南方回帰Ⅳ-影と闇と残光2014-132023年05月12日 18:37

 5月の大型連休も終わり、みなさんそれぞれご満喫された方もそうでない方も等しく今日も過ぎました。その後も安定しない天候がつづき、暑かったり、ちょっと北にかわると寒かったり。これでは、安定した釣りも望めないことも多いです。そして震災以来の地震に恐怖と脅威を感じた今週でした。
 さて、特別追悼文にほぼ二ヶ月ほど費やしてしまいましたが故人を偲びつつも、そろそろ南方回帰Ⅳのつづきに入りたいと思います。
 私の連休は、急ぎの仕事もあってほぼ無きに等しい感じではありましたが誰でもそれは往々にしてあることです。それでもその合間を縫って小物いじめとかできました。かつてのロウニンアジやイソマグロ達はとても力強く、その生命力を示してくれましたが今は小物と戯れても小さなビックゲームを繰り広げられるだけでも好敵手であることは間違いなさそうです。
 世の中というのは、無慈悲なもので過去の栄光はすべて抹殺されてしまうようです。
さて、その13です。
大変暫くぶりに更新致します。
小物との戯れ
小物いびりな日々とタックル


午後のはじまり

たそがれ


せっせと本日使用分のリグを纏めてから、リールの糸を巻き替える。もちろんそれを新品に巻き替える。その時いつも多少の勿体ない感が漂うのだが、そこは切り捨てる。芯の方は、まだまだ新品なのだがそこで結節するわけにもいかず捨ててしまう。専務は昨晩一度も傷つけることなくラインを回収したので、本日はそのまま行くらしい。ちょっとだけそこは余裕だった。

気持ちとは裏腹に、地味な作業が続く。
それも釣りと言うことなのですがね。その準備に注ぐ2時間が直ぐに過ぎた。

 そうこうするうちに定刻となり、荷物をR号に積み込み再び現場に向かう。R号から見える景色の中に、たまに公共工事がゆっくりと進んでいる様子が見える。がそれも、結構マイペースプラス少人数で路面も修繕するよりも傷む方が早い気がする。管理しているのかどうかも解らない道路沿いの植木も若干だが直している様子が伺われた。街路樹と言われる植木等は、島には無くても良い気もするが、公共工事と言うのはそのような要素だけというものだけでも無く他の理由の場合があるのだろう。

 現場に到着すると、即出発の準備となる。その間にも汗が滴るこの島の冬であった。本日も基本的に暑いが、日中の気温は29℃を超えていた。まさに夏の気候だった。

 日が沈むにはあと1時間くらいありそうだが、昨日と同じ要領で磯場を渡って行った。明るいうちは、ポイントまでの道のりがとても楽である。神眼状態よろしく、天と地の差を実感する。

ハイテク車

到着するともう細かい説明は、必要ないのでお互い個々にせっせと準備を始める。とその前に、早速一本目のペットボトルを空けその乾いた喉を潤す。

小休止。

そして、深呼吸。

それからは、波音を挟んでくる竿を振る音。

リールスプールが回転する音。

波が岩に打ちつける音。

南風の音。

そして、そこに暫く沈黙の二人。

その沈黙が祈りに変わるにはまだ少し遠い。

 潮が止まると、速攻コブシメの猛攻にあう。おかずにはうってつけだが、相手ではない。1本針では、おかずの外道キャッチにもならない。
気になる餌にもなるオオメカマスは、現時点では居ないみたいである。変わってマルコバンアジが餌取りとなってつっつき始める。想像では、有力大外道である筈のアオチビキの中大型があがっているはずなのだが、ここまでバイトすらない。不思議である。(音沙汰ない)
マルコバンは、以前専務の地獄リグによってその正体を突き止めた。今回の餌取りの主役はどうやらこいつのようだった。

 小型外道の猛攻とコブシメの猛攻が続くとなると、オカズ釣りでもしてみるかとボトムを探るが、いつもは掛かる筈のヒメフエフキやハマフエフキ、キツネフエフキ等の攻撃もない。あの頂けないヨコスジフエダイも釣れてこない。変わって苦労の末に、タマン18号針に喰ってきたのは、ゴマヒレキントキと、ホウセキキントキ、カゴダイ類である。これは一体どういうことか。

 それから間も無く、お月さまがゆっくりと登り始め、全てを照らし始めると、うす暗いダークグレーな景色に変わる。
水の透明さが判りそうなくらいの光。

余計な人工の光が無いこの場所では、それが全てである。
 我らがあのLEDとケミライトを点灯しなければ・・・・。

ケミライトのホワイトとグリーンを割って振る。
足元を照らす用としてかなり役にはたっているのだろう。
何せ、月明りがないと真っ暗闇になってしまう。
※ケミライト:ルミカ製の2液混合型の発光体。

 餌取り軍団に少々披露困憊気味の中、売店で買った菓子パンと水をお腹に入れて行った。腹に入れるとはこのことで、味も何もあまり関係ないこの場面。

 そうこうするうち、あっと言う間に2時間が過ぎた。

本命は、まだ来ない。

来るのか、来ないのか。

来るその時は何時なのか。

二人並んで海面を見て、天空を仰ぐ。

仕掛けが馴染んでくると、専務のすぐ数メーター離れた位置で同調して流れて行く。

更に動きがあったか、前アタリがあって直ぐにケミホタルが横に移動する。

「ん?!・・・・。」
ラインを巻き込ながら合わせ、また合わせと2回程。

ずっしりとした重みと共に一回目の締め込みが訪れた。
更に一回、ポンピングで更にまた一回とラインを入れて行く。

ギィ・・ギリリィー・・・とクリッカーが鳴く。

更に踏ん張って溜めると、必死の抵抗を見せた。

「んっ・・・チビキか?何だ?これは!」
このパターンは違う魚かな?とも思える。

ジリリィ~とリールは鳴くに鳴くけれど、強烈なダッシュはない。
但し、小物でない事は確かだった。

竿が、大きく弧を描いて糸が吐き出されるギリギリのところまで頑張ってくれているが、リールが時々耐えきれずに糸を海中へくれてやる。

 数分が過ぎたころでも奴は、全く浮かなかった。
それどころか、引きの力がそう変わらないのは不思議である。

「こりゃなんだろロウニンかぁ?・・!」

一進一退の引きでだが、昨日のモノとは明らかに違うサイズだった。
 すると今度は、右に左に走りだした。横に移動すると言う事は、もう沖にまっすぐ頭を向けられないと言う事でもある。走る方向を見ながら寄せにかかるが、案外とそれはしぶとかった。

更に数分が過ぎて計10分が過ぎたころ、奴が足元下のエグレを出たり入ったり左右に泳いだりした。一瞬気を抜きかけたがそこは、また失敗すまいと気を入れ直した。
 ここの詰めが案外と辛いのである。

“この動きはどうやら本命のようだな”
そう思えた。

「イソンボか?」

浮いて来ないか、専務に確認をお願いする。

「う~ん~?まだ浮いてないです。」

「ライトを当ててみて!」

専務がラインの下にいる奴をLED全開で照らしてみる。
一歩踏み込んで前進して下を観ると・・・・。
光に反射してはっきりと銀色に輝く腹部が横走りするのが私にも見えた。

「イソンボだ!間違いない!」

そこから更に気を引き締めて数分を戦った。

「どうだ。浮いたか?!」

「まだです!」

もはや全く糸を出す気力もない状態の奴 には違いないが、ここの詰めでは、オーバーハングの先端岩に擦らない様細心の注意が必要である。
気を抜かないように。

更に魚は右に左に一往復。
丁度楕円の動きに近い。

「浮いたか?!」

「もうちょっと!」

更に一往復させる。
楕円の動きは少し遅め。

いよいよその力を使い果たしたか・・。

「浮きました!!」

「イソンボか!」

「イソンボです!」

「デカイんじゃないですか!?」

「ああ、Jちゃん、そろそろランディングお願い!」

頃合をみて専務に落としギャフを依頼した。

奴は、完全に腹を浮かせてぐったりしていた。そいつは、腹を浮かせて殆ど動かない状態になっていた。完全にグロッキーな状態である。ただ波間に腹を見せて漂うだけのイソンボ。これを今まで何度みたことか。

 そこから専務は、迅速で初めてのランディングにも関わらず、その先の物凄く手際が良かった。そんな中段取りどおりに行かなかった部分は、ランディグギアとそれを扱う人の方ではなく、仕掛けそのものだった。遊離するシステムが上手く起動しなかったのである。これは参った。しばしの苦戦の後それは解消されたようだった。

「かかったか?」

「かかりました!」

専務の離れ業でなんとか腹部にギャフを掛ける事に成功した。

「あれ、重いですよ!」

確かに、水汲みバケツでもなかなかなので・・・・・・それが容易であれば魚はかなり小さくブリサイズになる。

8mの落差を専務は、少しずつ手繰り寄せに入りそれを独りで揚げてくると。

胸鰭と腹鰭


他のマグロ類とは一線を期すイソマグロの胸鰭と腹鰭

 

なんとかずり上げてきた。それはまさしく奴だった。

やはり奴である。

正真正銘の奴であった。

イソマグロ、何処からみてもイソンボである。

「これ、でかいんじゃないですか?」

20㎏くらい前後じゃぁない?」

「もっとあるように見えるけど・・。」

「まあ、20あるかないかじゃないかな、計ってみるか。」

持参したバネバカリで実測してみると、思った通り実測で20㎏を僅かに欠けていた。このサイズは、敵には変わりないがもはや強敵ではない。ただこちらの体力が明らかに落ちているだけである。

頭部

一先ず安心してほっと肩をなで下ろした。
と同時に思い出すのは昨日の奴のことだった。

あと数メートルで切れた奴。

そして、5年前にあのラインを切って行った奴。

敗北に敗北を重ねてあるこの釣り。

この場所でのキャッチ率は、それなりに低い。

我々にとっては、最早20㎏代を強敵とみなす訳にはいかなかった。
目標を達成するまでに現役である事が必要条件であるからだ。
現役である事は、これからの人生ではそれまでの人生より長くなる事は恐らく無い。焦ってはいないが、少しばかりプランを見直す必要がある。
あらゆる、リスクを考えてのプランが。若い皆さんもそうした方が良いと提案できる。なぜなら、仮に人生80年~としても、この手の釣りに現役参加できるのはR師匠の釣り人生で60歳リタイアを標準としたらもう半分もない。
二十歳で初めても40年。

三十歳で始めても30年そこそこ

四十歳で始める事ともなれば20年足らず。

 現実は、必ずしも予測通りとはそういかないのである。
私の諸先輩が現役または、リタイア後、続々と故人になって行くのを目の当たりにしているからか余計にそう思うのである。

 もし、あなたが、高齢になったとしても、余力があるなら残りの趣味を楽しまれたら良いと思うが、その時は今以上に肉体的制限を強いられる事は必至なのでそこまで考えて楽しんで欲しいと思うこの頃である。私もそうであったが、それを冷静に考えられる様になったのは40歳を過ぎたころからだった。だからそれが、若者にとってその考えに及ぶには少し難しい事なのかもしれない。だから敢えて書こうではないか・・・と言う気にもなったのである。
釣りは、様々な形態があるので釣り自体を辞める必要など何処にもないのだが。果してそれまで健康でいられる保証もないのだ。

人の人生は、生まれた時と死ぬ時は自分自身では決して決められないのであるのは不変の真理でもあるように思う。恐らくこれに異を唱える人が居るとするならば、それは死ぬ時であろう。勿論それは、意図的な行為によってしか成り立たない事ではあるが・・・。

イソマグロ2


「さて、下ろすか。」

「はい。」

ここからは黙々と仕事をこなすのだが、何分ファイト直後で少し疲れ気味な上に手首に力が入らない。

それでも、鰓にナイフを突き立てた。

鮮血がどくどくと流れる。

それを専務が水で流してくれるが、また出る。心臓が止まるまでは出続けるのだろうけど、ここは、殺生と言う最高の概念までに持ち上げるには必須な作業である。

彼らの一心房一心室の心臓が止まるまでは。
血抜きが終わると今度は、腹出し、腎臓を取り出してまた洗い、一旦下処理は完了となる。

それから、それを背負い一旦帰宅する。
これが本当に、「骨が折れる」と言う作業である事は言うまでもない。

それからしつこくもまたまたポイントを目指して辿りつき、竿を出すのであった。それがこの釣りを更に過酷にして行くのであった。その工程をいちいち考えるとうんざりなのだが、その場では前向きに取り組んで進めるしか方法はない。

その後は、野人【先輩】の協力によって、解体はされていた。とても有り難い。
真夜中の解体。
それは誰でもできる事ではないが、野人はプロである。
帰宅後は、野人がすっかり柵取り前まで終えていた。

感謝の一言につきるその日の一日と朝方だった。
冷蔵庫は、柵でいっぱいになっていた。

ほっと一安心である。

遠征では、これがなかなかできないことが殆どである。数ある遠征をこなした人であれば、それは容易に想像がつくことである。それだけ磯の釣とある程度の魚肉としてのクオリィティーを保つことは容易ではないのである。ましてや鮮度落ちの激しいイソマグロとなれば尚更である。

イソマグロ3

ぞの14へとつづく

Tribute of Master Kazuo Yuge-22023年03月31日 18:45

特別番外編

Tribute of Master Kazuo Yuge-

DAIWA SEALINE SL50SH

ダイワ精工株式会社

アメリカ生まれの日本製とその栄光/そしてアメリカンリール

ジギング黎明期を支えたダイワ精工傑作の一つ

DAIWA SEALINE SL50SH

SL-50SHbox


軽量グラファイトボディに、超高速巻き上げ6.1:1を実現し自動遠心ブレーキ搭載のこのリールは、ジグのコンビネーションで西海岸のイエローテールに威力を発揮した

スポーティかつ斬新なデザインだった革命的両軸リール

PENNSENATOR

両軸リールの代表といえばPENN SENETOR

1936年発売開始という超ロングセラー

我が国が戦争に突き進んでいった時代にゲームとして釣りが行われていたのは、当時から先進国の最強国であったことは間違いない

ゲームフィッシングのキャリアの差を感じる


 さて、弓削さんが90年代早々にジギングリールとして目を付けて使用していたのは、先に述べた“恐怖のヘビージギングそれは、チーム弓削と魔王への挑戦”のところで述べましたが、(ご関心のある方は、そちらからお読みください。)弓削さんの目のつけどころは、やはり先取りだったと思います。新しいことへの挑戦は、明日への開発につながることです。たしか当時の弓削さんと私の会話はこのようなことだったと思います。

「ちょっと前はな、これアメリカでしか買えへんリールやねん。」

「散々さがしたけどな、これしかなかったんや。」

と申されていたのを記憶しています。逆輸入という言葉が少し流行っていた時代です。まさにこれが逆輸入仕様のそれであり、これがジギングの走りを支えた一つであることは間違いないようです。当時のダイワ精工には、国内にその製造拠点があり、それを世界に輸出していました。高度成長期かつ広島県人の職人魂が加わったまさにメイドインジャパンまさに大和魂だったように思えます。そんな日本製というこだわりも既にどうでもいいことになりつつある、いやなっていることを思い知らされる昨今です。

 私がSL-SHを購入したのは、国内でも発売になってから直ぐのことだったと思います。なんといってもその特徴でもあるデザインは、ギアボックス側が異常に出ている形状でした。それは、ラウンド型、マルチプライヤーリールの常識からは逸脱したものでした。また、そのギア比を上げる為の秘策というか必然というかデザインとバランスは二の次という、なんとも斬新なものでした。そのスピニング並のギア比かつ巻き上げトルクは当然スピニングの上となると、貪欲にそのジギングという釣りを追う釣人にとっては必然だったようにも思えます。一方他社はと言うと、その先取りからはかなり出遅れた感がありました。当時マミヤOPが総代理店であったABUリール名品Ambassadorオリジナルではほぼ使えない上に、ギア比もドラグ性能も巻き上げトルクもすべてに於いてこの釣りには向いていなかったように思えます。それも当然です。元々そのような釣には設計されていません。あくまでもサーモン、トラウトベースから、7000番、10000番もそう強力な巻き上げとスピード、ドラグ性能を有していませんでした。そこをマミヤさんは、なんとかジギング用にマイナーチェンジしてこの世に送りだしていた時代です。残念ながら当時のマミヤ時代のそのウインチシリーズは、購買に至らず所有しておりませんので画像はありません。また、近くの友人知人にもそのような方はいませんでした。少し残念です。

一方今やその代名詞であるSHIMANOのオシアジガーは、98年発売以来改良を重ねてその新製品が発売されるごとに人気の一途を駆け上がって行きました。今では、一番人気を博しているジギング専用リールでしょう。それは、国内にとどまらず世界で活躍していることと思います。それだけSHIMANOの技術は高く世界市場でも不動の位置に立ってということになりますでしょうか。また、蛇足になりますがこのジギングという高強度のPEラインを使うという前提となるとその耐久性及びその性能を上げてきたお蔭で今の高性能、高負荷ドラグ可能なスピニングリールが徐々に進化を遂げていきました。特に当時の(も)日本人は、スピニングにこだわるというなんとも面白い拘りがあったように思えます。今もそのラインナップをみればスピニングリールの機種は、両軸の市場を上回っています。そのこともあり、開発を後押しすることになったかもしれません。今や日本のスピニングリールは、各ジャンル世界最高峰といっても過言ではないと言えるでしょう。スピニングリールによるある程度の大物釣りにまで世界的に拡がっていきました。これは、日本メーカーの尽力とそれを持参して世界の釣をしてきた日本人アングラーの功績であることは誰も否定できないことだと思います。また今後は、アジアの各国製でもそのようなリールが出てくるかも知れません。技術というものは常に流れていくものですし、時代は常に移り変わっていくものですから。

 

※南方回帰Ⅲ-その13-おまけで一度取り上げました。

http://tukinoturisi.asablo.jp/blog/2018/07/23/8923997

なお、SEALINEシリーズの歴史については、残念ながら私はそう詳しくありません。聞いておかなければならなかったことではありますが、それを開発してきた当事者である私の師匠も既に故人です。その時は、常に予想外、想定外です。いつもの通常が突然変わってしまう現実です。

このリールについて検索しますと、その歴史をかなり詳しく述べている方のサイト等がありますのでご関心のある方は調べてみてください。きっとまたあなたにとって無駄な知識にはならない?ことになるかもしれません。

Spinfisherss1

ジギング初期に於いては、やはりPENNはその選択枝のある程度メインだったようである

 

Spinfisherss2

とても古い時代から変わらなかったがゆっくりと時代と共に変化していった

セルフメンテナンスも容易なのも利点である

ゆえに改造もされていった

Spinfisherss4

90年代CCM文字は、SPINFISHERSSチューンをメインにその地位を確立していった

筆者がかつて愛用していたPENNSPINFISHER


NEWELL

軽量両軸リールとは

その栄光と挫折と無念

NEWELLP1


533-5.51

筆者が2001年に購入したオリジナル533-5.5

徹底的に軽量化された

それから軽量と言えばこのリール

http://tukinoturisi.asablo.jp/blog/2018/09/05/8956896

これも2度取り上げましたが、秀逸なリールでした。

カジキとファイト1

当時のカット

カジキの突っ込みに耐える友人と月竿ベストセラーFTSシリーズのM701-FTS30-Master model

カジキとファイト2

ハーネスラグも搭載されている


革命的軽量リール

NEWELLBOX

だが、課題もそれなりに最後まで残っていたらしい

それは、過酷な外洋及びハワイのウルワリールとしての長期耐久性であるらしい

ある面このリールも進化の途上にあったともいえよう

 

 軽量グラファイト両軸リールなら、もうこのラインナップにはどのメーカーも勝てないと思います。残念ながらこのメーカーも現存しないのがとても残念でなりません。リール名がそのまま、名前のこのリールNEWELLさんから上手く引き継ぎが行っていれば、今でも米国内とりわけ西海岸とハワイでは多くのファンを獲得したと思います。当然そのメインマテリアルでもある売りででもあるグラファイトも軽量かつ耐久性アップしたサイドプレートや、キャステングブレーキ等々のさらに改良が進めば、PEライン主体の時代になっても十分戦えたと思うので今でも復活してくれないかと時々思っています。それはいつも思うことですが、それも儚い夢でしょうか。それは、リョービやオリムがまだ存在していたら・・・と同じことに思います。やってみたいことはまだ沢山あったかもしれませんが、これも創業者まかせの小さな会社であった為にその歴史が終わりました。それは、他業種でも多々あることかもしれません。中小零細企業には、そのアイデアや発想というものがあっても実現してそれを継続することが大企業のそれよりも脆弱かつ不可能なことも多いのは皆さんの知るところでもあります。

 

533-5.53

ベアリングは、当時のカスタムチューン職人であるCCM文字さんに依頼した耐錆ベアリングに替えてある


またドラグワッシャーは、スムースドラグのカーボテクスに替えてある

※残念ながらCCM2023年現在は廃業されています

533-5.54

533-5.5500番台最速ギア搭載である

まさにジギングを可能にした秀逸最速超軽量両軸だった

533-5.55

実に最大44インチ、約111.76㎝の巻き上げスピードを誇った

ジギングの為のリールと記載されている

533-5.56

当時徹底的に軽量化が進んだ

5年保証付きだったが、その保証はもうない


 

NEWELL/DEEP PURPLE

カジキと紫リール

紫の衝撃

紫のリール1


 そういえばと思いだしたことは、友人が所有しているレアな紫仕様のリールをまだ大事に使っていてくれたことを思い出しました。早速連絡をしてみました。そこで彼に撮影をしてもらうようにお願いしたところ、快諾してくださいました。その撮影画像を提供して頂きました。ありがとうございます。これらの紫仕様リール画像は、その友人の提供になります。

 それにしても紫ってかっこいいですね。かなり主観的な意見ではありますが今の国産メーカーもこれくらいの遊び心があってもいいのではないかと思うこの頃です。多くの大陸性にはあらゆるカラフルなリールや迷彩柄まで様々な色使いのものがありますが、なぜか安っぽくかつ怪しく見えるのは色眼鏡でみているからなのでしょうか?いや、単純にとにかく色をあれこれ色々塗ってしまえ、付けてしまえという考え方なのでしょうか。

NEWELL546-4.61

友人は、箱も大事に保管していた

その状態は筆者のそれよりかなりいい

 

546-4.62

紫は、かなりレアモデルである
日本で所有している人は殆どいないと思われる

他にレッド、ピンク、ブルーが存在していたがそれは、かなりレアモデルになるとおもう

赤と紫CCMチューン

2000年代初頭に一度入荷したモデル

赤もレアモデルでロゴも違う

ハンドルはCCM文字特注ベアリングハンドル

これらも手元にはない

54604.6と701FTS20

MOON 701FTS30546-4.6モデル

546-4.63

筆者がオーダーした時は2008年だったのか9年だったのか、オーダーこそ入ったが、ついに納品には至らなかった

既にその時遅かったのが悔やまれるが、その時は突然訪れる

546とパーツ

 

アフターパーツも良い状態で確保している
セラミクスベアリングもあるし、耐熱性のあるグリスもある

533とパーツ

筆者の所有533-5.5とそのパーツ

ドラグマテリアルもオリジナルよりカーボテクスに変えてある

533-5.5-A

スプールサイドのネジパーツ(U-5)まで樹脂製だったのですぐに割れてしまうのが難点だったが、後のパーツステンネジに付け替えてある

   

 

PRO GEAR

それは90年代突如として現れた


RROGEAR1

PRO GEAR 251 440

PROGEAR2

※それと同じ頃、PROGEARが存在した。http://tukinoturisi.asablo.jp/blog/2017/10/23/8711015

 

PROGEAR3

アメリカ製を強調してある

それほど危機感を感じていたのであろうか

それは我が国とは違って愛国心の現れでもあるといえる

 

釣方及び対象魚がPENNNEWELLPROGEARは、ほぼ同じでもこちらのプロギアはアルミフレームにこだわった重厚感がとてもステキなリールでした。90年代半ば日本にもそれなりに入ってきました。初めてみた時は、これも衝撃的でした。国内でもワンピースフレームとか幾らかは存在していたと思いますが、高強度のアルミを削りだすなどとても贅沢です。とてもシンプルですが、両軸リールとしての基本性能はしっかりとしていました。むしろそれが売りのリールでした。また記憶によれば、このリールには最初からスムースドラグが搭載されていると思いました。日本では使い道がないのか、はたまた、常に更新されて新製品を買うという習慣が根付いていったのか、単に新しいもの好きなのかはわかりませんが、この基本性能重要視型のリールは、次第に電動主体に移行していく我が国ではSEALANE同様に人々から忘れ去られるようになりました。ゲームフィッングとしての、マニュアル操作満載の技量が問われるこのリールも素晴らしいものでした。これも現在は、販売されていないようです。2016年頃新機種を引っ提げて復活したと思いましたが、それも今はないようです。いつもあると思う日常からの無でした。

我が国では、世界的に稀であった深海への釣が早くも行われていたのでその点は、やはり日本の釣文化として電動リールによる深海の釣はあってもいいのかと思います。それももう20年近く前になりますが、服部名人も仰せだったと思います。一方で小型両軸手巻可能な比較的浅い水深も電動なのは少しやりすぎな気がしてなりませんが、それでも業界の長年の渉外や、先ほど述べた高齢化社会へのアプローチ、あるいは先ほど述べた娯楽化推進という点に於いて必然の流れといえばそうなのかもしれません。なにせその国の勢いは若者の数が多分に影響するのは間違いなさそうなので、もはや健全な体力のある若者の減少は、釣という趣味産業にも多大なる影響を与えていると思います。流石にある程度の国内メーカーでも今は輸出としてのあるいは、現地法人としての経営もされていることでしょうから、市場という点を国外へ向けてみるとその先も見えそうです。なんでもアメリカが良いとは思いませんが、こと遊び、スポーツに関しては常にそのウエイトは大きく、遊ぶために仕事をするという感覚はこれらのリール市場の底上げをしているのでしょう。

 

保証他

保証書もその当時のまま保管してあった

展開図

251440の展開図

シンプルで耐久性重要視なのが解る

そのベースは、どれもPENNあってのことだと思う

これらも保管することにした


PROGEARGS

440はハーネスラグすらない

そこでGSブラケットなるハーネスラグ部品も売られていた

数度使用してみたがまあ高負荷でない限りその役目は果していると言えよう

 

 

DAIWA SEALINE SL50SH

 

SL50SHの通販

家探しすると、捨てていなかった通販カタログの95年度には既に販売されていた

 

 SLSHのリム径は、40502030が共同じのシーラインSLでしたが、ジギングは40の方がし易い印象でした。ジギングに於いては、リム径がワイドだとブレも大きく、巻きとりもナローより均一に巻き取り辛いということもありました。今現在は、ナロースプールの扱いの良さはごく普通に言われ多くのジギングリールは、ナローかナロー気味のものが大半だと思います。ワイドスプールは、イシダイリール以外はあまり見かけなくなってきました。どちらかというと50は、そのキャパが行かされる、イソンボのライブ及びデットベイトの釣に向いていることが実感できました。それも、ラインワインドを指で操作するということを考えると、ワイドよりもナローの方が楽でブレも少ないです。可能であれば60サイズも製作してほしいと思いました。それも具体的にはリム径を一回り上げて40サイズ幅並のナローです。私がダイワ精工の開発であったなら、絶対それを製作してやろうと思いますが、そもそもそんな釣をする人が今日本国内には殆ど居なくなってしまいましたので国内市場だけを意識してしまうとすぐにどんづまりになってしまいます。再び世界戦略を目指すと言うことなら話は別ですが、果して軽量グラファイトボティ、ハイギア、高耐久ドラグ性能、MCブレーキ付のリールなど現在のグローブライドに期待するのは間違いな気がします。私の師匠や服部名人、〇田先輩がまだ現役バリバリならきっと可能だったことでしょう。

またライトジギングとしては2030それぞれ利点はありますが、20の方がよりナローですのでジギングし易いように思えます。20NEWELL200シリーズを彷彿とさせる感じですが、これも現代のジギングリールに影響をもたらした一つであると思います。

さて、バラムツのジギングに於いては、ジグ単体から、ジグ+シングルフック+ワーム、それからジグ+シングルフック+サンマの切り身(半身)と移行してくるにつれ、ジギングする機会は少なく、徐々に連続的なしゃくりという動作、運動が減ってしまい、超スロージャークに近い誘いに変化していきました。そうなると、ジグ重さは徐々に錘代わりとなっていき、そこは錘になっていきました。それと同時に徐々にPEラインの性能が上がって行くにつれ、ナロースプールの40でも十二分に戦えるようになりました。それでも得体のしれぬ大物に対してのラインキャパは大切です。それをカバーするには50でも足りないくらいです。結局バラは、その大半をこの両軸SL50SHで釣ることになりますが、消耗品であるドラグワッシャー交換とオーバーホールをすること以外は、壊れたことはありませんでした。アベレージ20㎏、アブラソコムツに関しては30㎏台ともなるとドラグ56㎏テンションであればガンガン引きずりだしていきます。それでも一度もドラグ周りの破損はありませんでした。とても超優秀な部類に入ると思いました。90年代は、ほぼ行けばイレグイでしたのでジグ単体でもそれなりに釣れました。後半は、前述のNEWELLを使用することが増えました。それは、最軽量、タフで、速いとてもいいリールの一つでした。

 

SEALINE BOX

日本の誇りのEMBLEMを備えるSL50SH

このリールが無ければ今のハイスピードリールは生まれなかったかもしれない

SL50SH 50 SHA

 発売当初から90年代までは日本製

旧広島工場で製作されていた
最下段:X-HSA20最小サイズはライトジギングや遠心ブレーキの利点を生かしてブッコミ等で仕様可能な小粒でパワフルなリールである

Stargazer14-50SH

日本のクラフトマンシップ製品は、海を渡って活躍されていたが、その後日本ではこれをベースにグランウェーブというジギングリールが発売されたが短命だった記憶がある

筆者は、その後イソマグロ戦闘で使用することになる

 

200O年代に入ると、弓削さんは関西の実家に戻られて合う機会も激減しました。私の方は、次第に磯からイソマグロを狙う機会が増えました。ここでもスピンタックルは、VAN STAAL VS300PENN 9500SSと決めていましたが圧倒的にVSの方が軽量であった為VSを持参していました。両軸となると、多少の悩みはありましたが、手元にあるSL50SHを使う気になりました。軽量で高速巻き上げ、ワイドスプールが生み出すラインキャパ、投げに対する自動遠心ブレーキ、どれをとっても当時私が行っていた釣りにはベストな回答に思えました。他に同じ性能に近い同様なリールはPENNから出たGSシリーズがそれにあたりましたが、私は545 サイズしか所有しておらず、当時からバラもそれで行っていましたが、どうもSLの方が巻き上げトルクもあるように感じていました。GS555であればある程度イソマグロやロウニンアジでも対処することができることは認識していました。その頃は、古い作法の友人は、GS555を使用していました。

 またSL50SHのドラグ性能に於いては、湿式のフェルトドラグであることは唯一の悩みでしたが、それもスムースドラグ社のものを使うことで解決しました。これは、GSも同様にスムースドラグに変更して2015年くらいまで使用していました。秀作と言えるリールでした。

GS545

PENN GS545

同じくグラファイトボディにサイドフレームデザイン
ギアボックスがはみ出した形の高速ギア

5452

同時期のライバル機だったが

一体どちらが人気で売れたのかは判らない

5453

ドラグホイールはこちらの方が好みだが(GS545

SL50SH7

 オーバーホール後の50SH

流石、メインギア及びピニオンギアはまだまだ十分生きていました

 

 弓削さんとの思いでの一つの接点でもありましたので、今回、仕舞って置いた50SHをひっぱりだしてきました。そういえば5年以上もそのままにしておいたようです。お蔵入りさせるのもそのままとは行きませんでしたのでこれを機会にオーバーホールすることにしました。当然今のグローブライド及びそのアフター会社では修理不能機種に違いはありません。壊れれば、USA現行の後継機種X- SHAとの共通パーツ以外は部品もありません。(探せばあるかもしれませんが)

しかしながら、この2023年に於いてもほぼマイナーチェンジの後継機種があるというのは凄いことです。如何にこの製品が北米市場で愛されてきたか容易に想像がつきます。北米市場に於いて、ベストセラーとなるにはバリューと言う概念がとても重要になってきます。安くて、こわれなく、使えるという点に於いてこのシーラインシリーズは、ダイワ精工では群を抜いています。

 それでは、簡単ではありますが、時間を少しばかり取って分解していきましょう。

分解1

50SHASL50SH

フレーム等は今日共通である

サイドカバー

サイドプレート左

スプール

スプール

SL50はアノダイズドブラックである

当時の日本でのアルマイト【アノダイズ】処理はかなり優秀だったと思う

ギア1

ギアボックス内

メインギアは健在である

潮は、海での釣りでは必然だがその侵入を放置すると致命的な状態に陥る

ドラグワッシャーハンドル側のプレートには塩が侵入していた

ギア2

古いグリスは、硬化している

除去作業およびクリーニング前

細かい粒の潮が付着している

ギアボックス側のサイドプレート

これも作業前

サイドプレート2

古く固まったグリスを取り除く作業はとても地味

しかし基本である

クリーニング

クリーニング後、再度グリスアップする

クリーニング後


 

Sealine

世界戦略の看板

DAIWA精工の勢い

シーライン付属書

1987年当時のラインナップ

まだSLシリーズはない

当時の説明書き通り世界戦略リールとしてその名を知らしめたまさに世界のDAIWAを目指したリールである

付属説明書2

当時の自信が満ち溢れている気がする

英語版1

元々の説明書き英語版

英語版2

説明書きその2


Sealine50SHD

最終型シーラインHシリーズは、1987年発売の超ロングセラーだった

この50SHDは、2001年にマイナーチェンジしたもので以降タイランド製に変わった

これは、大半が日本製パーツに組み替えてある特注品

50SHD2

50SHDも廃盤になって久しい

世界的には使い道が多くあると思うが

国内ではほぼ電動リールが主体になっていた

廃盤へと近づいていった時代

Sealinebox

箱も英語記載のみで後からシールで日本語説明されている

50SHD3

輝かしいダイワのエンブレム

個人的にはかなりかっこいいとは思うけれどそれは昭和の人間だからなのだろうか

サイズ比較

GS545とのサイズ比較

新品とまではいかないが、これでお蔵いりしても大丈夫だろう

50SHオーバーホール後

恐らくもう私がつかうことはない

最後の贐にしたい

 時代は大きく移り変わり、私と弓削さんのこよなく愛したDAIWA精工は、もうありません。釣りのスポーツ、ゲーム化が加速した80年代~90年代の20年もあっという間でした。40年以上慣れ親しんできたそのサンマークと呼ばれたエンブレムももうすっかり見かけません。若者が極端に減少している我が国の現状は大きく変わりつつあり、よりエンターテイメント、娯楽化に力をいれてきたのもその流れ、商売上致し方ありません。リールも電動でいい訳です。いや電動でないと行けなくなってきました。それも時代の流れです。かつては、ABU1970年頃までその世界のリールをけん引してきたように思えますがそれも今は別会社です。それでもABUという名前が残っているだけでも凄いことでしょう。これらのかつてダイワをけん引していったリールももう殆ど残ってはいませんが、それも時代の流れです。それでもまだDというデザインのもと、DAIWAという文字が残っているだけ釣り業界の一流企業には変わらないことでしょう。近年の動画を見ると、無名あるいは中華とよばれるリールのレビュー等を多く見かけます。そんなことも、弓削さんと釣りをした時代にはあり得ない話です。当時からすれば、あり得ないことだらけです。ましてやその世界の生産の中心もその大陸となり、経済も我が国を追い越していきました。我が国の国力もどんどん衰退の方向性になっていくのでしょうか。釣具など遊びの商品ですので、それもさらに変わっていくことでしょう。それも時代の流れです。流れに逆らうことは到底ない不可能なことかもしれませんが、その支流から外して生きて行く手段はあるようにも思えます。時には大物もその支流に入ってくることもあるでしょう。そう大型のイトウのように。

 

ラトリンラップ最大サイズ

Tribute of Master Kazuo Yuge

で記載するのを失念していたBILL LEWIS LURE RAT-L-TRAP

の最大サイズ

ラトリンラップ2

これも弓削さんからのプレゼントだった

それから後は、私がその魚を追うことはしばらく無かった

 

筆者が初めて目の赤い魚を狙いだしたのは92年頃である当時は、認知度が割合低かったようで説明に苦労したものである

またその専用も使えるルアーもそう無かった

K-TEN140BOMBER LONG-A Magnumくらいだろうか

 

 いつも当たり前のように存在していたことが、ある日忽然と無くなって行く。そんなことも多々あるでしょう。それも時が経つとまた忘れ去れて行くようです。それは人もそうなのでしょう。多くの人は、その名前も忘れ去れて行くのが世の常なのでしょうか。そんなことをついつい思うこの頃です。

 弓削さんとのわずか5年という時間もあっという間でした。あの日、あの場所で竿を並べて、あの時同じ悔しい気持ち、うれしい気持ち、感動を同時に共有したこと。涙したこと、すべて洗い流してしまうのでしょうか。

 

 単身赴任の引っ越しを手伝いに行った時のあの弓削先輩の悲しくも儚い表情を今も忘れません。私はきっと忘れないです。

フランスの文字


 ※本編は筆者の主観を中心に記述しているものです。また歴史的記載の誤り等がございましたらご容赦ください。

20233月31日

釣竿工房 月代表


またいつの日かつづくかもしれない
またいつの日か

弓削和夫師範に捧ぐ-Tribute of Master Kazuo Yuge2023年03月08日 11:00

Tribute of Master Kazuo Yuge

Master of Squid jig (EGI-ing the Great)

弓削和夫師範に捧ぐ

チームソラローム時代

若き日の弓削和夫氏
チームソラロームのエース時代
 


誰でも若い時があり、勢いがある時もある

そんな時は、その後のことを誰も悟れないし悟ろうともしない・・・だから誰からも顧みられないのだろうか


2022年の夏の話

1970年代の音楽、とりわけ洋楽となるとLed ZeppelinDeep Purpleというバンド名があがる人であれば、それはもう仲間です。中でも筆者は、後者のDeep PurpleRainbowが好きです。音楽的嗜好となると人それぞれですが、その昔中学の先輩に言われたことが今でも忘れません。それは、下校時のことです。

ランドセルをしょってサクラ林前の上道路を下校中のことでした。すると中学に上がった私より23つ先輩と会い帰宅道を一緒に歩いていた時のことです。

小学生の私に彼は、こう言いました。

「最近はどがな音楽ききょうんな?」

「はぁ?お前まだ歌謡なんかききょうんか?!」

「でぃーぷぱーぷるって知っとるか?」

「しらんです。」

「おまえ、ええかげんにせーよ。はーどろっくがいちばんええけんのう。」

「ましーんへっどのあるばむのはいうぇーすたー、すもーくおんざなんたらきけえよ。」

「しらんのかぁ!まだまだおこちゃまじゃのう~

と概ねこのような会話でした。

そりゃそうでしょう。1070年代には、耳に入る音楽の選択枝なんてそうありません。情報もありません。音楽雑誌も買えません。流れてくるラジオか、カラーテレビから流れる歌謡なのか。父の乗るマツダのシャンテ360㏄から聞こえる演歌か。せいぜいデビューしたてのサザンからの勝手にシンドバットか、ロックなのかなんなのかも分らないゴダイゴのガンダーラを聞いて歌うのが精いっぱいで、学校に行けば、キャンディーズの下敷きがええか、それともピンクレディーの下敷きがええか。ラン、スー、ミキのどれがええんか?いやミーなんかケーなんか、そんな議論しかない子供にロックだのはたまたハードロックだの深紫だのを英語で言えって。土台無理な話です。その早口の英語の曲を聞けぇ!など、もうそれは無理難題な話です。ロックでも、ハードロックなのです。長髪にベルボトムのジーンズなのです。理解不能です。当時安いからこうてきたと母親が私にあてがったベルボトムのジーンズを履いていると、不良と呼ばれました。これも子供には理解しがたいことです。ロックなど不良の音楽だったと言われたりしました。ロックだかハードロックだかさっぱり解りません。当時の多くの小学生は、英語など全く意味不明です。それ以前の私が生まれた時代のわずか25年前は、呉港からあの戦艦達が決死の突撃をしていたのです。英語やその文化など鬼畜米英と言われたご時世です。時の流れはとても変わり易いです。特に近代の流れは特別な気がしたりします。

そのDeep PurpleというHard Rock bandでも特に黄金期と呼ばれるギタリストのRitchie Blackmore私が一番好きなギタリストです。ほぼリッチー節に洗脳され切った当時若者たちの末裔です。その流れで言えば、まさに今の心境は、MAYBE NEXT TIMEこれに尽きます。それと本題と何が関係あるのか?と多くの方は思うことでしょう。その頃、弓削さんはきっと大学でサッカーに勤しんでおられた頃だと思います。

 

理由は、私の心の中にありそれがまさに弓削和夫氏に捧げる私の曲はこれなのです。もし聞いたことがない方でご関心がありましたらこの曲を聞きながら一読くだされば幸いです。さらにという方は、CARRY ON...JONもお聞きくだされば幸いです。きっとわかる方は解って頂けると思います。

最高のギターを弓削さんに捧げたいですが、人間得て不得手がありまして、私にはその技量はありません。せいぜいその数十年昔のこと、釣竿のグリップ位置で弓削さんと試し投げのためだけに三重まで行ったことくらいでしょうか。その1インチの差に議論したものです。当時の私達の会社には、そこまで追求する社員など弓削さんと私を除くと一体誰がいたでしょうか。誰も存在していなかったと思います。なんとかテスターでさえそんな感じでした。それだけ弓削さんは素晴らしい釣りを極めようとした達人でした。当時の私は、ただの若造でしったかぶりした兄ちゃんだったとおもいます。若者は、自分を大きく見せたがるものでしょうか。

 達人故でしょうか。ぶつかる最後は、その経営方針と釣りという情熱との確執でしょうか。そんな弓削さんを生涯宮本武蔵とは言いませんが、お抱え仕官ならぬ人でした。商売と釣りの本質とは、少し距離のあるものでしょうか。その時代の私達は、それは大きな隔たりであったように思えます。もしかすると今現在に於いても商売優先なのは変わらないことなのかもしれません。アプローチする方法が大きく変わりデジタル通信5Gスピードに変わったことで情報の伝達は、当時とは全く比較対象にならないほどですが、故に、達人の技はそう簡単に知られないという時代だった?のかもしれませんね。


ご隠居と弱小藩

その切れる刀とは

 それは、私が2022年の夏にメバル釣りを友人としている時でした。

キャスト後のリフト&フォールからリトリーブしている手が止まり、竿が押さえ込まれました。それから合わせをいれて23回とリールを巻きとりますが、動きません。それから、何秒か経って一気に糸を出されました。なんだろう?

 この鈍重な感触からジェット風な引き出し方はなんだろう?エイ?いやカス?でもなさそうです。しばらくしてそれが、軟体動物であることに気が付きました。

 

 それで翌日のこと、そういえば弓削さんに連絡してみようと思い、久しぶりに電話をした時のことです。声は、若い頃よりだいぶしゃがれています。

「弓削さんお元気ですか?」

「ああ、なんとか元気やけどな、コロナで釣りも行けへんわ。」

「イカ釣りは?」

「もうイカもええかな、釣り過ぎや。」

「アオリ旨いですからね。」

「もういらん、喰い飽きたわぁ。」

「自分は、エギングとか今の流れは良く判らんのだけど、あの最近よくぴしぴしとリズム付けてやる人を良くみるんだけど、あれじゃないと釣れんのですか?」

「いいや、そんなことない。」

その答えは解っているもののついつい聞いてしまいます。

「なんでかと言うと昨晩イカを久し振りにつりました。まあ、偶然ですけどね。」

「ふーん、どれくらいあった?」

「胴長40くらいですかね。」

「それやったら2㎏はあるやろ?」

「あー締めて家で量ったら1.88㎏くらいでした。」

「痩せてんなぁ。」

「そうですか・・・・。」

「まあ、狙っていた訳ではないですからね。」

「メバルの道具に掛かりました。ちゃんと触腕に掛かってました。」

「ナイロン1号の4Lbです。」

「ふん、まあよくやんなぁ。」

「たまたまですよ。」

アオリイカ1

メバルの仕掛けに掛かったアオリ

偶然だが、4Lbではなかなかの時間がかかり、かつドラグも何度も出されてしまった

 

それからイカ釣りの話を10分くらいしましたが、先生はと言うと“もうええわ・・イカは・・・・”とおっしゃっておられました。それからサスペンドの釣がどうこう迄は聞きました。磯歩きは、最近あまりしていなくてかなりしんどいとか申されていました。あの情熱的な釣人生の先生も、かなり寂しく気概が減ったような気がしました。コロナ禍のその3年は、とても短い人生にとってはあらゆる支障をきたしたようです。コロナのばかやろう!と叫びたい気持です。それは、誰しも思うことですね。恐らく世界が停滞した3年間は、近年誰も経験したことのない悪夢のようでした。まさに人類への挑戦なのか警告なのか暗黒の数年でした。

アオリイカを下す

〆て翌日下す

中骨は透明感がある綺麗さ?

だがそれは、ゴミになるだけなのか


「ほかになんか釣行ってんの?」

「コロナですからね、遠征は全く行っていません。」

「まあ、小物ばかりで、メバルとかムツとかニベとか・・・ナマズとか時々いびってますわ。」

「ふん。ナマズかあ。」

「ジタバグ縛りとかやってますけどね。」

「ふん。(笑)自分相変わらずやな。」

「まあ、どちらかというとクラッシックな方で。」

「ああ、そういやぁだいぶ若い頃やけどな、ビワコオオナマズよう釣ったわ。」

「ルアーは、クルセイダー12g~13gでええよ。」

(※ダイワクルセイダー:どちらかというとオークラっぽいクラッシックスプーン)

「あれ安いやろ、沢山ロストするさかい。」

「いや、今そこそこしますね、600円~とかするんじゃないですか?」

「え?!今そんなにすんの?」

まあ、弓削さんがそう驚くのも無理もない話です。初代クルセイダーは、まさしく欧米のあのルアーのコピー風よろしく、250円かそれ以下で売られていました。ましてや弓削さんがその釣りをやっていた40年前の1980年前後は、200円かそれ以下だったのかもしれません。中学生の私でさえ、この程度なら一度に2~3個買えました。しかし本物のオークラの方が気になりました。舶来スプーンは、国産の数倍していた時代です。

S-系のベイトキャステングでいいですね。」

「ふんっ。相変わらずやな。」

と少し笑われました。弓削さんの呆れた感じと、まあいいでしょうという認められた感が伝わってきました。

「へえ、今度じゃあまた一緒に行きましょう。」

「水が減る11月頃がええな。」

「最近は、更に膝が痛とうてな、それまでに体重減らしして膝動くようにしとく・・・。」

 それからかつて弓削さんが釣りまくったというポイントと、待ち合わせ場所など、具体的に話をしました。

「あの当時からを含めて業界人で未だ話をするのはついに自分(私)だけや・・・どうしとんのかもわからん・・ザウルス時代となるともっとおらん。」

流石に、昔の仕事仲間や、かつての釣友、後輩達から連絡はないようでした。もちろん、チームソラロームエース時代の人からも・・・・・・。今やチームソラロームという言葉さえ知らない人の方が多い時代です。


※つきまろでんせつ1

http://tukinoturisi.asablo.jp/blog/2020/10/17/9306750

 

 孤高の天才といいたいところでしたが、私の知らない20年の間に沢山の釣り仲間や先輩が既に故人です。弓削さんとはほぼ25年ぶりに一緒に釣りをする約束をしました。まさか、それが最後の会話になるとは夢にも思っていませんでした。それは、私だけではなくそのご友人とお弟子さんたちの誰もがそうなのかもしれません。それだけ多くの人から惜しまれる釣人はそう多くはいないのですが弓削さんは、それだけ人と仲良くかつ尊敬されるような振る舞いをみせていたのでしょう。

 

古いエギ

当時の餌木はそのまま

 

 恐らくここで今読んでおられる方の大半は、その名前である弓削和夫氏とくれば、エギの重鎮とかなんとか御大とかいろいろ言われて、エギングなる釣りの第一人者として知られておられるのではないでしょうか?

 しかしながら、私の知る弓削さんはそうではないのです。といっても私が弓削さんと釣りをしたのは主に19941999年くらいの5年程度です。その5年の濃いお付き合いがメインになります。エギがどうこうとなってからの2000年行以降は、年1~2回程度でした。

1995年当時は、エギングなんて言われていなかったように思いますが一部では言われていたのかもしれません。

「イカ釣りいこ?」

「イカって・・・。」

「今から三重まで行こうな。」

「えっ・・・・。」

私がその時教えて頂いたのは、その日のパターンでデットスローなるイカ釣りでした。当然ながらその日も弓削さんばかり釣っていた気がします。エギを投げてイカ釣りって既に存在はしていましたが、それがまだまだ確立していない頃の話だったように思います。 

TOURNAMENTWHISKERSS

私が見た弓削さん愛用するリールと言えば、当このTOURNAMENTSSだった


どちらかというと弓削さんとの釣行は、軟体動物よりも数多く行った釣りはトラウトでした。特にアマゴとイワナ、時に本流アマゴとか。それも毎週土曜は、ほぼほぼです。弓削さんから現場で多くを学びました。彼の凄いところは、その季節と情報をいち早く掴み、そのパターンを掴んで釣果に結びつけることでした。経験と実績を積んだ人だけが持ち得る多くの引き出しでした。

 それまでの私の釣はといいますと、当時出てきたというシュガーミノーや、グレートハンデングミノー初期型のプラスチックでできたミノーでした。ミノーイングなんたらと言った釣り方が主力となってきていましたが、まだブレットンを主体としたスピナ―とスプーンの釣も並行して行っていました。それから更に遡る学生時代に至っては、ミノーと言えばラパラ以外は釣りになるレベルのものがほぼありません。DAIWAの偽物バルサミノーはかつかつ使えましたが、それでもかなりのアイチューンが必要でした。それだけで、ああダイワのルアーは、駄目だと思っている頃です。そのフィンランド製ラパラ5FCD5それ以外は、主たるフランスのブレットンかアメリカのエバンスのハスルアーに頼っていた気がします。シェクスピアコンデックススプーン(のちのCotac社、正確にはシェクスピア興栄釣具だったようにおもいます。)当時も同級生で同じ研究室仲間であった現つり具やまだの店主と良く行ったものです。当然の話をすると彼はとても謙遜しますが、彼の方がイワナ釣は(も)、断然上手だったと思います。私が特に釣りが抜きんでて上手いとは思いませんでした。まあ今でも大したことはありませんが、この歳になっても一応釣りはスポーツであるならば単なる娯楽とは少し違うと考えてはいます。もちろん、このストレス社会の中での癒しの余暇を楽しむという点に於いては否定しませんし、今でもどちらかというと推奨はしています。余暇という時間は、とても貴重で大切ですからね。娯楽的要素の強いものが無くては、息抜きの時間が無くなってしまいますから。否定ではありません。余暇は、人間にとってとても必要なものです。

TOURNAMENTSS2

当時の弓削さんの愛用するSSは、日本製だが、筆者は、所有していませんでしたので、友人からかなり後になってからのタイランド製品をお借りした

WHISKER3


US DAIWAでなんと昨年の2022年まで現役モデルだったのは、いかにこのリールが名作であったのかを物語っている

WHISKER4


DAIWAといえばTOURNAMENT世代とPHANTOM世代

日本仕様の750SSは、1986年の発売らしい

WHISKER5


弓削さんとDAIWA精工製リールは、日常の絵だったように思うがそれも経年で色褪せてくる


WHISKER6

かつての弓削さんのお気に入りだった


WHISKER7


Daiwa MARK OF PRECION

当時のダイワの自信が刻印されている

WHISKER7


かつての弓削さんお気に入りのリールだった

DAIWAが誇るスーパーワイドオ主レーション機構


ACME KASTMASTER&HALCO TWISTY

アクメとハルコ

 

Acme&Halco


オーストラリアのハルコツイスティーは、弓削さんのお気に入りの一つだった

当時購入したまま未開封のものが残っていたが、今は無きABU総代理店であったエビスフィッシングが輸入していた記憶がある


kastmaster

25年以上経過してそのまま劣化したパッケージ

 

 その渓流、本流トラウトのボトムを徹底的に意識した釣りは、弓削さんに教えて頂いたといっても過言ではありません。いやそうです。それも、当時でも比較的マニアなルアーのACME KASTMASTERHALCO TWISTY2種です。さて、トラウト無県に住んでの私はめっきり鱒族を追いかけることが無くなりましたが、現在このルアーの存在を知ってかつ活用しているトラウトマニアや名人と言われる人々の中にどれだけおられるでしょう。ほぼ居ないのではないかと思ったりもしてみます。これぞルアーという感じのどう見ても餌には見えない正にハードルアーの王道な感じです。これから魚が釣れるとは信じられないほどです。しかしながら、これで喰わすのはまさにルアーでの醍醐味に思えてなりません。もうしばらくスプーンの釣もしていませんのでめちゃくちゃ下手になっているとは思いますが、またあのスプーンやジグで釣ってスカッとしたいものです。



Kastmaser1

これも弓削マジックにかかれば生きた餌にしかならない

アメリカアクメ社のKASTMASTERはボトムから表層まで使い手ひとつでなんとでもなるルアーだった。

 

ふと思いだしたことは、そういえば良く昔使ったスプーンの一つであるTIMCOLightning Wobblerってまだあるのかな?と調べてみたところ2023年現在廃盤になっていなかったのが凄いと思いました。今でもスプーンの良さを知って釣っている方が少なからずいるのだなと思った次第です。まあこの先のカストマスターなど使っている人は、かなりの物好きでしょうからね。

 カストマスターによる釣りは、目から鱗でした。当時でさえ、どこの誰がカストマスターとハルコルアーを駆使して、トラウト攻略する人がいたでしょうか。当時は、ミノーイングなる釣りが流行し始めて定着しかかった頃でもあったので、出会う釣人の多くは、ミノーにこだわって釣っていると口をそろえて言ったものです。しかしながら、そのそもそもスプーンの釣は、ぼぼしていないかそれで釣るという感覚のない人が、ミノーへの拘りと言われても説得力には大変欠けていたように思えます。それは、ミノーイングでそれなりに有名になった人でもいくらか存在していました。そんな釣人を弓削さんは、言葉ではなく釣ってぎゃふんと言わせていました。これほど説得力のあることはありません。トラウトの弓削とはならなかったのは、単にそれで売り出す気が本人に全くないだけだったと思います。弓削さんのような本格的マルチアングラーは、しばしばその専門分野の方から疎まれることもありました。専門的にやっていて、弓削さんのようななんでもある一定以上の技術と実力を持った人が、目の前に存在していては専門的な人からは場がつり合わないこともあったでしょう。


ブラウニー

弓削さんといえばブラウニーという人は、ほぼいないがこのアイデアも弓削さんだったと記憶している


ブラウニー2

かつての弓削さんお気に入りのルアーだった


もちろん、ミノーを用いた釣は、私も弓削さんも嫌いではありませんでした。どちらかというとそのミノーでの釣りは得意な方だとは思っていましたが、それも弓削さんを前にしては歯が立ちません。本流で銀毛アマゴを釣っていた時のことです。その鮎を飽食した見事な銀毛アマゴはサツキマスと言ってもいい感じのボリュームと風格がありました。明らかにアユを餌にその活性もかなり高いアマゴに弓削さんはブラウニーを駆使してキャッチします。

「これつかいーな」

と渡してくれたミノーは、シンキングリップレスでした。当時はリップレスでトラウトミノーなどほぼ存在していませんでした。当然私は、苦戦します。弓削さんは、そんな中でもやはり釣ります。お見事です。そんな弓削リップレスも今や形見になってしまいました。


リップレス


左上から三番目のブラックバックのリップレスミノー
ボディのアルミは、弓削さんが吸った後のたばこの銀紙を使ったと聞いた

 

 当時の私と弓削さんの勤務は、釣りなど娯楽、遊びに過ぎない、それが釣具メーカーであっても同じことでした。弓削さんが古株業界渡世人で経験豊富であったのとは対象に、異業種からの私にとって、それはとても衝撃でした。そんなこんなで釣りで休みと取ることなどあり得ないことです。そんな中でも弓削さんと私は、時間を惜しんで釣りをしました。そのエネルギーは、一回り以上も若い私でさえついていくのがようやっとでした。一体そのエネルギーはどこからくるのでしょうか?本人曰く、コーラらしいのですがそんなことはないでしょう。しかもコカコーラでないといけないらしいです。ここは、ある程度お付き合いのあった方ならお分かりでしょう。たまに飲む私は、ペプシが多かったように思えます。

 

 とある日のいつもの渓流を一緒に上っていた時のこと、

「ああ、膝痛いねん。」

「なんでです?」

「若い頃スポーツでな。」

「なんのスポーツです?」

「ああ、サッカーや。」

「えぇ?弓削さんサッカーやってたんですか?」

「ああ、大学までな。」

「大学まで?専攻ってなんでしたん?」

「体育や。」

「まんまですねぇ~。」

「そうや。」

その時の弓削師範は、既に膝に爆弾を抱えていたようです。私よりも一回り以上も年上でしたが、えらそぶらない、おごらない、コーラを毎日飲まれている良き先輩でした。そして時間があると煙草。その弓削さんと仕事も共にやりました。その当時を話すととても長くなります。竿の調子や、特にグリップ位置ではリストの強い弓削さんとは意見が合わないことも多々ありましたが、弓削さんの方は、それはそれで私の意見を良く聞いてくれました。まさに年長の兄貴です。他の多くは辛いことも多かったのですが、弓削さんとの付き合いは、楽しい時間のひとつであったと思います。他は、割愛します。

 毎週金曜となると、弓削さんと釣りに行きました。帰ってくるのは日曜の夜です。下手すると月曜になっていました。そのまますぐ寝てまた仕事ということも多々ありました。弓削さんの愛車である三菱のデリカ4WDグリーンは、弓削さん宜しく黒煙を上げながらもよくその主についていったものです。弓削さんはその口から煙を吐き、デリカも黒煙を吹いていました。弓削さんとコーラと煙。しかしなぜか下戸。この不思議な私との釣はしばらく続ききました。地図を頼りにマイナーな峠道も毎度のことながら夜中通過しました。LEDライトなどなく、ふつうのマンガン電池の電球ペンライトを片手に地図でナビゲートしたものです。とてもつらい夜中のドライブでしたが、無慈悲にも弓削さんは今どこやねん、はよしいなとと言われてしょっちゅうそのイライラを私にぶつけてきました。ああ、もう帰って寝たいと思ったことは何度あるでしょうか。今から考えるとナビがまだまだ普及していない時代のアナログな時代です。つり場も今ほど荒れてはいなかったと思います。

Kastmaster

スラブスプーン下段左右

なんの変哲もない、かつ売れそうもない、一見だれでも作れそうな気がするスプーン(失礼)だが、どちらかというと今のスロージグの原型に近い感じではある

これを考えた旧BOMBER社は、やはり凄い

 

 今では、オフショアと沖釣りは、同じ外洋であってもその釣り方で言い方も違っていますが、そのオフショアでの釣りも弓削さんともちろん同行していました。

夏のある日、三重でのシイラ釣りも衝撃でした。

当時は、シイラ釣りをPEラインでなんてまだない頃です。私はナイロン16Lbに愛機PENN SPINFISHER 4500SS5500SSをと710Z710については、カリカリと音をだしながら、その低速回転に手が忙しいのは必至でした。横で弓削さんに鼻で笑わられながらも、釣に勤しんでいました。ポッパーやミノーをガンガン引くと、そこそこ、それなりに釣れていましたがここでも弓削パターンは、炸裂します。

「これや。」

「ああ!ボーマー!」

それもです。恐らくみなさんが思い浮かべるなら、ボーマーのミノーLONG AMagnumでしょう。しかし、先生は違っていました。なんとそれは、SLAB SPOONスラブスプーンです。昭和時代のOFT社のカタログには記載されていたようです。それでカタログばかり眺めていた私には記憶があります。(確認するとまだ現役で販売されているようです。)

「ええ!!スラブスプーンですか!」

「こうするねん。」

流石は、ルアーの特性も理解している上にアクションは完璧、思わずシイラが口を使います。この時も驚きでした。流石バスで磨いただけのことはありました。その後すぐスラブスプーンを買ったのは言うまでもありません。

 シイラは、今でも好きな釣の一つです。そのゲーム性の高さは、当時の道具で戦うととても楽しいものでした。当時の私の海での釣りはその殆どをPENNに頼りっきりでした。


日本式ジギングという名の新しい釣り


シングルフック

多くの日本製はジグフックの開発に本腰を入れ始める頃に

MUSTADは、既に存在していた


 既に海外では、ジグを用いた釣りは存在していました。90年代それを特化した釣りが日本でも流行の兆しでした。しかしながら専用の道具は、あまりありませんでした。当時の竿は、良く折れたし、リールもほぼ専用のものなどありませんでした。もちろんジグもです。そんなジギングという釣りがまだ走りの頃で、試行錯誤している時代の話です。時代がPEラインという出現によってその釣りが開拓され始め、そのPEラインを意識した竿が製作されるようになると当然興味も湧いてきます。そんな頃のこと、弓削さんが「ああ、ブリ釣りにいくぞ」ということで同船しました。PEラインはヨツアミのパワーハンターが定価で売られていた時代です。とても高額でした。他にはサンラインのディープワンかゴーセンのメーターテクミーくらいでしょうか。

その日も掛かるのは弓削さんばかりです。隣で見ていても私には掛かりません。その日も竿頭であったことは言うまでもありませんでした。そんな天才的な玄人釣師を、当時は仕事で活かせてはもらえませんでした。釣りは娯楽ですので、仕事とは違うという主義、思想、コンセプトによるものでした。そんなフレームという枠の中のこうだろうという主観に満ちていた頃の勤務先でした。それは、ある程度似たり寄ったりなところもあった頃です。もちろんその先を行っているメーカーも存在していたかもしれませんが、私の周りにあるメーカーでは多少の差はあれども、時代的流れもあったでしょう。経営者の多くは、まだ高度成長期真っ盛りの時代を経験しその夢の跡を見ていた頃かと思います。その頃は、今よりかなり労働環境が悪かったようです。その流れは平成になっても幾分残っておりました。比較的古風な製造業に位置する釣具関係ならばなおさらその傾向はあったように思えます。もちろん一流と名がつくメーカーさんとではその考え方も幾分開きはあったように思えます。

Deepstinger10

DEEP STINGER 10oz

国産ジグが無い頃には大変貴重な存在だった

 

 ちょうどその頃の95年くらいから駿河湾でアブラソコムツ、バラムツ釣りが急に一大ブームになりました。ジギングというジャンルの幕開けと共に深海の荒くれものとの闘いにその近海でのお手軽さも手伝って一大ブームが巻き起こりました。10㎏サイズは小型、20㎏はまあまあ、30㎏も夢ではなく、40㎏も狙える。あわよくば50㎏もいけるんじゃない?という感じであったと思います。これとジギングブームは大きく重なりました。誰が一体初めたのかは、未だ解りませんが駿河湾が発祥のようです。私が始めた96年には、大いに賑わっていて、船を予約するにも必死です。中部関東の人はもちろん、それより遠い方も通っていた頃です。96~99年頃までは、ちょっとした一大ブームでした。どなたか私が走りであると仰せの方は、ご一報願いたいと思います。


ガマカツスイワッシュ


Gamakatsu SIWASH 5/0


オープン仕様は、ハンマーで叩いてアイを閉じる


 この日も、弓削さんと同行です。移動は5時間を優に超えて既にへとへとです。私は、初めての釣でもちろん弓削さんも初めてです。水深120~200mの棚を探りながらジギングって・・・・一体なんだか判りません。ジグ単体に当時出たばかりのエコギアをシングルフックに掛けての釣です。専用のシングルフックなど無いので、ガマカツのオープンスイワッシュフックを装着します。餌は使わない、あくまでもジグでと始めます。船長は、サンマつけたら良く釣れると薦めてくれましたが、ジグで釣りたいと当時はそれで行いました。訳の分からないまま、ジグを落としてしゃくります。全然釣れません。そして棚ぼけしてしまいます。その時の私のタックルは当時出たばかりのジギングロッドにPENN SPINFISHER 6500SSだったように記憶しています。弓削さんは、当時国内には無かったDAIWA SEALINE SL50SHAだったとおもいますが、その記憶は曖昧です。今思えば弓削さんはこのリールを使いこなしていました。ジギングにはこのハイスピードがええんや。当時ギア比1:6.1の両軸リールは、そう存在していませんでした。まだまだオシアジガーなど存在さえしていなかったと思います。

 

 そこへ弓削さんが、テンションフォールを行い探っていきます。

「よし、掛かった!」

「えっ?」

弓削さんの竿は、しっかりと曲がっています。

「この魚なんか面白い引きやな。」

ドラグもどんどん出て行きます。

そういいながらも安定のファイトで上げできました。

もうサイズも忘れてしまいましたが20㎏超えのバラムツではなかったかと思います。船長は、ふつうのサイズだと仰せでした。

思えばこの時も今の私より弓削さんの方が断然若い頃の話です。なんでもその走りというものは大変面白いものです。確率されて定着されてしまうと、魅力は半減してしまうのは私だけではなく、弓削さんもその一人だったと思います。その点弓削さんは、常に新しいことへのチャレンジャーでもありました。

水産食品学

1987年当時は、待望のNew Editionだったらしい

科学は常に進歩するが生物はそう簡単には進化しない

 

話は少しばかり反れますが、学生当時のことです。水産生物化学の児玉正昭教授の授業を思い出しました。そのころ、あのマグロの枕木にされる全身大トロのアブラソコムツを研究室で食したというおまけ付きの話でよく覚えていました。私が確認したことはありませんが、マグロ船冷凍庫の一番下の段にアブラソコムツを敷いてその上にマグロを積んだそうです。それがまさか釣りの対象魚になるとは当時思いもよらなかったことです。その存在事態もその授業で初めてしりました。1080年代も後半になった頃です。いつもちゃちゃを入れてくる後輩に言われて思いだしました。折角なので、学生時代の教科書を引っ張り出してみました。恒星社厚生閣の水産食品学19873月初版です。現在は、ネットで簡単に検索できる環境にありますがここははるか昔の学生時代を思い出して読み返してみることにしました。当時でも3800円するこの本は、高額と言えば高額ですね。P142にワックスエステルの話が出ています。マッコウクジラに代表される歯鯨類の脂質もそうだし、アブラソコムツ(サットウ)、バラムツの他、ボラのカラスミにも含まれているが一回の摂取量が少ない為に下痢をすることは殆どないと記載されていました。ここに、バラムツを食するヒントのすべてが凝縮されているようです。とても美味しい魚ですが、このワックスエステルは、人間にとっては厄介なものです。

今現在は、ネットでいくらでも情報は得られますが当時の我入道漁師直伝の食し方を守れば、基本?下さない?かも?しれませんが私は、数度口にした程度です。美味しいか不味いかという個人的な主観からすると美味しい魚にはまちがいなさそうです。


恐怖のヘビージギング

それは、チーム弓削と魔王への挑戦

90年代ジグ群

オリジナルCRIPPLED HRERRINGに装着されていた

筆者が、1990年代から2000年初頭にかけて使用していたジグは後方重心のスピードドロップを意識したジグが多かった

現在ほど多様化していなかったジグ群


前述の通りですが、それでも弓削さんがジギングをやっていたというイメージの湧く人は少ないかもしれませんが、いよいよそのヘビークラスへの話です。弓削さんがヘビークラスのジギングをするとは、アジ、メバル、アオリのイメージの方からすると不自然にも思えるのは当然のことです。何度も申しましたが、その実体験を私は弓削さんと行いました。まだまだ私は、体力には自信のあった頃です。誰でも若い時は、それ相応に体力があるものです。そして、何故か自信が湧いてくるのは私も同じでした。

それから、ジギングという新しい釣りのブーム前夜に弓削さんはその機動力を発揮します。弓削さんの人脈を頼り、次のターゲットの絞り込にはいりました。

ああだこうだと言いながらも狙うは、あいつしかいません。あいつって何?

と思うかもしれませんが、それでも日頃釣りたかった魚種の中から一番大型の選択でした。

参加メンバーは、弓削さんと私、後輩新人の哲とバスメインのバスマンM氏です。相変わらずのサラリーマン生活ではその前日も遅くまで仕事しました。それから夜出発となるとかなり辛いところですが、そこは若さで凌ぎます。まだまだ40前半の弓削さんもコーラ片手にとても元気です。デリカは幾分黒煙を上げていましたが、当時のそれは皆同じで、私の日産テラノもそれ相当の黒煙を上げていました。今では改良されてめっきり黒煙を上げる車も少なくなりましたが当時のRV車はディーゼルエンジン主体で、弓削さんのデリカも当然ガラガラとエンジン音を立てて走ったものです。

 イシナギをジグで釣る。それは、今ではいろいろと試されてそれ相応の実績のある釣りになりましたが、まだ90年代はそんなマニアな釣は殆ど存在していなかったように思えます。もちろん、狙って獲るということに関してで、たまたま掛かったということを除いてです。何度も申しますが走りの頃はとても楽しいものです。

ここまで来るまでに4時間余りの運転をしてそのまま続行です。もちろん船酔い上等です。

 水深は、80120mの根を流す釣りです。期待に胸は膨らみながらの最初の投入です。当時の道具集めに関しては、当然竿は、なんとかなりました。リールも何とかします。弓削さんが目をつけていたSEALINE 50SHA。当時としては、これ一択と言っても過言ではなかったと思います。DAIWA精工が誇るグラファイトフレーム、ハイスピードギアのリールです。アメリカで鍛え抜かれて未だその後継機種が生き残っているだけのことはあります。当時のアンバーサダー7000等では、この釣にはとても不安です。ラインは、名古屋近辺で買ってきてもらうか通販か、地元の釣具屋さんになります。当時はなんとか地元の釣具屋さんでもヨツアミのパワーハンターを売っておりましたが、これが定価です。お店にとっては、まだいい商売ができていた時代の名残なのかもしれません。100mあたり当時の価格で4800円という価格はなかなかです。消耗品のラインでPEという存在がまだまだ高額で取引されていたことは、ある意味健全であったのかもしれません。それをめいいっぱい巻きます。300mです。ジグもほぼ出始めの日本製かアメリカ製になります。

 この釣りは、当然ボトムを意識しての釣になります。ボトムコンタクトがあってからすぐにジギングを開始します。ボトムを叩くようにさぐりながら、その上10m程度を探り、また入れ直しです。船長は、実績のあるポイントであると言うけれど、なんせ初めての釣です。果してかかるのかどうかも判りません。そこは不安だらけの開始です。

 すると・・・・・。

それは突然訪れます。

「うっ!ああああ、なにこれ?!!」

その声の方向を向くと、M氏がびっくり仰天しています。それを見た弓削さんが即

「それ魚やろ!」

私が「魚、サカナ‼」

「合わせて!溜めて!」

ところが本人は、ほぼパニックのようです。俗にいう“てんばってる”状態です。それが魚と言われても根掛かりのように動かないばかりか、どんどんリールスプールが逆回転していきます。これは、どうも本命のようです。そのままスプールは逆転し続けます。竿は、がっつりと伸されています。M氏は、何がなんだか分からないまま虚しくも糸は出ていきます。彼のひきつった顔をみるとそのすさまじさが伝わってきましたが、何もできていない様子です。そのあと、ふっと軽くなりました。その間が何分かは忘れてしまいましたが、明らかにフックアウトです。とても残念でしたが、致し方ありません。なんせ彼は、ジギングなんて初めてのことです。これで、魚は居ることが確実になりました。しかもそれが、狙ってジグで掛かることが判りました。ジギングで獲れるのかもしれない。そう思いました。リーダーはナイロン130Lbでした。当時としては、それ以上考えていませんでした。

再び船を流し直しします。

期待を胸に再度投入する私を横に、後輩哲が投入しています。当時出たばかりのヘビークラスのジギングロッドです。コンポジットモデルです。アメリカのスタンダップロッドのブランクを改良したものです。まだ富士工業からMNSGというスーパーオーシャンガイドが発売される前で、それはNHSGというSic搭載のスタンダードなガイドです。もちろんストリップは40サイズでその上が3025201616TOPの構成です。それに哲は当時としては、受け売りのPENN SPINFISHER 8500ssをコンボしています。

「あああ!きっ、きたー!」

農業と急坂を自転車1時間かけて通った足腰は、結構な安定感と同時に一番若いこともあって、彼はしっかりと溜めています。そこは、何度も30㎏前後を相手にサットウで鍛えています。今度は、がっちりとフックアップしているようです。しかし、相手は相当なものです。いとも簡単に糸を出して行きます。これを何度も繰り返すと、哲は弱音を吐くようになりました。

その横で弓削さんが

「平野君、もうちょっとドラグ締まらんか?」

すかさず、SSのドラグノブを絞めてみます。

「もうカチカチです。これ以上締まらん!」

「もっとしまらんかなぁ~。」

ラインもキンキンに張っています。当時のPENNパワードラグが虚しく糸を出していきます。

それから哲と怪物の攻防は、20分以上も続きました。それでも根沿いを力強く泳いで全く浮こうとしません。哲は、顔を真っ赤にしながら、もう勘弁してくれという始末でした。それでもそれから10分更に持ちこたえます。それからさらに、助けてだの、嫌だの、疲れたなど、弱気な叫びは連発しますが耐えているようすでした。しかもきっちりと竿を曲げて耐えています。本人は、もういいと言い出しましたが、どうやら竿が起きているようです。

「よし、哲ガンガン巻け巻け~」

「なんか弱って来たかなぁ?」と弓削さんがおしゃいます。

確かに魚は、頭をこちらへ向けて来たのかどんどん浮いてくるではないですか。哲は、すかさず回収に移ります。何度もポンピングしておそらく10m以上は回収できています。勝負はついたかにみえましたが、ある程度浮くと、その魚は、また底へと走っていきました。哲の悲鳴はさらに絶望感を伴っているようです。40分近くを交代なしでしかも竿を絞り込んでのファイトは、私の師匠譲りです。魚は、弱っていませんでした。弓削さんもこのクラスは初めてのようでした。

「あっ!」

「切れた!」

まさかですが、お決まりのことばと共に竿はふっと起きていました。どれほど弓削さんと私は落胆したでしょうか。その姿をぜひとも見たかったのですがそれもまた夢に終わりました。

哲は、切れてホッとしたと言っていましたが、それが本音だったのかと思います。折れる心を私達の後押しで支えていたようです。

それは夢で終わりましたが、帰りはその話で持ち切りでした。家に着くころにはみなさんフラフラ、ぐでぐでになっていました。月曜の朝の仕事が待っていると思うとその夜は、とても憂鬱でした。それだけ拘束の長い行為は、心まで蝕むようでした。そんな私達には同じく月曜の朝礼が待っていました。

夏のはかなき夢物語です。

その後の休息時間も、昨日の話ばかりです。当時は携帯もガラのみです。当然スマホなど考えすら思わない頃です。携帯写メは、ほぼなんだか分からないほどぼやけています。デジカメも今三の10万画素とか20万画素とか言っている始末です。フィルム撮影がまだまだ主流の頃でした。当時の撮影をする人がいなかったため、この釣りは口頭でしか語ることができません。とても残念です。私は、そのガラ携さえ持っていませんでした。あの必死なM氏、暴力的なファイトに40分近くたたかった哲の様子も弓削さんと私とその時の当事者の脳裏にしか焼き付いていません。今のようにゴープロがあればなあ、そう思ったりもします。その当時のことを弓削さんもよく覚えておりました。この日のことは、あの世でいつかお会いした時また語りあいたいと思います。ジギングとその夢に明け暮れた若き日の私と今の私よりかなり若い弓削さんの話です。

 

人情に厚い人

 

人情に厚い人。それは、一概にどこの国の人とは言える訳ではありせんし何処にもどの国の人でも人情味のある人は存在します。弓削さんは、その点に於いてもその一人でした。私が密に関わりがあった数年の間にも様々なことがありましたが、それ以降もたまに連絡を取っていました。実に2002年以降は、恐らく私よりももっと密に関わりがあった方の方がより理解されていることと思います。私も西国の出でありますので、義理人情に厚いことがなにかは理解しているつもりです。首都圏ですと、ほぼあり得ないことなのかもしれませんが、それはそれで日本一という大都会の産物であるので、致し方ないことだと思ったりします。実に都心は、あらゆる地方から上京してごちゃまぜになった大都会ですので、地方の方言なども使える場所もありません。いつの間にか私も限りなく標準語に近くなってしまいました。

 人情味のある弓削さんでしたが、しれっと

「これやるわ。」

と物を置いて行ったことが何度もあります。

長男が生まれた時も、夜突然来られ、

「おう、長男の誕生祝いや。」

と言って電気毛布を置いてさっと帰られました。つくづくその何気ない心意気やしぐさに、義理人情に厚い人だと実感しました。少し恥ずかしがりやなところもありました。時に、人情に厚く熱い人ほど感情も豊かなものです。それは、時によって理不尽な好意に出た人には、静かなる暴動を起こしたものです。心の暴動は、20年後も忘れず私にあの時のことを昨日のようにお話しされていました。人は、理不尽な境遇や立場に一旦置かれればそれを忘れることはなかなかできません。忘れることなど到底できないのが人の心です。同じ勤め人の苦労は、かつての野麦峠の女工さんの無念にも似ています。姥捨て山や野麦峠の話が実話なのにも凍り付きましたが、その精神は今でも亡霊の如く生きているようでした。それもさらっと流される人になりたい。そう思う日々ですがそれは、凡人にはあり得ず聖人にしかできないことなのかもしれません。

 

ABUMITCHELL

MITCHELL4091


「アブ?ああ、まぁ最近はつかわへんなぁ。」

それを聞いたのも、90年代の話です。当時その理由を聞いてみました。70年代は、確かにアブ製品を使っていたと言っておられましたが、バスプロ時代にその話が上がったそうです。それは、アブがスポンサーになってくれるという話だったそうです。当時からするとオリムピックが総代理店時代かと思いますが、弓削さんはお断りして後輩を紹介したそうです。その後輩は、その後アブリールで個人名まで記載されて販売になりました、弓削さんは既にアブから興味が無くなっていたころの話だったそうです。

 

MITCHELL4092

かつての弓削さん70年代愛用品


 弓削さんは、90年代TOURNAMENT WISKER SSをいつも使っていましたが、私が同行する際に使っていたのは、今では化石となっているコレクターアイテムのABU Cardinal3344、廉価版と呼ばれる40そして、C3C4という80年代のアウトスプール化したオリムピックが発売している日本製のもの。それとまだアメリカ製であったPENN SPINFISHER4300SS、そしてぎりぎりオフランス製がまだ幾分残っていたミッチェルです。当時は、308310とかつて最も日本で人気を二分した小型モデルと私がシーバスで使っていた300も既に香港製がメインでした。USドルで30ドルしていなかったと思います。それは、もはや過去の栄光ともいえない残光の時代品でした。それでも、1214LbANDEを使ってシーバスとやらは上がったものです。そんな私を見てか見てなかったか、弓削さんがとある日309Prince409をもってこられました。

「もうつかわへんから、やるわぁ。」

そう言って置いていかれました。

「こんなんつかうより、ダイワつかいーな。」

まさにその通りでしたが、それでも33を出しては糸ヨレヨレ、そのまま更に使うとたまにもわっともつれにもつれてごわっと塊になってトラブルを起こしていました。撚れ始めるとカットして撚れていない部分からまた使うということを繰り返して使っていました。もちろんナイロンラインです。ヨレヨレとなった糸は、すぐにライントラブルを起こしました。おまけに33のスプールは、樹脂でできており、爆発という表現のスプール前側半分が割れて欠落することで有名でした。

それは、私も1度ありました。まさに悪夢です。

フランス製

弓削さんがバスプロ時代に使っていたミッチェル

“いらん”と言って置いていってくれた

当然、他に譲ることなどできない

MITCHELL 309Prince409

ABUハイロー

弓削さんから頂いたハイロー

もちろん新品で頂いたものだが台紙はどこかへ行ってしまった

ABUハイロー2

ABU社のHI-LOは、その生産国まできっちりと記載してある

私が子供の頃は、それが何の意味か理解できていなかった

KWIKFISH

HELIN FLATFISHの話をした時のことその後

弓削さんが持参されたのは、JENSENKWIKFISHだったがこのときもしれっと

 

KWIKFISH2

これも未使用のまま

 

弓削さんが持って来られるのは、モノだけではありませんでした。

鮎は、いつも生きたまま突然持ってこられました。アユも本流のそれは大きいけれど、ケミカル臭にどうしても食が進まないことを告げると、支流のものを持ってきてくれたりもしました。本流鮎は、その臭いを飛ばすのに苦労しました。何とも言えない臭いが鼻について食することができませんでした。それで

弓削さんを家に招いて天茶にしましたが、油で臭いを飛ばすことにしましたが、それにも限界がありました。今思えば、衣でコートすると飛びにくいのかもしれません。となると素揚げになってしまいます。それもやった記憶がありますが、やはり少しケミカル臭は残っていたようです。しかし支流でのアユは、とても美味しく頂けました。今思えば単純に釣りとしては、大型化している本流の方がとても引きが強く楽しかったことでしょう。食すということを考えると、それを少し削ってのことになりますが、弓削さんはリクエスト通り支流の美味しいアユを釣ってこられました。

 弓削さんとうちの長男と家内の4人で食事もしたことが明日のようです。単身赴任は、コーラと弁当ばかりになったことでししょう。その頃からかどうかわかりませんが、弓削さんおコーラ太りは加速していったように思えます。

弓削さんは、アユ釣りもかなりの凄腕と先にも述べましたが、当然ながらみせかけだけのマルチアングラーではありませんでした。その釣り幅と技術は、感服の一言でした。私もある程度は幅広くやっているつもりではありますが、弓削さんに比べるとその半分にも満たないかもしれません。弓削さんのアユのイメージは、その昔を知る方の中では常識のようでした。もちろん私もアユ釣りは、何度も誘われましたが当時はなぜか全く関心のない釣りの一つでした。経験すればよかったと後で思ってもみますが、私にとっては弓削さんが誘ってくれた時が最大最後のチャンスだったように思います。ここでも後の後悔先に立たずになりました。

今現在、小刻みに細分化しているルアーフィッシングを一纏めにしてかつエギング言うに及ばず、投げ、フライ、へら、タナゴ、磯上物、チヌ、など実に幅広く深いものだったようです。まさに昭和の時代から平成の細分化は、バブル経済の後押しもあったかと思いますが弓削さんはその渦中を乗り越えてこられました。まだまだ、日本4大メーカーと言われていた時代には、ダイワ、シマノ、リョービ、マミヤ(オリムピック)が存在していた時代です。バブル経済の恩恵の上にそれぞれ成り立っていたのでしょうけれど、90年代も後半になると既に明暗が分かれ始めてきたのか現存するダイワ精工とシマノのこの2社の商品展開には勢いがあり、他の2社は後退失速気味に感じました。それでも今現在からは考えられないほど幕張メッセの会場を2つに分けてまでの勢いはその栄光の頂点から陰りに以降した時代であったのかもしれません。

 

時に昭和時代の一時、弓削さんが勤めていたフィシングサロン心斎橋ももう2015年に閉店したようでした。もう四半世紀以上も前になりますが、弓削さんと何度か足を運んだことがあります。時代は、その後量販店とネット通販の時代に移行していったのは誰もが知るところです。それから20年以上も経つと町の釣具屋さんと呼ばれるお店は、それらにことごとく駆逐されてしまい、もうかなり減っている時代になりました。そんな時代を弓削さんは、昭和、平成、令和とそのスピードは年齢と共にゆっくりになっていったかもしれませんが、その3時代を駆け足で釣りをしてきたようです。まさに弓削さんは、釣り業界の渡世人な感じでした。

 

戦い終わって

弓削和夫氏に捧ぐ

 

弓削さんとSS

人は、人である限りその人生の終わりを迎えなければなりません。その人生もその人なりの時間と空間がありますがそれはまたまちまちで、誰一人として同じものはありません。長く生きたからといって、それが素晴らしい人生とは限りません。今現在の我が国では超高齢社会と言われる先進国の中でも特出している国の1つであることは誰もが周知のことです。長く生きて、長く裕福に暮らしたとしても果してその人生が幸福であったのかどうかを聞くと、大半の人がその命を終える直前までもっと生きたいと思うことでしょう。それは、その先の行方が全く分からないからからなのでしょうか?それとも、あの世でももしかしたら、地獄に行ってしまうかもしれないと思っているのでしょうか?また、あの世がないという人は、我が国にもある一定層存在するとは思いますが、そうなると永遠なる闇も感覚もなにもない。そう考えてしまうと、とても恐ろしく怖いことに思えます。死んだら終わりなのでその感覚という概念すらない。まさに永遠の闇です。いや闇という感覚も存在しないのです。永遠なる無と表現した方が良いのでしょうか。そうなると無からは、無しか生じないのでそれを考えても恐怖です。だから人は、死ぬその直前までそれを考えないようにしているのかもしれません。しかしながら、私はそう思いません。いや思いたくないのです。

 生きることの証。即ち他人との縁と繋がりとその思い。それがその後も語られ、永年に残っているかもしれないと考えるとその証はあって欲しいものです。その語り合いが、あの世でもできたらいいな。そう思います。いや希望します。

 弓削さんの人生は、弓削さんにしか分からないものですが、私と5年近く一緒に仕事をして、一緒にあちらこちらとそのモスグリーンのデリカ4WDで走り周りました。釣りと言っても、時に移動の方がはるかに長い場合も多々あり、途中で寝落ちしながらも走り続けました。愛車は軽油を満タンにして、お腹もコーラで満タンにして。まさに弓削さんは、走りつづけないと死んでしまう回遊魚のようでした。

 きっとまたあの世で竿を一緒に振ることができる日があることを心より願います。そしてあの世でも相手になる魚が居て欲しいと思います。あぁ、でも極楽浄土と言うのは、そもそも殺生も争いもない平穏で平和が永遠に続くところでしたね。すると、釣なんて命を弄ぶ釣りなどは、行われていないかもしれませんね。それはそれでちょっと寂しい気がしますが、それは永遠なる幸福とは比較にならないのでそちらを優先しましょうか。

 

弓削さん、かつてのつたない若い後輩の私にとても親切かつ熱心にご指導して頂き本当にありがとうございました。

なんの恩返しもできませんでした。それを私の後輩に相続させることが恩返しと心得てこの世知辛い世の中をあと幾らかの残された時間を生きていきたいと思います。

もっと早くこれを書きあげるつもりではありましたが、それも1ヶ月以上が経ってしまいました。それもお詫びもうしあげます。

乱筆乱文大変失礼致します。

 

 

安らかにお眠りください。

 

202337

釣竿工房 月 代表 平野 元紀拝



南方回帰Ⅳ-影と闇と残光2014-122023年02月03日 20:55

 大寒もよろしく、寒い日が続きますね。今日は雪がちらつきました。雪国からすると特段珍しいことでもないですが、年数回の雪の為にスタッドレスタイヤを履いています。
 さて、昭和の頃の話です。クローズドフェイスリールと呼ばれていた時代になんともカッコよさをそこに見出したのは45年近くも前の話です。つまり半世紀も前の話になりますが、ぼくらのルアー釣り風の本には必ず出ていたものです。当時は、ダイワ精工もそれなりに力を入れていたようです。アメリカ市場を狙うにはある面必須だったのでしょう。ゴールドキャストという高級機種から私が小遣いを溜めてぎりぎり手が届いたシルバーキャストSTまで結構バリエーションがありました。でも一番欲しかったのは誰もがその名に憧れたABUのマチックです。当然買うことができなかったのでSTとこのミニキャストⅡを買いました。
ダイワミニキャストⅡ-1
 まだ実家に転がっていました。そのままです。海で使ってろくにメンテもしていないのでボロボロです。中学の頃購入したダイワ精工のPHANTOM PPC-55Lも出てきました。これは学生の頃まで使っていました。相棒のシルバーキャストは、どうやら学生時代に壊れて捨てたようです。この竿にシルバーキャストのコンボでアイナメの2.5㎏を掛けて往生しました。小学生の頃からメンテナンスを覚えていたらこうはなっていなかったと思います。かつては自称ダイワ精工ヘビーユーザーだった?のは間違いない・・・のかもしれません。単純にABUが、いい大人しか買えなかっただけなのですが。
ダイワミニキャストⅡ-2

さてその12になります。

ワイロンという存在

ワイロン仕掛け


大洋ワイロン(アルティフレックス)

The Wylon Ulti-Flexstainless Wire leader material-the ultimate in flexibility and strength

各種釣・漁具用品及び装飾用ワイヤー

並びに関連材料卸

ワイロン仕掛け2

長谷川勝美氏本人による製作仕掛けと直筆メモ

各台紙にもその思いが沢山詰まっていた


 ワイロンと言えば・・・。
これを考案した故長谷川氏の話は、ちょくちょく出てくるので少し話が重複する部分もあるとは思うのだがそれは、それだけ私がとても感謝していることだと理解頂きたい。私は、長谷川氏の晩年(しかも80過ぎ)しかお会いした事がなかったがとてもすばらしい良い方で、研究熱心な方であった。余程昭和の時代に釣りを研鑽されているようだった。その当時のお話をお聞きすれば、それがとても良く解った。誰でも現役時代はあるし、ピークはあると思う。それがどれだけ長いかはその人次第なのだが、長谷川氏はその枯れた枝のような手ともう裸眼では殆ど見えなくなったその老眼で多くを教えて頂いた。とても感謝に絶えない。面白かった当時のお話しも私の記憶の劣化と共に薄れようとしている。細かいことが忘れてしまってゆくのがとても残念であるが、アメリカのフライフィッシングの一部のSWマニアにも使われていて、アメリカへも輸出しているとのことだった。なるほど、それで英語表記もあるのかと理解した。それ以上フライフィッシングについて聞くことは無かったが、歯物系に使用されていたのもその流れからとても良く理解できる。東海岸であれば、ブルーフィッシュなのかな。フロリダなら、バラクーダやシャークも狙うと思うのでサメ対策も大いに頷ける。ここが我が国と違うところでもある。我が国のフライフィッシングは、完全絶滅はないにしろ、絶滅危惧にまっしぐらな感じだ。それも更にSWともなるともっとそのランクは上がる。今のままでは、先細りもいいところだろう。日本における大手釣具メーカーのその力の入れ具合のなさが市場の衰退を物語っている。


その後、ワイロンと長谷川氏の存在がとても釣りの幅を広げてくれたのだが、それもどうやら今現在は進化する事もあまりなさそうな感じを受けるのは恐らく私だけなのだろうか。
 その後、しばらくして会社も譲渡されアイテムは増えるが根底にあるスタンダードなあのワイロンのアイテムは縮小方向にある。特にカラーアイテムの減少については、これも世の中の流れで仕方のないことであるし、現オーナーの考え方ひとつで決まって行く事なので、そこは干渉の余地はないと認識している。しかしながら、とても残念である。それも無念に近い形で。

ワイロン仕掛け2

ワイロンにはそのカラーが何種かあるが、赤でも黒でもそうこの本題でもある釣りに関しては、大差がないみたいである。また、バラムツやアブラソコムツにもこのワイロンがかなり有効である。もちろんこれに関しては、職漁時代は、ステンワイヤーで行われていたので、被膜が無くてもいいらしい。筆者は、過去300匹いやそれ以上釣ってみたけれど、そのカラーによっての釣果の差は見られず、赤でも黒でも海藻と言われる緑でもカスミと呼ばれるシルバーでも釣果にその差はあまりみられなかった。しかしながら、旧ワイロン台紙にはそのカラーにはその意味がそれぞれあるらしい。また、ロウニンアジの泳がせについて質問した時は、霞がいいとお話しされていたのを思い出す。それは、長谷川氏が実証したと思われるが、当方にはそれを比較したデーターを取るまでに至っていない。
 その他、長谷川氏が考案したワイロンリグは、多く存在していたけれどどれも絶滅の方向に限りなく近づいているのがとても残念である。今思えば、もう少しお元気な頃に、ベンダーズ製品とりわけワイロンの使い方及び仕掛け集でも執筆してもらえば良かったといつも思う。今やその氏のデザインした台紙さえ、全く違うものになっていたのはとても寂しかった。またひとつ、小さな現実が変わってしまった。それも時の流れであると思う。所詮趣味とか娯楽と言われるものの多くはそうなるのだろう。

今でも、長谷川氏がその時語ったことが昨晩のようであり、後継者が先に死んでしまったんですよまだ若かったんですがね。という何ともか細くも無念ながら語ったことが忘れられない。

プロギアとワイロン

時代は、流れて行くものでその多くは継承すらされない。それは、砂漠の足跡に似ているのかもしれない。


ダイワみにキャストⅡ-3
その13へとつづく

南方回帰Ⅳ-影と闇と残光2014-112023年01月21日 18:46

 1月も後半になって来て漸く寒波も到達するうようになりました。こんな日は、コーヒーより熱いほうじ茶が合っているような気がしています。もちろんコーヒーは愛飲しているのですがね。正月太りよろしく、ちょっと甘いものは控えましょうか。
 巷では、コロナ禍以降ぶりにフィッシングショーが行われているようです。そういえば、横浜へはもう何年も出向いていません。2020階催事よりも盛り上がっていればいいのですが。
632-S100- 01xp 2-6Lb White&Red
新年なので紅白ということでアップしようとして今になりました。
旧暦の正月ということで。
 
それではその11になります。

それからの一撃

モクズガニ


THEN A BLOW

スッポン


一撃で仕留められればそれは達人である
一撃がだめなら二撃
二撃が駄目なら三撃、四撃と攻め続ければ良いことなのか
そうすれば、おのずと隙は見えてくるのかもしれない


いつもの日常と同じ様に目が覚めた。習慣と言うのは、よほどの変化事が無い限り続くみたいである。ふと隣で寝ている専務を見ると、熟睡の様子だった。それもその筈、専務のライフスタイルからすると夜中まで仕事する日ならば熟睡タイムであろうから。日頃のライフサイクルが、両人で少し異なっているのは当たり前と言えば当たり前の事なのだが。

 独り珈琲を啜った。
なんだか静か過ぎるので移動する事にした。と言っても師匠宅ですが。

師匠宅でインスタントコーヒーをカップに適量入れて濃さ加減もいい加減にと啜っていると、そこへ昨晩車中で一緒になった例のお姉ちゃんのうちの一人が私に気が付いたらしく、声をかけてくれた。

「おはようございます~。」
おお、ここは少し希望と思われる朝の挨拶に、会話の始まりかと僅かながら思っているとそこでまた声が。

「昨日は釣れましたか?」

などと聞いてくるではないか。
一体どういう事なのかと半信半疑で私は、その真意を問うてみようと少し捻ってみた。

「おぉ・・どうみても釣りには関心ないと思っていたが・・・関心ないよねぇ?」

「はい、関心ないです。」

「だろうねぇ。」

ある面期待通りのお言葉であった。
彼女なりの目一杯(めいいっぱい)の、ありったけの社交辞令のお言葉であったと直ぐに解った。それもストレートな回答。変化球は全く持っていない様子だった。変化球かと思いきや、ストレートで空振り三振というところである。一体彼女たちは日頃どういう生活を送っているのだろうか、おっさんには全く知るよしもないのでそのままにした。当然魚など全く関心が無い様子なので、敢えて魚種まで説明するまでも無いと判断はしたものの折角聞いて会話をしようとする意思が若干でも見えたので、これをなんと説明すれば解りやすいのか?と自問自答する。関心ない人にさらりと聞き流す程度の説明と言うのは、なんとも簡単なようで簡単ではなかった。それをマグロと言っても想像はつかないのは当たり前で、それがハガツオに近い奴と言ったところでカツオとの区別がそもそも判らないのでもっと次元を下げて話をしなければならない。せいぜい回るすし屋のマグロかネギトロくらいなのかもしれない。

それでも、彼女達は社交辞令挨拶と言う手段を知っているだけそれなりに、社会の中でそれなりに揉まれているのであろう。宇宙からの距離は、月と地球程度には近づいたけれども、いや渋谷の交差点であう確立くらいは近くなったかもしれないが。
 その後も数回彼女達と会うが、全くもって会話は弾まなかったし、関心もなさそうだった。ただのやぼったい親父にかまう暇など、全く持ち合わせていないと言うのがおそらく本音だろう。宇宙から来た人は、幻のように時々視界には入るが直ぐにフェードアウトして行った。ただひたすら1泊と半日の旅をどうこなして行くかが問題のようだった。一体なにを観光するのか私には分からない。

それから半日もすると、その日のその時間も、我々には直ぐに訪れたようだった。午後から夕方にかけて専務と二人、ゆっくりと準備にかかる。チェックする。
リーダー部分を補充。
ワイロン部分を作製。
R
リグ改の根幹の部分である。番手は、#36番でこれが基本となる。(ワイロンの太さを表す記号で小さくなるほど太くて強度があるものになる)
 最近、愛用のプレッサ-に歪が出たのか、カシメの部分がすり減ったのか、あるいは変形したのか、時々決まらない事があるのでスリーブは2個止めにしている。10年近く使えば簡単にカット出来たワイヤーも、少し切れが悪くもなってきた。使用頻度にもよるが、5年も持てばまずまずと言ったところなので仕方ないと思う。そろそろ買い換え時なのは、良く理解している。旧YO-ZURI社からのつづく優良品には違いない。

632-S100- 01xp 

今年もぼちぼちいきましょうか。

その12へとつづく

南方回帰Ⅳ-影と闇と残光2014-102023年01月06日 11:30

 新年は、まだ初釣りをしていませんがちょっとした時間を使っていつもの海を見にいきました。2年前のコロナ禍釣りブームもすっかりと落ち込んでファミリーはかつての1割もいません。それでも何人かは釣りをしていました。ざっと見て釣り場には10人程度です。たまに竿が曲がるのを見ると、クサフグです。クサフグは、クサフグです。TTX搭載の魚類です。今日の釣人は、そのクサフグを陸にあげて粛清の如く拷問放置はせず、リリースしていました。どうやら今日のメンバーたちは無駄な殺生はするなと教えられていなのかな、と思ったりしますがそこは聞いていません。若いカップルに声かけすると、鯊が1匹釣れたと楽しそうです。にこやかにそう答えると一生懸命かつ楽しそうに青イソメを投入していました。今日の釣り場は、幾分ストレスフリーに近かったと思います。久々に家内と海の散歩なるものをしました。コロナ禍で外出も最低限になってからこの正月も出歩かないので体重は増える一方です。

まtikku to
1965年のオリジナルから半世紀以上経って、アップデートしてきたが品質は落ちる一方の170。前作の170Iは、シンクロドラグ搭載だったけれど、この170にそれはないです。また、ますます劣化し耐久性もそうなさそうです。使い捨てのおもちゃに過ぎないのかもしれません。かつての職人気質な品質はもう遠い過去のことみたいです。
ガルシアさんの没落
ABUと言う名のかつての栄光のスピンキャストリールと、その残影に映って見える。
つきまろとマチック
今年もどうか宜しくお願い致します。

さて、その10になります。

夕日をのぞむ

重い荷物を纏め始める。
帰りは、できるだけ軽量にする為に、ペットボトルの真水をことごとく磯場に撒いた。それが多少でも洗浄になれば良いのであるが、誰か先行者がオキアミを使ったのか、この異臭だけは非常に気になるところだった。釣人の多くは、その後のことも気にならないらしい。誠に残念でかつ寂しい限りであるが、それが現実なのだろう。その寂しさは、時に憤りを起こす。

後にこの異臭と汁が厄介な事になるのだが・・・・。

 ボトルの水は、4Lくらい残ってはいたものの、当然足りないので水汲みバケツで海水を汲み上げる。これもなかなかいい仕事になる。それは、岩にごつごつと何度も小突き、あたりながらも引き上げられる。水汲みバケツは、そのテラスのエッジ超えがなかなかどうして大変だった。その度に滑車なら楽だと言われる。もちろんそうだろう。しかし、一体だれが滑車を設置するのか。あるいは、その度毎に簡易的にでも設置するのかということで終わってしまう。これが嫌で皆、その撒き餌、コマセを放置して帰るのだろう。そんなのは、理由に全くならないのだが。

万が一の時の水と食料等は減らしたものの、専務の荷物は行きが40kg、帰りでも魚が無ければ30kg程度はあった。
 私は、少しインチキさせてもらい20㎏くらいを背負った。ここは年功序列という都合のいい言葉で片付けることにした。ほんとそれインチキと言えばインチキなのかもしれない。

とぼとぼと荷物を背負って高輝度LEDの明かりを頼りに歩く。これが帰り道ともなるとなかなか辛かった。それは今も昔も変わらなかったが、進化と言えばLED照明の異常な明るさにかなり助けられていると実感した。専務も私も230ルーメンの明るさは、我々にとって神の照明、召命である事にお互い異議は無かった。更に今は、ヘッドライトといえども300ルーメンが存在するのには、脅威である。

12月に入ろうかと言うその日の晩に、汗は滝のように流れた。
真夜中の汗。そして、黒の景色。

見上げると無数の細かな星の光。

それもぼんやりとぼやけて見える。

歳のせいだろうか。

やっと到達すると、師匠が待ち合わせ場所まで待っていてくれた。星を見に来たという、東京から来た二人組のお姉ちゃん達が、ほぼ我々を存在していないかの如く、迎えてくれた。この二人組は20歳と言う事だったらしい。当然ながら、つい2年程前まで高校生だっただろう。
 この島でその二人のこのメイクとファッションは、あまりにもかけ離れ過ぎて、更に親父の汗まみれで魚臭い二人組との共通点は、全く見出すことが出来ないほど皆無であった。この不思議な二人は、不思議な二人だけの世界が全てかのように、振舞っていた。彼女達は一体何が目的なのか、どうしたいのかさえ聞く事もできないほど、世界が遮断されていた。このタイプの人をこの場所で経験するとは、夢にも思わなかった。しかも、真夜中の釣りの帰り道・・・である。これがなんとも同じ空間の中の異空間であった。

師匠に早速結果を聞かれた。

ぼつぼつと状況報告する。

「ええええぃ・・・。」
と我々と気持ちを同じくとても悔しがってくれた。
師匠は師匠、弟子の至らなさは己の至らなさの如くであろう。次に即、説教が始まった。同じ釣り人として悔しがってくれると言う事は、同じ経験を幾度となく体験したと言うことでもある。その説教を聞くのは、決して嫌では無かったのだが、二人してうなだれる横でお姉ちゃん二人と言えば、クスクスと二人だけの会話を楽しみ、全く違う次元にいて笑っていた。なんと言うこのアンバランスな光景と時間と人間関係。

狭い車内での異空間。

これは、正に真夜中の精神崩壊と分裂な時間なのだろうか。全く理解不能なこの同じ空間にただただ違和感を覚える2人と師匠そして、その異空間の彼女達とその世界と世界観。師匠と弟子2人、おそらく宇宙から来たであろう若い2人組。会話は、当然全く弾むよしもない。なにせ、住んでいる世界が遮断されているのだから。しかし、そこは流石師匠である。そのような事はお構いなしで説教をしてくれた。師匠は師匠。ここは、全くブレていない。これでY監督がくると最強のコーチ陣となるのだが・・・。とても異例極まる真夜中のことだった。

 夜道を15分程で車が無事到着すると、夜中の2時を回っていたこの時間に野人が来てくれた。

「やあ、どうだった?」

「ああっ~1ブレイク~。」

「なんだ、また切ったか・・・いつも切ってるなぁ・・・。」
大変厳しい野人のお言葉である。何とも返す言葉も無いのであった。師匠に加えての辛口な野人様のご意見だった。

それから、疲労困憊の疲れきったものの、二人就寝したのは朝4時ごろであった。

その日の夢は、なんだったか覚えていない。

ただ、己の未熟さを再確認したのは、自分自身が良く知っている事である。
誰のせいでもないのだ。

それを一体誰のせいにしようと言うのか。

磯をのぞむ

その11へとつづく


新年あけましておめでとうございます。2023年01月01日 20:40


謹賀新年2023
  本年もどうぞ宜しくお願い致します。
今期は21周年になります。
これからも限りない過激さと異端の道をまっしぐらで行きたいとおもいます。 
異端ギア
異端のおまけである、月竿を支えるスピンキャストギア
異端ギア2
1960年代と2020年代をつなぎます。
異端ギア3
 その昔は、クローズドフェイスリールと言っていました。小学生の私がその意味を知ることはありませんでした。覆面で月竿の大人の遊びに活躍してもらいます。全力で大人の遊びのお手伝いをさせて頂きます。
CT702-FTS20 とVISSER
月竿の根幹をなすFTSとStargazer Jr.7は、月竿の代表格ですがはじめの1本としても使いやすく、そのオーナーをその粘りで大きくサポートしてくれるでしょう。
CT702-FTS20とVISSER2
正統なる異端を目指すあなたの為に。
632-S100- 01xpとVISSER
632-S100- 01pもその過激さは、ヘビークラス譲りです。あなたの過激なるULゲームや余暇に。 
CT702-FTS20とVISSERと未来
2023をより過激に異端でありその王道を進んでいきます。
しかし、その心と魂はその皆さんの為にあることをお約束致します。
月竿代表 平野元紀

月竿振出 MOON STARGAZER Jr. Light72022年12月16日 19:00

月竿の振出

MOON STARGAZER Jr. Light

STARGEZER71



S-Light Multi-Purpose

STARGAZER72


それは、振出(Telescope)であっても最大限にその力を発揮できなければならない
そしてそれが実践性、つまり実用性のある製品でなければならない

たとえそれがライトクラスであっても、余暇用であってもそこに妥協は許されない

なぜなら、遊びの中にも本当の至福が潜んでいるから


継竿バリエーション


旅行型のベースとなったTRAVEL 73-BG 3pcsシリーズ
2010
年発売当時は、このクラスでのマルチピースをほぼ見かけなかった

 

月の振出シリーズライト

Blank Material

その昔より、携帯性を重要視したトラベルロッドとかマルチピースとかテレスコロッドは主力ではないものの、古くから展開されてきました。それは、どちらかというと“ちょっとした”ということが前提のロッドであったことでしょう。昭和の時代から平成にかけて、過去には往年のキラク社やまた比較的容易に購入可能なリョービのものが多く存在はしていました。それはどちらかというと前者は、渓流寄りのもので、後者は、量産型万能小物竿という感じでした。

廃盤振出


時系列順に並べてみる
上 1978年同時の振出 日本製

中 創業1917年のキラク 日本製

下 平成初期大量生産されたリョービのジョイスピン韓国製
どちらかというと携帯小物用のルアー竿のイメージだった

 

月竿平野は、90年代から2000年代初頭にかけてはとりわけロングロッドはそれ専用のロッドケースとかに入れて持ち歩くことがなんの問題もない頃なのであえて複数に分割したトラブル多めのそのような竿より、1pcsあるいはハンドル脱着という方式の竿で通してきました。それもどうやら10年経過するとよりコンパクトであることがある程度求められてくるようになりました。それは、輸送事情という一番のネックが一番の理由ということになるでしょうか。

当方に於けるマルチピースをどう展開して行くかと言う長年の課題を形にしてきたマルチピースロッドですが、その形式を一旦見つめ直し旧1363シリーズから1403シリーズの振出化を機に考えを一新しました。(※別途「月の振出」シリーズデジタルパンフレットをご参照ください)

同時に長年、要望があったシリーズをどうして行くかを検討しなおしました。その中でも、月竿ライトクラスシリーズのマルチピース化です。それは、月竿ラインナップにおいて1pcsメインの良さと比較するとその機能上どうしても二の足を踏むジャンルでもありました。そのラインナップの中でも特に要望が上げられるものが、UMGraphiteCT662-UM100-シリーズと、月竿の根幹ともいうべきFTSS-GLASS)シリーズでした。中でもUM-GLASS100シリーズからの派生機種から考えますと、これらは562-UM100-01pUM100から一新してS-100%で製作しました。このUM100-シリーズでのマルチピース化も常に要望があり検討して来ましたが、その性能を限り無く引き出すにはやはりS-系のしかもルアー等の操作性がよいFTSシリーズと判断しこれに着目しました。また既に、73BGシリーズという当時業界でも珍しかった80Lb classのマルチピース化に成功していた事も大きな着眼点でした。(タイプSとタイプEの二機種)

TRAVEL STAND UP

MOON TRAVELLER

最上段:TRABEL 73-BGS 3pcs

中、下段:TRAVEL STAND UP SERIES

562-SU30KVGおよび同SU-50KVG

TRAVEL 73BG- 3pcs


2010年同時は、とても珍しかった73-BGE Type 3pcs

そしてロウニンアジ
この当時は、そのような3pcsは殆ど聞いた事が無かった
※楽園の終焉-Ⅰ(2010)Ⅱ(2011)Ⅲ(2013
を参考にしてください

http://tukinoturisi.asablo.jp/blog/2018/09/11/8958994

 

BG73とロウニンアジ


そこで更にFTSシリーズのうち、とりわけ日本国内のライトラインクラスでの記録狙いとしてきた701-FTS6(IGFA6Lb)及び701-FTS8(IGFA8Lb)をメインで検討致しました。

MOON 601-FTS20 20Lb class


MOON ROD の根幹を成す、FTSシリーズ
601-FTS-20(IGFA20Lb class)1pcs

MOON FTSとロウニンアジ


IGFA20Lb class 指定の専用設計ではあるが、そのキャパは20Lbを大きく上回る実力を秘めている
※楽園の終焉2011
/小楽園を参照

http://tukinoturisi.asablo.jp/blog/2020/05/29/9251995

 

その結果としてこの度、マルチピースでライトクラスの竿をS-GLASSしかも振出で製作する事にしました。

製作するにあたり、当社旧S-GLASS製品よりも新型S-GLASSは、1ランク強めに上がっていますのでそこは調整しています。また難点の一つでもあります、パーツとりわけガイドですが、そこは多分に漏れず、富士ガイドに合わせなければならないと言う制約の中での開発となりました。自由に選択ができないと言う事は、製品化を限りなく制限します。

テスト釣行は、少しオーバースペックでしておりますのでそれをメインターゲットとしている訳ではありませんが、ブランクの持てる最大クラスまでを目標としております。特に対象魚を絞り込んでいる訳でもありませんので万能竿として、気軽に使えるようなものを製作いたしました。しかしながら、ライトクラスでも何処でも本気で使える月竿に恥じない日本製振出竿を目指しています。ここは、一般的な万能竿とは大きく違う点のひとつです。

試作2号機

2号機2

2号機試作VS VR50とのコンボ、シングルフット仕様

シングルフットガイド試作機


3号機


ダブルフットコルク仕様試作3号機

 

3号機2

MOON Master Rod Blanks純国産100% made in Japan

6'10''-1xp(2xp) type tele 振出ライト4本継 Multi-Purpose

スペック1

スペック2

CW/GW=キャスティング.又はジグウエイト最大DM=設計上最大ドラグ値

DS=設計上実用ドラグ/又は参考値TIP=先径㎜ BUTT=元径㎜ WT=ブランク重量

完成全長約7'0''(2.13m)

試作4

2:更にコンパクト化に成功

ベイトキャステングモデル(最下段)


駿河湾船上

船上にて試釣する


ULタックルとバラ

250gジグ+餌のスタンダードな仕掛けを使用
Solvkroken
社のジグと直ぐにわかる人は、そういないのかもしれないノルウェーの会社である


バラとjr.

オリジナルオイルリグ 錘スカリー50号を使用


取り込み風景

最後の取り込み風景-信頼のSは健在である

24㎏バラ


実測24㎏の中型バラムツ、まだまだ大型は居る
オリジナルバラリグをライト化したもの

錘負荷は50


国産エンドパーツ


本採用のエンドパーツ純国産

国産エンドパーツ2

専用国産エンドパーツ

黄昏時のナマズ


中型のナマズと黄昏時


CORK MODEL


S-Light Multi-Purpose Stargazer Jr Excellent

コルクリング


コルクリング1個から積み上げられる基本工程

カスタムロッドである以上、パーツの選択もある程度できなければなりません。勿論、握り部分はそのボディの中心でもあります。EVAとコルクの選択可能です。また、その長さと形状までカスタマイズできます。現在の多くの量産メーカーでは、コルクリングから成形すると言う事はほぼありませんが、月竿はその選択を可能にします。

成形加工

コルクグリップ整形後
粗削り工程から成形加工を進めた状態

ダブルラップ例

ダブルラッピング仕様(オプション)

ダブルラップ1

独自のグラスパイプを介していますのでシングルラップでも特に問題はありませんが、選択枝としてダブルラップも可能です。むしろパイプは、ギリギリの短さですのでデザイン的にもダブルラップがよりバランス良いでしょう。

UNDERSPIN


DAIWA USA UNDERSPIN120XD


44ex

ABU の名品44express高速モデル(1969年発売)

505

ABU505と釣りキチ三平時代には戻れないのか

本体全長

本体仕舞寸法約64

トップカバー付

トップカバー装着時約68.5

ナマズとXD


楽しいリールとジッタースティックでの1

DAIWA USA UNDERSPIN120XD

こんなリールはやはり日本では売れない


バリエーション

カスタムロッド仕立料金 

\65.000~税別(2022年現在)

バリエーション2


オプション

バリエーション3


cals

エンドキャップネジ/耐熱リールグリスCals

三河綿竿袋

三河綿オリジナル竿袋 日本製にてカスタマイズを承ります

バリエーション4

440オートマット

1970年代のミッチェル440オートマット、当時輸入総代理店ツネミのパンプ入りで、呉の店で購入したもの(2022現在は閉店してありません)

440ボックス



バリエーション6

月竿の振出ライトStargazer Jr.で、ビジネスの合間から、家族旅行、余暇、世界をこの竿と一緒に渡ってください。

バリエーション7


RYOBIREGNO

昭和時代のリールにもカスタマイズ

両軸仕様

両軸仕様2

限り無い夢を


両軸仕様3

月竿であなたの幸せを

stargezer7TOP

月竿に託してください

Stargazer7black

儚い夢はつづく

ギジムナー7

つづく

リールと月竿

釣竿工房 月



南方回帰Ⅳ-影と闇と残光2014-92022年11月29日 13:30

 随分と更新が遅れました。この更新を待ち望んでおられた極希少な方々申し訳ありません。秋も終わろうかという師走なのに今日は南の風強く20℃近い気温です。当たり前と言えば当たり前ですが、それにしても師走前の気温としてはかなり高いです。海水温もかなり高めです。
ストライパ―
月竿とストライパ―。
 とても美しく、美味しいお魚です。ボトムでもトップでも魚食性の強いこの魚は、日本のスズキに近いですが掛けると解ることですがなかなかのファイターでパワフルです。掛かってからの鰓洗い等は、私の知る限りではありませんでした。血合筋がスズキのそれよりも少し多く、その遊泳能力や行動範囲は案外広いのかなと思います。北米で最もメジャーといっても過言ではない、彼らがこよなく愛する魚です。
ストライパ―2
 私も何本釣ったかは忘れてしまいましたが、その昔50匹~は釣ったと思います。多分。我が国と違って魚影は、その保護管理にあるのかすこぶる濃いです。我が国もそうなったらいいなあとはいつも思いますが、日本の漁業は、ますます衰退の方向に進んでいるようです。
 私が学生の頃から資源管理等の講義では魚離れが深刻という議題は、多く上がっていました。それから何十年も後の現在は、その拍車が益々加速して行くばかりです。時々買い物に行くスーパーマーケット等の鮮魚コーナーをみると、とても買う気にもなりません。そしてその鮮度ももうクタクタになっているものが多くみられます。それは、どうやら私だけでなないようです。地元の漁師さんやここの読者である方々もそう思う方が何人もいらっしゃるようです。一般家庭ですと、既に解体され切り身になってその殆どが可食部になっている畜産肉の方が、主婦にとって便利で手軽、そして経済的なのはもちろん理解できます。それらは、人間の勝手で食肉用に効率よく管理されて育ったものですので、当然と言えば当然です。完全に人間の管理下です。
 今後ますます魚は、高級品?になって庶民の口から遠のいてしまうのかもしれませんね。以前もお話ししたかと思いますが、以前子供達と回転寿司に行った際、「お父さんなんか魚が好きという割には、殆ど違うのばかりだよね。」と言われました。
「ああ、ここでは魚があまり美味しくないからね。」と行ったのを思い出します。もちろんその回転にもいろいろとあり、高級回転とかいうお店もあるみたいですので全否定しているわけではありません。ただの会話です。テレビを見る限りでは、高級寿司名店の店主でも頷くものもあるそうですから。(多少の演出もあると少し色眼鏡でみてますが)高級回転に行くなら私は、ふつうのお寿司屋さんに行きたいと勝手に思っています。我が国の食料事情はもとより、水産業は衰退加速の傾向にあるようです。

たまの更新で前置きが長くなりましたが、本題その9です。
 
1363-UM9Pとその先

  さてさて何十年も前の過去のことはともかく、息切れの中で戦うことその倍の10分が過ぎても気力だけはまだまだだった。とっくにおっさんなのに。それどころか、ショートポンピング&リールインする度に奴が寄ってくるではないか。かなり脳内は、アドレナリンが効いている様子なのかまだ無理できると言っているのである。時々奴が反転を試みてラインを出していくが、その距離は、最初よりもかなり短くなった。だがやはり、糸が出る際がとても辛い。むしろ辛さだけは倍増しているかのようだった。そして、常に付きまとう根ずれの恐怖がちらつく。

こちらもとってもしんどいんです。(ぶちしんどい)

とっても。(ぶち)

辛いんです。(つらいのう)

つらいのは、どちらも・・なのかな?(ぶちたいぎぃのはわれもかのう)


 それでも一進一退のやり取りから徐々に、奴の糸を引きだして行くスピードが少しずつ遅くなっていった。それにしてもまだ全く気の抜けない状況に、専務は言葉を失っていた。当然サポートは無い。その代わりにめいいっぱいの気を利かせてくれて、その様子を数枚レンズに納めてくれた。これは、とってもありがたい。それが無ければ、当然ここは文章のみの実力に頼るしか方法がなくなる。

 魚は、どうも左へ、左へと行きたいらしい。

“その左の先に何があるというんだよ”

どうかそっちにはいかないでくれ

15分が過ぎた頃、間合いが詰めに入った。
しかしながら、まだ全くと言っていいほど気が抜けなかった。奴が、ある程度の重量があるのは勿論の事、その力が弱まったとは言えまだまだ諦め切れていない感じだったからである。

夜とイソマグロ

そう、あの5年前、野人(先輩)が掛けたあのイソンボもそうだった。

※南方回帰Ⅲ闇からの一撃参照(http://tukinoturisi.asablo.jp/blog/2018/03/05/8798357

 どうもイソンボには、起承転結が判り易い魚でもあるように思えてならないのは、私だけなのだろうか?いやその完結までたどり着いたものは、それをきっと知っていると思う。その完結まで。その理屈から言うとロウニンアジもそれに似て結の往生際は、野武士の最後のようである。

 状況からするに今は、最後の“結”の部分に差しかかっていると思えた。残り糸は20mをおそらく切っているそのすぐ下の距離だった。
一進一退の状態から、距離を詰めて相手の動きもかなり鈍くなって来た。掛けてから20分近くかその前後、こちらも相当息切れ切れである。それも何とかそこは踏みとどまって、竿を操作しながら相手にプレッシャーをかけて行く。それもいよいよ最終段階に近づいてきたのか、浮かせるだけの状態に移りつつあった。そこでリールのギアをローに入れる。(ラプターは、2段階変速ギアが付いているリール)ギア比が一気に落ちると、ぐんぐん巻きとれるのは感動ものに思えた。
 イソンボは、それでも浮きたがらない様子で右のサラシ下から浮いて来ないばかりか、更に方向を変えて左に走ろうとした。こちらはと言えば、それ以上左には移動できない。ここで13f半の長さを活かしていっぱい、いっぱい左に走るのを必死でこらえる。ここは、長竿の利点が効いている。

‟くそっ・・・なんとかとまれ、止まってくれ”

奴に最初の勢いは全くなかった。ギリギリなのは、奴もそうに違いない。

‟これは、獲れるかも”そう思った。

磯際との距離あと数メートル。

10mを切ったぞぉ”

浮かせるだけだが、左に走ろうとするのがとても気になるところ。

あと少し。

奴の力も最初の2割も残っていないギリギリの状態。

ほんの少し。

浮け!

浮くんだ!

浮かせるぞ!

そしてなお奴は、更に左に最後の突っ込みを見せた。

チッチと僅かにドラグがなり糸が出た。

腰が苦痛を言う。

腕が悲鳴を上げる。

これはきつい。

かと思うと・・

その時は、あっけなく訪れた。

竿は、撓るのを止めたのだ。

あぁ・・・あの嫌な感じ。

そうその予感。

脱力。

「あああぁ!バレた!くそっバレたよ~!」

一発目は、それ相応に大型であったと思う。
あの感覚は、重かった。

十分に奴を追い込んだに違いないが。
またまた、敗北であった。
悔んでも仕方のない事である。

誰も責められない。
完全自己責任である。

これだから、釣りは止められないのかもしれない。
自分の中の消えかけた火をまた点けてくれるものだ。

一体何度消えかけてはまた点き、消えては灯されるのか。それにしても、ほぼ9割の段階に来てブレイクとは。全くもって気を抜けないのである。
空しくも、儚く残りのラインを回収する。空転に近いそのハンドルがそれを物語るか。逃げ切られた。あとほんの8m~10mだった。つまり、水深8m前後のこの場所ではほぼ足元に近い位置であった。隆師匠が、丁度その左下に岩が付き出ていてすぐスリットがあると言っていたのをそれで再認識した。

メインラインは、ところどころ擦れてかなり危なそうだけどなんとか持ちこたえていた部分が数か所あった。それが、多くの負担を強いられてきたに違い無かった。良く頑張ったナイロン糸。切れた部分は、エッジに近いのだろう。斜めにスパッと切れていた。毎度の事ながら難しい。この場合は、PEなら即ブレイクだっただろう。

息切れは終わらなかった。
苦しさ倍増。
そして脱力。
空しく、肩で息をする。

 釣り人の中には、PE世代でナイロンを殆ど使用して来てない釣り人が多くなったようで、事もあろうかPEの方がすべてにおいて強いと思っているらしい。ここで言う強いは、ダイナメーターに対する直強度の話ではなく、摩擦に対する耐久性の事である事を補足しておきたい。

最後の“結”である筈の内容は、想像したのとは少し違っていた。いや、どちらかの選択肢には入っていたことであるのだが、それは期待とは違っていた。それから究極の脱力感の後、気を取り直して2時間くらい、専務と次の襲撃に備えて竿を打ち、再び投入し仕掛けを流し続けた。

「ああ、隆師匠と待ち合わせの時間だ。」
「帰ろうか・・・・。」

 専務は、たった一撃の衝撃を目の当たりにして、若干の動揺を隠せない様子であった。これが最初の洗礼であると認識したようである。

月竿と黄昏時

黄昏時の海と竿
未知への挑戦風にみえなくもない


MOON701-LBUM5Pとストライパ―
月竿701-UM-LB5Pとストライパー
その10へとづつく

南方回帰Ⅳ-影と闇と残光2014-82022年10月26日 16:47

 毎日11月下旬並みの寒さが続きます。
巷では、梨から柿が多く出回るようになりました。そんなスーパーで見つけたとたん、これをカートに入れてしまいました。値段は確認していません。ロゴもなんとなく近くて買ってしまいましたが、当方とは全く関係ないです。また宣伝しているわけでもありませんし、未開封のままです。 
BLACKMOON
しかもお菓子です。なんとも言えません。
 BLACKMOONという竿は、当方が2002年の創業時にそのBlankの良さを実感するために製作しようと思ったいわば月竿のシンプルな作りの竿のシリーズでセミカスタムロッドシリーズでした。簡単に言ってしまえば、量産に近いシンプルな廉価版です。かと言って手を抜く訳でもありませんでした。しかしながら、このBLACK~といいながら結局要望が増えてそれはもう当初の製品コンセプトとは全く違うようになり、数年後基本廃止にしました。
 しかしながら、現在でもそのロゴデザインを使って欲しいという常連さんの依頼で製作する場合があります。もちろんロゴデザインを使用するだけでその内容は、フルカスタムです。ただしこれにもいろいろあり、創業当時の継続で一部輸出仕様があったりします。と本来のBLACKMOONとは異なりますが、形を変えて生きていると言えばそうなりますね。
 FULL CUTOMなんて用語も当方が初めてだと自負していますが、その後それが浸透していったのは驚きでした。こんな零細でも一般的にはともかく業界的には良く見られているのだなと感じます。他のことも多くありますが、いずれの機会にまた別途述べることもあるかもしれません。

 少々長くなりましたがその8へ進みます。

人は、その時には感心が薄くても、覚えておくことは案外後になって役にたつこともあるだろう。人の関心事など、その時々で変わり易いだろう。しかしながら残念に思うことは、感心がないからこそ忘れるどころか記憶にすらないことがとても多いということだろう。

再びキャストする

それは打ち込みと行った方がしっくりくるのだろうか?沖縄の釣人は、打ち込み釣りとは良く言ったものであるこれが本州だとぶっこみになるがこれはどのどちらでもない。

AVETPRO50W


AVET EXW50/2と同MX RAPTOR

 流れに沿って、再度キャストする。丁度専務との距離あと数メートルのところに着点したらしく、HXラプターのレバーをベイトポジションからさらに1ノッチ、2ノッチ、3ノッチと上げてテンションを確認する。ここは、日頃の自動車運転感覚と似てるようで、馴れてくるとある程度クラッチとブレーキ、シフトレバー等を目視しなくてもなんとなく操作できる感が働くのか、体で覚えると言う感覚がよみがえってくる。そこは、呑みこみの早い専務も恐らくそうなのであろう。右手をリールから離して、疲れが出て来始めたのか、腰を落とした。

ドラグフリー


レバーフリーポジション
ほぼ負荷は掛かっていないニュートラルな状態

ベイトポジション


ベイトポジション
餌を付けての位置だがライブベイトの大きさや潮の流れの速さで微調整する

レバードラグのなせる技である

ストライク

ストライクポジション
最初に設定したドラグ設定値
これがファイトする位置の基本となる

 

それから、潮に馴染みかけたと状況確認して一息つこうとするまさにその直前だった。

洋上のケミホタルが高速移動したのが解った。
その瞬間、親指でリールスプールを抑えていた親指が擦れる感じがした。
耳には、クリッカーの音がわずか1秒程度聞こえた。
「イソンボだ!!」
そう思わず声を発した。
親指をフレーム移動すると同時に右手親指でリールレバーをストライクポジションに一気に入れた。カリカリカリと言うノッチ音と共に左手をロッドのフォアグリップに持ち替えて右手をハンドルノブに掛けた。竿に高速で重い引きを感じる。腹筋に力を入れて、1回合わせを入れる。ハンドルを一度回してそれからまた一回アワセを入れる。ハンドルを一回、二回、三回と巻きとる。

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「よし、ノッてる!」

思いきり腰を落として溜めると竿は、グンと曲がってそのまま起きないでいるが、一回、また一回とリールハンドルを回した。ナイロンラインが伸びきる感覚が解る。更に竿がドラグ設定値まで曲げ切ると、たまらずスプールが逆転して勢い良くクリッカーが鳴いた。その逆転は、逆転でもそれは高速逆転である。
 奴はやや右寄りの沖に向けて顔を向けているようである。ここは、“無酸素運動全開せよ!!”との指示が勝手にでている。大きく息を吐きながら堪えられるだけ堪えた。

 闇に響くリールの悲鳴。(クリッカー音)
しかし、短く鋭く鳴く様は、不思議な鳥の鳴き声にも聞こえるのが不思議だった。


単なる機械のバネ音なのに・・・。

まだまだ無酸素運動のまま行けそうで、出された分をショートポンピングで竿を起こすと、一回、また一回とハンドルを回せた。

それから、大きく息を吐く。

そして大きく吸う。

走る。

奴が走る。

まだまだ走る。

走り続けるようである。

そして、一旦止まった。

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それから一進一退が5分を過ぎたその頃、当然ながら息切れが始まった。
このところの10年程は、いつも同じ感想なのだがいい加減この時になるまで自分に甘いと言うことが祟るのは仕方の無いこと。そこは諦めて、勝負と決め込む。そのベストな限界値と言うのを選択するしかないのだが、歳を重ねる毎に、そのファイト時間が短縮されるような気がした。

いつも息切れが増すと思うことがある。

それは、もう何十年も前のことなのに。
まだ14歳くらいの時のこと。当時中学校の体育の先生の言った言葉である。当時は、まだ1980年代前半の事なので、先生のビンタやげんこつは当たり前の時代で、一列に並べさせられた生徒をかたっ端から殴っているその先生を見た。でもそれが教育?なのだと思った。それがいびつな日教組教育と重複すると、まさに恐怖の学校だったのかもしれない。と同時に思わされた。そんな先生達が大嫌いだったように思える。何しろ、力には力で対抗しそうになるのはこれ当たり前のことで、それを権力によって押し付けることは、すなわちそれは暴動とかに発展するのだ。それが実現されればだがそれは、暴力革命なのである。
 それは更に小学生の頃に遡ると、もっとそれが恐怖であったがなんとなく上手くやって行けそうな気がしたのはなぜだろうか?怒鳴られるのも説教されるのも当たり前の頃で、手が飛んでくるのは日常茶飯時だったような気がする。吊るし上げ批判は、今ほど叩かれる事はなかったように思える。時代は大きく変化し続けるのだろうか。
 また1980年初頭の学校は、かなり荒れていた御時世だった。
いわゆる今現代で言う“しごき”や体罰を否定する環境には無かったと記憶している。それが、当時の先生達の言う理想的な日教組教育だったのかもしれないが、当時の私にはそもそも右とか左とかも解らない子供であったので、恐怖教育が当たり前に感じたがそれでもこのご時世の学校は、何処も荒れた時代であった。それを防御するのに学校側も必死だったのかもしれない。それを恐怖政治の練習か革命戦士と名の暴力革命児を生み出す練習なのかとも思ったが、まあ考え過ぎなのだろう・・・きっと。

 話が少し逸れてしまったがその体育の先生の言葉は、30数年以上も過ぎておっさんになった今でも明確に覚えている。体育の時間が来るたび毎にあのマラソンタイム計測が地獄に感じ、弁当が喉をなかなか通らなくて、緊張で死にそうなあのマラソンタイム計測の体育授業。先生は日○大出身であり、それが体育のスタンダードな教育かと思った。なんと成績表もそのタイムアップ度で評価されると言うまあ、当時の私なりに過酷な条件だった。当時は、嫌で仕方無かったが、今思えばそれさえもこれから起こり得る過酷な競争社会で生きる為の予行演習だったのかもしれないと思えた。世の中は、無慈悲で過酷な社会であると教わったかのように。さて、それを行う背景の言葉とは以下の内容だった。

「おまえら、今は嫌かもしれんけど、きっと将来感謝する時が来る!」
と言う言葉だった。

実際のところ私は、その先生の言った通りに感謝する事となった。
その後の人生に於いて何度もピンチを助けてくれたことへ繋がっていると思えた。先生のその言葉は、確かに間違っていなかったようだった。その苦痛が感謝に変わった時は、その時から10年と経っていない頃だった。
それは、と言うと。
 やる気を根本から削がれてしまう、ローキックやボディにめり込んで唸る事しかできなかった中段への突きがここぞと言う時に、もうひと踏ん張りできるかできないかは、当時の私には大きな違いだった。

 体罰も日常茶飯時な、あの頃の教育。昭和の時代は、すなわち戦後と言われた時代と、赤いお言葉満載と偏見に満ちた先生達のお言葉だったように思う。
それと同時進行で思い出すあの辛いマラソンの時間。おまけに、天皇批判と反戦教育の嵐の中の環境。皇族は、頭が悪いとまで堂々と授業で言いい放ち、自衛隊は、悪とまで言いきっていた社会科の先生のことまで思い出した。もうその先生方もとっくに定年退職されておられると思うが、御存命なのかさえ解らないのだが。今をどう生きているのかこんな時に思ったりするものだ。

しかし、今でもあの先生には、ある面感謝している。
日○大出の角刈メガネの体育教師。それは、直ぐに激怒する先生。
ついでにさらにリンクして思い出してしまった、最初から竹刀で脅してくる高校時代の体育の先生。彼は、校内にBMWで来る●士○大出身の同じく角刈の先生だった。いつもレイバンのサングラスをかけていた。教師と言う言葉から教員に移ろうとした時代だったのかもしれない。それでも当然だったと思っていたあの時代がもうかなり昔と言う言葉で終えようとしている。

息切れをすると、なんだかそれを思い出す。
すっかりおっさんで体力もないのに・・・。
その息切れがきっかけとなって思い出す、もうちょっとだけ、いや、もうその先までと頑張ろうとする自分。あと半歩だけ前に行こうとする自分だった。

「何故頑張ろうとするのか?」

「頑張らなくても良いのではないか?」

「1番で無くても2番じゃいけないのですか?」

「いまどき流行らない。」

と色々な言葉が頭の中から出てくる。

 ローキックが痛いのは、当たり前。それが、外側上方から振り下ろされるものなのか、あるいは内側から入ってくるものなのか。更に追加で、水月(みぞおち)へのヒザ蹴りで苦痛を倍増させた。
痛かったなあ。
とっても。


BLACKMOONの流れ
今でもイレギュラーに製作していることもあるBLACKMOONであるが当初とはコンセプトが違う
その9へつづく