだ通信料金もそれなりにお高い時代のことです。本編にもでてくる、釣サンデー別冊巨魚フィッシングにも当時の通販先である、幾つかの専門店が広告を掲載しています。師匠は、そんな状況下の中でも、こつこつと積み上げてガンガン実績を上げていきました。私が参入した2002年頃は、既にその釣りが確立された頃のことです。筆者は、そこから少しずつその仕掛けをよりモダンなパーツに仕立て替えてきました。それも師匠が居なければここまでは当然辿りつけなかったとおもいます。今までも何度もお話ししたことですが、やはり最初にやったものが一番偉いということになります。業界や、他の売名行為または、自己顕示欲の強い人は、多少改良程度でも自分の名前をつけたがる傾向にあるのは、今も変わってはいませんが、筆者は師匠の名前を付けて流星(隆生)リグ改と銘々しています。時が変わって継承されたとしてもその名前が残って欲しいという願いからです。今となっては既に故人ですのでその前に継承できたことは幸いでした。大変几帳面な方でしたのでどこかにノートかメモはあったとおもうのですが、それもどこにあるのかは私には判りません。

こんな離島だと鮮魚は食べ放題と考える人が多いとは思いますが、案外新鮮な魚にありつけるのは極少数以外の人は毎日とは行かなかったようです。私が通い始めた2002年頃でさえ、とある婦人と会話を交わした時に美味しい魚は、“あの脂ののったサケ”と言っておられたのを思い出します。それは、荒巻でもなく、アラスカ産紅でもなく、チリ銀だったのです。そうチリ銀です。当時のチリ銀は内地のスーパーで厚切り80円とか言っていた時代の頃です。切り身から既に溶解したオレンジ色の脂が出ていたあのチリ銀です。当時は、まだ数人程、漁師さんから売店に入荷する魚もありましたのでそれが刺身用となれば即日無くなっていました。それも遠征後期ともなると、お亡くなりになったとかで無くなってしまいました。ここ5年以上も行っておりませんのでもしかしたら誰かがまた販売しているかもしれません。そんな食糧事情ですので、刺身で食べられる鮮魚はある面とても喜ばれました。そんな中で師匠は、そのイソマグロの処理や、他の魚の処理、料理まで追求はしてきませんでした。聞いてみると、仕方がない部分が多くありました。なんせ単独釣行がその殆どだったからです。そして持ち帰った後の処理や下ごしらえする人もおられませんでした。当然その釣りの理解者など居なかった、と申されていました。そんな師匠は、一日に20㎏台のイソマグロを麻袋へ入れて45往復したことがあると仰せでした。(たしか、最大7往復と聞いたと思います)これはやった方なら解りますが、とても40代いやそれより若くよほどの体力がある方でも至難の業です。貴重な蛋白源ですので、それは無駄にはしなかったようです。流石です。労働力という体力を武器にしての荒技でした。師匠にその後の魚のことについて聞いてみると、〆ることはしていなく、夏場もほぼ野締めです。野締めでは当然すぐに腐ってしまう状況ですから、いち早く処理しないといけないことになります。腐っては、食すことは当然できません。そうなると1本、1本運ばなくてはなりません。当然冬場なら多少纏めてということもできたでしょうが、2本で既に3040㎏下手すると50㎏超えとなると、それはかなり危険な重労働です。また、冬といってもまず基本はマイナスになることはありません。10℃も切りません。また、当然悪路です。それで持ち帰った後は、冷凍庫に入れるという感じだったようです。それりゃあ、お世辞にも美味しいと思えないでしょう。また、料理といってもそれを解凍しての刺身か、味噌汁にぶっこむか、揚げてしまうかです。師匠がごはんを一緒にとお誘いを受けて仰せの時も、その時に釣ったオオメカマスやヨコスジフエダイ、アオチビキ等々ぶち込まれていました。ヒメフエフキはマース煮か、煮つけにされました。これは別格のような扱いでした。元々食に関しては食べることができればそれでいいという感じでした。それは他の人もおおむねそうでした。それは、この島々の多くの方が食糧確保についてはなかなか大変だったであろうことは容易に推測ができます。また、ここにでてくる監督と称するY先輩は、かの誰もが知る有名な離島の出身ですが、子供の頃は、それが口に入ればいい、食べることができれば味や鮮度は二の次であると仰せでした。それは、豊富な食材に恵まれている地域のそれとは全く違ったそうです。それはそうでしょう。それはつい最近の1970年代までそんな感じだったと仰せでした。それは、野人ことF先輩も同じでした。わさびこそ現在は簡単に入手できたそうですが、子供の頃となるともちろんそんなものはなく、辛子と醤油か酢味噌で食べたようです。師匠と野人先輩と3人でイソンボの刺身の食べた時のことです。師匠は、どうせ生臭いからと言って、醤油でディッピングして更に箸でぶつぶつと穴をあけながら、しばらく漬けて食べる感じでした。その醤油も主に九州産の甘い醤油でした。すかさず従兄でもあるその野人先輩が、

「それじゃあ魚の味が解らなくなるじゃあないか!」

と師匠に言っていました。

私も漬けに近いなぁと当時思いました。魚は、新鮮なものを頂く機会がなかったようです。そんな地元でもそう高評価ではない、どちらかと言うと不評なイソマグロを師匠の従兄である先輩(野人)と釣ってからは、現場で即〆、血抜き、腸だし、を素早く行い、なかなかの作業で水汲みバケツですべての血を洗い流しました。それから、しんどい思いをして持参したペット氷をお腹に入れて米袋に入れて運び一旦家へ帰って発泡スチロール箱にいれて氷をして、また現場に戻るという技をやってのけました。それから帰宅後、寝る前に解体作業に入りました。“ある程度のサクドリまでして終わり”という作業をやってのけました。正に野人パワーというか長年水産業に従事してきた先輩のなせる技です。20㎏前後程度では楽勝です。足の早いイソマグロですのでここまでやらないと美味しくは頂けないようです。特に大きければ大きいほど、冷やすということが困難になってくるからです。その点は、他のマグロ同様です。またイソマグロの場合は、どちらかと言うとマグロのようにある程度の長い熟成期間を経て旨味を増幅させて行くということはなさそうです。肉質もドリップが幾分多めです。そうして処理された、極上とはいえないかもしれませんが、かなりのクォリテイーで宴会に出された刺身が、イソマグロとは島の人も判らなかったようです。「これがあの、トカキンかぁ?」という反応です。釣人複数であってもなかなかここまでの処理を行うことはとても難しいことです。ましてや、遠征となると尚更それはそうです。これが渡船の磯となると更にそれは難しくなります。扱いも雑になるし、冷やすこともままなりません。ほぼ野締めか締めたとしても保存手段がほぼありません。(一部、即船が回収してくれるということもあるそうですが)
 そもそもお金にならないとして、漁の餌になってしまったりもします。そんな、こんなでもある程度の処理をしたものは、美味しく頂けることが判りました。もちろん比較対象を本家本元のマグロ科に属するクロマグロやミナミマグロ、メバチマグロ等とすることは論外になります。あくまでもイソマグロという限りなく、マグロから少し遠いこのイソマグロを美味しく食べるということです。昨今では、ビンナガでさえそれなりの価値と評価を得てそれなりに水産重要魚種となっていますが、ビンナガは、その脂の乗り具合で価値が大きく変わる為、脂のない生ビンチョウよりも旨味があり美味しいイメージです。それはあくまでも個人的な意見はありますが、両方を食したものの意見はある程度重要かと思えないこともないでしょう。

そんなこんなで筆者とその月仲間は、ある面食べることに於いても貴重なイソマグロの刺身をその鮮度を落とすことなく食べることができていました。仮に1本でも上げてしまうと食は一気にイソマグロ一色になってしまいます。そんななか、1本の処理後のイソンボそばということになります。それも小型を含めて、4本プラス他魚ということもありましたのでそうなるとやはり冷凍庫必須になってしまいました。
 いずれにせよ、ひと昔前の魚類図鑑や一部の釣人伝説のように不味いを連発されていた方の多くは、鮮度や保管、流通の問題からそう良い魚体には恵まれなかったのだろうと推察できます。また多くの釣人は、そのようが機会にもめぐり合えてなかったことでしょうか。なお、昨今では多くの料理人やその道のプロが参考にしているという“ぼうすコンニャク”こと藤原昌高さんのサイト市場魚貝類図鑑をご参考にしていただくと良いとおもいます。その味評価度は、五つ星になっております。この方の水産資源に対する付加価値評価は、ななかなかできることではないと思います。

将来は、このイソンボが多く捕獲できる国々で寿司ネタになっているかもしれませんね。そうなると、今度は乱獲の恐れも出てきて別の問題が発生しかねないとも限りません。是非とも管理型漁業を実践して頂たく思います。

そんなイソマグロですが、今のところ全国区で水産食品としては重要かつ、経済効果も小さい魚ですのでここ近年揉めに揉めていてなおかつ、その釣りもスピニングタックルでの限界を超えていて既に竿溜して正規のファイトすら極めて難しいクロマグロと比べてもそのトラブルの要因としてはかなり差があるようです。この差が、容易に遊漁、スポーツとしての釣の対象として成立する数少ないマグロに近いターゲットとなると思います。これは、釣人にとって幸いなことです。彼らを何本か獲ったところでまず揉めることがないのはとても大きいことです。近年は、関東でもメジャーとなりつつある、キハダに関しても今のところそう大きく揉めることも無く釣ができてはいますが、今後の動向によってはこれも制限が掛かってくる対象になりかねないと思います。いずれにせよ、我々釣人にとってイソマグロは大変貴重なターゲットには変わりありません。

解体前のイソンボ


一度命が終わるとそれは、死の色となる
どの生物も生きた色はやはり素晴らしい
解体作業前のイソンボ

イソンボそば


遠征中企画で無理に揃えて実現させたイソンボそば
遠征中だとこれができる限界のようである。
ネギが入手できなかったとしてもせめて、乾燥アーサーでも買って持参すべきだった
前人未踏のイソンボそば、いやトカキンそばが適正な名前なのか?
それでもとても美味しかった


 こうしてどんどん掘り下げて行くてうちに資料というか画像が出てきました。釣紀行は、月竿のその魚を釣るまでのストーリーが主たる目的でそれに多少の流れを書き足して単なる釣行記というものから少し幅を持たせた構成にするつもりで始めました。よって他の事柄は当時記載していないところが多々あります。そんな一つ、二つがこのあとがきの項の中でもイソマグロの活用を少しだけ記載してみましたが、その当時全く記載する気がなかったイソマグロを運ぶということでした。それは、南方回帰Ⅲ(2009)でおまけとして記載しても良かったところでしょうが、当時の私にはその気も無かったようです。資料を探してみると、残っていました。それも私が撮影したものではありません。お礼としてメールで頂いたものです。折角ですので序に書くことにしました。その南方回帰Ⅲでは、ここにでてくる野人先輩が40㎏程のイソンボを釣った時です。それは今の私よりも当然若い頃になります。当時新製品で出ていたダイワ精工の名品ソルティガZのエクスペディションが発売されていた頃です。まさにダイワのこのZシリーズは名品でした。当時のリールを撮影した筈なのですがそれが見当たりません。どこに保存したかわかりません。いまだにZを愛用されているユーザーを見るとスピニング最高峰に相応しいものであったように思います。そのⅢでは、幸いなことに何本ものイソンボをキャッチすることができたので、うち1本をなんとか空輸で送ることはできないかと四苦八苦して空輸で発送したことです。なんせ連携ができないと不可能な企画でした。しかもイソンボとなるとそんな魚体を入れる発泡箱も早々ありません。しかしながら、当時は売店にはある程度のサイズまで売られていたのです。最大のものを購入しましたが、それでも小さいイソンボも入れることができません。まあ、仕方ないので入るギリギリで尾の部分を半分切って折りたたんでなんとかかんとか入れました。お腹は既に出していますのでそこはかなり目減りして氷のスペースがあります。なんとかかんとか氷をいれて船が出ることも確認しましたので船に積み込み、ハブ港で運送会社に取に行くようにお願いしておきました。一応この時代となると、ガラケーがほぼ普及していましたので、港から携帯で受け取った旨を聞きました。これなら本日の航空便に間に合うとの力強い連絡を受けたことで、少しばかりホッとしました。あとは、到着後果してこの肉質が維持されているかどうかということになります。これもその翌日、確かに受け取ったと連絡がありほっとしました。多少魚を下せる方なのでお任せしました。聞く話ではファミリーとその友人知人でパーティーをしたらしいです。普通に美味しかったと連絡は帰宅後聞いたのですが、それがそれ以上のコメントがでてきませんでした。当然、友人知人ともなるとただのマグロパーティという企画になっていたらしく、確かにイソマグロであると伝えたのですが、本人はそんなことは全く聞いたこともないみたいで、あろうことか“磯から釣ったマグロである認識であった”とのことで少しがっかりもしましたが、それも仕方ありません。しかも、しかもです。その友人は、そんなデカい魚は下せないとのことだったので、更に知人の水産関係者に手伝って下したそうです。水産関係者なら間違いないとおもいきや、それは私の一方的な思いであったことは否めません。あろうことかその方は、それをキハダマグロと仰せでした。それでみなさんキハダパーティとなったようです。子供達は、手巻寿司でマグロがいっぱい食べられると喜んでいたそうなのでそれなりに感謝はされたようであります。思えば、筆者もイソマグロの手巻寿司など食したことはありません。一度はやってみたいです。とんだ勘違いになってしまったマグロになりましたが、それも私の落ち度といえば落ち度もあるとおもいます。また、突然頼まれて善意で引き受けて下さったその方にはやはり、感謝という言葉しかありません。いろんな事情もあったでしょう。そこを忘れてはいけないと思いました。ご家族の子供さんとその友人たちが美味しくい頂ましたといったお言葉を頂いただけでも感謝すべきなのだとおもいました。それで、自分を納得させました。いや納得するほかないでしょう。

我々現場を振り返ってみますと、中落ち丼すらやっていなかったと思います。それは、記憶にも画像にもなかったので恐らくやっていません。骨身をこそいだ記憶も無いので尚更です。それでも捨ててはいないので当日の昼あたりに中落ちとして皆で食したようです。

その後、ある機会に当時子供であった人にその当時のことを聞いてみました。
「まったくおぼえていません。」とのことでした。
まあそんなものです。

そんなこんなでしたが、ほぼ100%に近い数字で関東圏では流通することもないそんなイソマグロを知らなくても致し方ありません。しかも水産加工関係であってもさほど変わった魚類を扱うところ【店や業者さん】でなければ、マグロは恐らく、冷凍メバチ主体のキハダ、ビンナガあたり、たまに蓄養クロマグロかミナミマグロ、当時は無規制だった本メジとかではないでしょうか。それをイソマグロと認識または、調べる興味もなければ変わったキハダ程度にしか認識されないでしょう。まだ超特大ハガツオくらいに考えていたならば、ある程度の魚に触れたこともあるでしょうが、ハガツオも案外足が早い魚なのでそれも厳しいかもしれません。昨今では、スーパーの記載も昔と比較すると、ある程度正確またはそれに近い表示にされているのでそこは今現在だとあらかじめ調べているのだと思います。

最近近くのスーパーでも多彩な魚種を見かけるようになりました。しかし、私はそれの殆どを買ったことがありません。とても買う気になれないのが本音です。それでもこれは?!と思った時には手が伸びることもあります。本日は、ボラが売っていました。ボラは本来の江戸前では中の上ランクにあった人気魚と聞いていますが、現在は、その都市汚染以来、とても都会河川に接続しているボラを買う気になどなれません。これをカラスミにする方も増えた?とかで本当に消費者減の中それはそれで多様化しているのだなあと思います。時代は、水産物をそう摂取しないという我が海洋国家です。比較的肉食が増えた我が国では、この先は一体どうなるのか見てみたいです。しかしながら、漁獲高は限りなく減っていて、その価格もそれなりになり、近海物を購入して自分で下して料理するということもかなり減ったようです。いつの間にか未利用魚になってしまったものも多いでしょう。それは、とても残念ではありますがブロイラーという名のとても安価でほぼ骨なしの唐揚げは美味しいものです。それは否定できません。ブロイラーは、すでに人間様がその肉を食すように改良管理生産されていて、スーパーでは既にから揚げにするようになって販売されているのですからとても安価で便利でかつ市時間を割くことができない方にとっては大変助かります。その時間もない方には、すでに唐揚げになって販売されてそれなりの価格で販売されています、ブロイラー様々です。ちょっと意味合いは異なりますが、後輩とナマズ釣りでリリースして遊んで、帰りに夜間でも営業している大手外食チェーンの冷凍唐揚げ定食を食べている私も矛盾だらけです。そういえば、さらにちょっとずれてしまいますが、なんとか怪魚と称して、その前後にチキン南蛮とか良く聞きます。因みに、筆者も誘われて何度か合間に食べたことがありますが胃もたれします。
 水産資源も他の畜肉と同様に養殖へとシフトしてきていますので将来は天然魚を捌いて食べるということは少なくなってくるかもしれませんね。

空輸後


空輸後のイソマグロ

解体前の空輸イソンボ


なんとかなりそうである

当時は、120万画素程度のデジカメ

サクドリ


サクドリした画像が送られてきた
結構な量になっている

手巻き寿司会


手巻寿司パーティーらしいが筆者は参加していない
楽しそうでなによりでした


魚あるあるになってしまいますが、今現在のことなら後輩であるフィッシュナビの八鳥にでも送ればそれなりに魚のことは理解してくれて、なおかつ料理もそれなりにこなしていたのは間違いなさそうです。それも私が日ごろまったくやらない少しおしゃれな風に撮影してくれるかもしれません。しかしながら当時としては、お世話になった友人に送るということが最優先であったようにおもいますのでこの件はこれでよかったと思っています。それもタイミングでしょうかね。思わず当時のことを思い出して画像を探してみたということなのですが、当時のデジカメはやはり今現在よりもかなり画素数も性能も当然かなり劣っています。折角ですのでここでその当時送られてきたそのパーティー画像を添付することにしました。

ルートビア2


祝杯のルートビア
歯磨き粉の味がすると言われて久しい
元々は、健康飲料としていたらしいが
お変わり自由と言われても

ルートビアで宴会


大変危険な食べ物です
千葉でいうマックス珈琲レベルの甘さ?
スーパーフライとサンデー


 それと、本編ではイソマグロの貴重な現場の画像が揚げられないことも多いのです。今現在は、編集ソフトもあり、それもAIを使えば勝手に画像を修正しまくれたりします。それは、もはやリアルかそうでないか見分けがつかないくらい綺麗かつ精巧に編集できてしいます。そんな中でもできるだけそのまま使いたいということもあり、画像付きとはいえ読む側にはインパクトが少ないかもしれません。そこを言葉で表現できる人のことを文豪というらしいですが、私にはその器はありません。ここら辺が限界なのかもしれないと思っています。20数年の間地道に通ったこの場所も、今では普通に動画で晒されてしまうようになり、とても悲しくも悔しさ満載の心境ですがそれも諦めるしか今のところないようです。晒す側には、そんなことは全くおかまいなしのようです。最近ではそれでトラブルも起きているとのようです。現在においては、もはや秘境や幻の場所ということはまずあり得ない時代になりました。

 2024年もあっという間に11月が過ぎて2025年へと移り行きます。一体この9年間もの間どんな生き方をしてどんなドラマを作って、どんな希望を見出してきたのでしょうか。そう考えると今も心の曇りはとれそうもありません。そしてその曇りを払拭するために旅に出たくなるのかもしれませんが、それも年々、刻々とその気持ちが薄れて行くのはなぜでしょうか。曇ったままで良いということなのでしょうか。それは、人生が朽ち果てるということと変わりないようにも思えます。

 こうして編集の為にと再び撮影したAVETを目の前にすると、今もそこに存在している愛機とその戦歴を物語る傷跡が、昨日のことのようにイソマグロとの戦いが蘇ってきます。心躍り、大袈裟に言えば全力で戦ったことが体のどこかに、衰えかけた脳にも迫ってくるようです。

AVET HX SX


筆者所有のAVET202411月現在)
右はSXの初期型

FISHER BLANKS


それは歴史の刻みともなり得るのだろうか

1998年頃製造したごく古いもの
ブランクは1922年創業の超老舗だったFISHER USA製であるが倒産して久しい
2001
7月と200412月の2回ほど簡単にレストアしてある


若者であった私ももう初老です。昔のように飛び回ることなど到底できません。そんなことが自分に迫ってくるとは、その若い頃にはまったく思いませんでした。その時の竿達もレストア等はするものの、いくつかはそのまま存在しています。それを売ってしまうと自分の心まで売られて行く気がするのは私だけでしょうか。

ここ最近、月竿もオリジナルユーザーから手が離れて行くことも極僅かというか、少量ではありますが、他人の手に渡ることが多くなりました。当方は、そのユーザーシリアル所得者の希望を極力聞いてからの製品も多くありますが、それらが流れて行くのを散見するようになりました。それは、月竿の理想とは違うところにあるものも存在します。それをまた別の方が評価するということも多くなりました。月竿オリジナルユーザーの方はそれを良く承知の筈ですが、それが流れ流れて他の人に渡ると、全くちぐはぐな竿にしか見えないこともあることは当ブログでも挙げてきたことです。酷いものは、既に複数の手で転がされているようです。他ユーザー様へ申し上げておきますが、その点だけはご理解の程宜しくお願い申し上げます。

私の愛する道具達もいずれその時がくるのかもしれませんが、リール一つ、竿1本見ても当時の思い出が昨日の出来事のように思い出されます。そんな、小さな夢を見られただけでも幸せとしなければいけないのかな。とそう思うこの頃です。いずれその記憶も薄れていき、前も後ろも判らなくなる前に記述できること、撮影できることはできる限り、時間が許す限り、残していきたいと思っています。少年の頃のリールと今のリールではその性能は比較にもなりません。でも勝ち取った夢は同じ価値であることを信じたいです。

宴会後


筆者とJUNN氏(2015年当時)

戦のあと


その心の牙は己の為に磨け

その後


20241120

長田先輩のsealineと一緒に


月竿代表


おわり