楽園の終焉Ⅲ-後編-182021年07月13日 16:25

 梅雨も後半になり、かなり蒸し暑い日が続きます。また、緊急事態宣言がでてしまいました。特に今までとは変わりませんが、もう都心には2年近く行っていません。痺れを切らすとはこのことなのでしょうか。我が国に強制という言葉を実行する法律はないらしいですが私は、法律のことは良くわかりません。若者が殆ど見ないと言うテレビを見ていると、その理由のひとつに戦後の反省から・・・という言葉を良く耳にしました。 早く、大手を振ってどこでも行ける時が来ることを待つばかりです。
 毎年送ってくれる先輩から今年もパインとマンゴーが届きました。甘ったるいのは嫌いという方も多々おられると思いますが、私は好きです。このなんともいえない甘さは、やはり好きです。

石垣パインとマンゴー
さて後半になりました。その18です。

-楽園の終焉Ⅲ-後編
END OF PALADICE-No,2
- GT in Bali 2013-

ホテル敷地内サーフ

楽園と天国、そして極楽とどう違うのか解らない

日本人ならなおさらなこと
だがそこは、素晴らしいところに違いないだろう

そこに行ったことは当然ないが

-真夏の鬱-

船上から望む

日本列島も台風の季節になり、各地で豪雨という災害と渇水との狭間で、なんとかならないものかと思案したところでどうしようもないのであるが考えてしまう。それは、直接には関係ないと言う人もいるが地球温暖化とかがもたらす一要因の結果ではなかろうか。ひとつの世界であれば、早期に解決できるのかもしれないけれど、現代は200国近くも分かれていて、今なお紛争も絶えないこの状況では、‟いかんともしがたい“と言うのが現実なのであろうか。それは、国家の要人ですらどうにもできないのに、庶民の最下層とも位置すべき私のようなものが考えても、何もならないのではないか。それを考えても何もならないとするならば、考えない方が良いと強い口調で私に言い放った人がいたが、考える事すら辞めてしまった人間などもうそれは、もはや人間とは言えないのではなかろうか。そう思ったりする。それは何時までも忘れることはない。

 うだる梅雨のあとは、この猛暑になり、半年前の事すら忘れてしまう愚能なものに、後半の紀行文執筆の意欲気は薄らいでゆく。国道297の直線に近い道を流していると、陽炎のようなメラメラ感がこの暑さを物語っている。「ああ、暑い」と言っても変わる事もないのに、ついつい口にしてしまう。

 そのような暑い日の8月の盛りの頃、東京で忍者君とまたまた会った。釣りと言う趣味産業の中では、相変わらず疑惑と疑問が渦巻いているらしかったが、そんな事は、我々には直接関係の無い事ではある。がしかし、少しばかり気にかけているそのような真夏の都会の午後は、その暑さとは裏腹にとても寂しくも感じた。ふと待ち合わせの場所のデパ地下というところで、肝油ドロップとやらが試食販売されていた。そう、その大手デパートの地下売り場にいた私にはその後、その子会社のダ○○-社が、閉鎖に追い込まれる事を、まだ知るよしも無かった頃の事である。何十年も国産で続いた釣竿メーカーである。それは、その過去のLEWの商標まで被っていた、SPEED STICKという名前の竿も消滅ということになろうか。
 話しを元に戻すと、この肝油ドロップは、昭和の私がギリギリ世代と思ってはいたが、現在でも地道に元気らしかった。若者達には新鮮に思える様子で、立ち止まるご年配層に交じってその姿が見えた。特段なにも思わなかったあの肝油ドロップ。河合亀太郎氏が、これを肝油ドロップと名付け、1911年から製造したそうである。

さてその行く末を気にすることなく移動する我々だった。

Ninja君と会うなり、話は魚の話である。彼は、同じ大学研究室の後輩にあたるが、在学期間中に重なることが無かった。それが幸か不幸か全く不明なところであるが、今の良い関係を保っている。ここら辺は、縁を感じるのであるが、更に繋がりはあって、同研究室の同級生でもある◎田つりぐの店主◎田さんからの縁なのでもあるが、縁はとても大事にしなければならない内容である事には間違いないらしい。学生当時から◎田氏はとても釣りが上手な人であった。イワナやヤマメ釣りをルアーで釣るのはとても得意であったと思うし、彼のほうがとても上手であったことを記憶している。当時は、スピナーがメインの時代でまだまだ日本製の小型ミノーが出現するには早すぎた時代の事である。時々彼ともお会いするのであるが、あの当時あの●●ミノーが出ていれば、当時の数倍は釣れたに違い無い等々・・・。しかしそれは、現実にはあり得ない時代の事であったのでバランスはそれで取れているような気がした。当然研究室も同じだったので、当然ながらその恩師も同じという事になる。また恩師が同じと言う釣り業界人も案外と多いのはどういう事だろうか?とも考える。その尊敬すべき恩師ももうリタイヤされておられる。また、その学んだ学部ももうこの世には存在しない。学部は名前を変えただけでなく、移転もした。また、当時の研究も出来なくなったであろうと推測する。(その後移転先の新校舎を訪ねることとなるが)

私よりも魚好きで、料理好きな忍者君であるが、話を合わせるのも上手らしい。その点は、社会人になってから多くを身に付けたらしいと思われた。時々釣りと言う観点では、若干の相違は見られるそうだが、それでも楽しい話には変わりない。
 我々の結論としては、ある程度食す事ができる魚にはそう不味いものは多くは無いと言う事である。また、現代の我々日本人の魚の旨い不味いとか言う嗜好性、あるいは食すか食さないかは、昔の日本人と異なるところも多い。現在の魚の価値は、その冷凍技術と冷蔵技術がもたらした究極の状態にあるとも言えよう。それに、過去の日本にはあり得なかった養殖技術の向上という点も大きく影響を受けていると同時に、海外から入って来た魚種も大きく影響している。
 氷という武器も、その冷蔵状態をある程度維持するその90%が空気と言われる発砲スチロール箱という革命的なものの出現以前の江戸時代から明治~大正~昭和の前半頃にかけては、マグロという存在はその格付けランクの下のランクにあったという。また青物と言う魚の多くは、刺身では食べられない状態のものが多々あったに違い無かった。その中でもサバ読みの如く、サバは結構危険なラインの商材であったに違いないだろう。脂っこい事を表す、むつこいと言う表現は、脂っこいという事と幼い時に教わったが、脂の乗り過ぎは、昔の日本人にとってはそう有りがたい存在では無かった様である。江戸っ子達は、脂っこい魚が苦手の様だったそうである。唯一昔の流れを引き継いでいる内容といえば、縁起物とその色にある。赤はおめでたい色なので、未だ赤い色の方がより付加価値が付く傾向にあると思われる。

そんな、極度に発達、発展した今の冷蔵、冷凍技術と養殖技術により、魚のランク付けも大きく変わったらしいが、忍者君とその仲間は純粋に旨い味とは何かを理屈抜きで味わう事にあるらしい。勿論、グルメという言葉が適切かどうかは、解らないが美食とかグルメとかとは少し違うような気がしてならない。何故ならこれらの表現には、食べる事のみの話になるからで、捕獲からというのは、どうやら対象外のようであるからだ。忍者君集団にとっては、その捕獲作業が後の料理まですべて連動しているからなのである。勿論捕獲作業が必ずしも本人によるものであるかと言えばそうでもないらしく、そこまでの工程が他人によるものも多々あるらしい。

竿と木彫りとホテルの部屋

その19へとつづく

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