楽園の終焉Ⅲ-17 ― 2021年07月05日 17:58
20年前のそれとは少し違っている気がしてなりません。その雨の量も普通ではないようです。
恐るべき事
かといって、なにを恐れるのか
通算3回目となるバリでのホテルは、今までと比較するとかなり高級である
このプールも一度も使う事がなかったが、リゾート気分だけは若干味わった気がしないでもない何とも複雑な心境であるのは私だけだろうか
それが何時訪れるかは、誰も解らない。
人は解らない恐怖にただただ怯えて生きるのであろうか。ここでの衝撃は、今の私を全面覆い尽くした。
うわあ・・・暗黒世界。
なんと・・・あろう事か、今まで打ち込んだ文章を誤って消して上書きしてしまった。
その衝撃は、計り知れない。
ここまでほぼ3カ月以上の毎日数時間をこの作業に打ち込んでいたからである。しかも、半分以上は回復の兆しすらない白紙の状態である。言葉も出ないとはこのことであろうか。この絶望感と倦怠感と焦りは、大きな挫折と言う言葉を伴って、他のあらゆる問題とリンクしてしまうのであった。失踪感と滴る脂汗と一緒に。まさに、神頼みせざるを得ないとはこのことなのか。
暫くして、打つ手を失い、また暫くの放心状態の後、改めてまた最初から打ち直す事にした。
もはやその文章量が記憶に残っていない部分が大半となった今、あらたな気持ちで書きなおす(文をおこす)しか方法は無かった。そして以降の60日分の文章が、私の精進と共に消え去ろうとしていた。その瞬間が正に今である。気持ちは一気に地獄へ。ああ、中途半端なアナログおっさんは、これだから困るのである。これが、今回の時間の掛かってしまった大きな理由である。素人仕事とはいえ執筆は、並みではないのだろうな。ゴール寸前のふりだし感に苛まれてのまた打込(書き込み)である。それからまた、ほぼ半年が過ぎていったのである。時の流れは、益々加速して行くと感じられるのであった。とほほ・・・。
その2に続く・・・。
高級リゾートホテルに竿を入れて移動のなかなかである
当然自力で移動する
後編へとつづく
楽園の終焉Ⅲ-後編-18 ― 2021年07月13日 16:25
-楽園の終焉Ⅲ-後編
END OF PALADICEⅢ-No,2
- GT in Bali
2013-
楽園と天国、そして極楽とどう違うのか解らない
日本人ならなおさらなこと
だがそこは、素晴らしいところに違いないだろう
そこに行ったことは当然ないが
-真夏の鬱-
日本列島も台風の季節になり、各地で豪雨という災害と渇水との狭間で、なんとかならないものかと思案したところでどうしようもないのであるが考えてしまう。それは、直接には関係ないと言う人もいるが地球温暖化とかがもたらす一要因の結果ではなかろうか。ひとつの世界であれば、早期に解決できるのかもしれないけれど、現代は200国近くも分かれていて、今なお紛争も絶えないこの状況では、‟いかんともしがたい“と言うのが現実なのであろうか。それは、国家の要人ですらどうにもできないのに、庶民の最下層とも位置すべき私のようなものが考えても、何もならないのではないか。それを考えても何もならないとするならば、考えない方が良いと強い口調で私に言い放った人がいたが、考える事すら辞めてしまった人間などもうそれは、もはや人間とは言えないのではなかろうか。そう思ったりする。それは何時までも忘れることはない。
うだる梅雨のあとは、この猛暑になり、半年前の事すら忘れてしまう愚能なものに、後半の紀行文執筆の意欲気は薄らいでゆく。国道297の直線に近い道を流していると、陽炎のようなメラメラ感がこの暑さを物語っている。「ああ、暑い」と言っても変わる事もないのに、ついつい口にしてしまう。
そのような暑い日の8月の盛りの頃、東京で忍者君とまたまた会った。釣りと言う趣味産業の中では、相変わらず疑惑と疑問が渦巻いているらしかったが、そんな事は、我々には直接関係の無い事ではある。がしかし、少しばかり気にかけているそのような真夏の都会の午後は、その暑さとは裏腹にとても寂しくも感じた。ふと待ち合わせの場所のデパ地下というところで、肝油ドロップとやらが試食販売されていた。そう、その大手デパートの地下売り場にいた私にはその後、その子会社のダ○○-社が、閉鎖に追い込まれる事を、まだ知るよしも無かった頃の事である。何十年も国産で続いた釣竿メーカーである。それは、その過去のLEWの商標まで被っていた、SPEED STICKという名前の竿も消滅ということになろうか。
話しを元に戻すと、この肝油ドロップは、昭和の私がギリギリ世代と思ってはいたが、現在でも地道に元気らしかった。若者達には新鮮に思える様子で、立ち止まるご年配層に交じってその姿が見えた。特段なにも思わなかったあの肝油ドロップ。河合亀太郎氏が、これを肝油ドロップと名付け、1911年から製造したそうである。
さてその行く末を気にすることなく移動する我々だった。
Ninja君と会うなり、話は魚の話である。彼は、同じ大学研究室の後輩にあたるが、在学期間中に重なることが無かった。それが幸か不幸か全く不明なところであるが、今の良い関係を保っている。ここら辺は、縁を感じるのであるが、更に繋がりはあって、同研究室の同級生でもある◎田つりぐの店主◎田さんからの縁なのでもあるが、縁はとても大事にしなければならない内容である事には間違いないらしい。学生当時から◎田氏はとても釣りが上手な人であった。イワナやヤマメ釣りをルアーで釣るのはとても得意であったと思うし、彼のほうがとても上手であったことを記憶している。当時は、スピナーがメインの時代でまだまだ日本製の小型ミノーが出現するには早すぎた時代の事である。時々彼ともお会いするのであるが、あの当時あの●●ミノーが出ていれば、当時の数倍は釣れたに違い無い等々・・・。しかしそれは、現実にはあり得ない時代の事であったのでバランスはそれで取れているような気がした。当然研究室も同じだったので、当然ながらその恩師も同じという事になる。また恩師が同じと言う釣り業界人も案外と多いのはどういう事だろうか?とも考える。その尊敬すべき恩師ももうリタイヤされておられる。また、その学んだ学部ももうこの世には存在しない。学部は名前を変えただけでなく、移転もした。また、当時の研究も出来なくなったであろうと推測する。(その後移転先の新校舎を訪ねることとなるが)
私よりも魚好きで、料理好きな忍者君であるが、話を合わせるのも上手らしい。その点は、社会人になってから多くを身に付けたらしいと思われた。時々釣りと言う観点では、若干の相違は見られるそうだが、それでも楽しい話には変わりない。
我々の結論としては、ある程度食す事ができる魚にはそう不味いものは多くは無いと言う事である。また、現代の我々日本人の魚の旨い不味いとか言う嗜好性、あるいは食すか食さないかは、昔の日本人と異なるところも多い。現在の魚の価値は、その冷凍技術と冷蔵技術がもたらした究極の状態にあるとも言えよう。それに、過去の日本にはあり得なかった養殖技術の向上という点も大きく影響を受けていると同時に、海外から入って来た魚種も大きく影響している。
氷という武器も、その冷蔵状態をある程度維持するその90%が空気と言われる発砲スチロール箱という革命的なものの出現以前の江戸時代から明治~大正~昭和の前半頃にかけては、マグロという存在はその格付けランクの下のランクにあったという。また青物と言う魚の多くは、刺身では食べられない状態のものが多々あったに違い無かった。その中でもサバ読みの如く、サバは結構危険なラインの商材であったに違いないだろう。脂っこい事を表す、むつこいと言う表現は、脂っこいという事と幼い時に教わったが、脂の乗り過ぎは、昔の日本人にとってはそう有りがたい存在では無かった様である。江戸っ子達は、脂っこい魚が苦手の様だったそうである。唯一昔の流れを引き継いでいる内容といえば、縁起物とその色にある。赤はおめでたい色なので、未だ赤い色の方がより付加価値が付く傾向にあると思われる。
そんな、極度に発達、発展した今の冷蔵、冷凍技術と養殖技術により、魚のランク付けも大きく変わったらしいが、忍者君とその仲間は純粋に旨い味とは何かを理屈抜きで味わう事にあるらしい。勿論、グルメという言葉が適切かどうかは、解らないが美食とかグルメとかとは少し違うような気がしてならない。何故ならこれらの表現には、食べる事のみの話になるからで、捕獲からというのは、どうやら対象外のようであるからだ。忍者君集団にとっては、その捕獲作業が後の料理まですべて連動しているからなのである。勿論捕獲作業が必ずしも本人によるものであるかと言えばそうでもないらしく、そこまでの工程が他人によるものも多々あるらしい。
楽園の終焉Ⅲ-後編-19 ― 2021年07月24日 18:08
そんな、夏の日のこと。
8月も6日を過ぎればヒグラシも目立って鳴く気がしてならない。戦後の全てを背負って鳴いているようにも聞こえないこともない。我が国の温暖化の小ネタには、ミヤマクワガタの減少さえ話題の中心になったりしている。また、夏の盛りの食と言えば鰻が出てきてしかりであろうが、我々釣人にとって夏のシイラ釣りは、外せない釣りのひとつである。このシイラ、ルアーやSWフライでは人気魚種ではあるが、沖釣りファンには歓迎されない風潮はまだまだありそうである。それも、世代が交代すればまたそれもよしとなるのであろうか。それも少し時間が必要なのかもしれない。
魚を上手に殺生するのにもある程度の理屈と技術が必要であるのを伝えるのもまた、別途大変なことなのを時々感じるのであった。リリースするなら、できるだけダメージを与えないでリリースするのが理想だろうし、殺すなら一気に〆る。
生きているうちにその活血を抜く。
そしてその次は、冷やす。
この基本すらままならないのが現実なのは、皆さんが良く知るところであり経験することなのであろうか。そして、釣人のある一定層の中には、魚を釣る事には関心があるが、魚自体には関心のない人も案外多くいる。それは、大変勿体ないなぁ…と思うことしばしばだが、所詮娯楽と言われるとそれでもいいのかもしれない。所詮娯楽かぁ。この言葉が悲しく聞こえるのは私だけだろうか。寂しい海洋国家の成れの果てなのか、どうなのかやはり凡人にはわからない。
-そのまま秋から冬へと移り行く季節-
それから僅かな間が過ぎたと思ったが
それからまた暫くの間が過ぎた。
全く持って筆は進まず、何ともしがたいうちに、あっと言う間に秋が訪れ、ヒグラシだった頃から鈴虫が鳴くようになった。いい感じの秋だなと思う頃、台風18号と19号の恐怖が訪れた。あれほど、今年も秋刀魚が南下しないと言っていた報道も、10月に入ると普通に見られるようになった。昨今秋刀魚はサイズによってコンピュータ-選別されてしまう。義母は、この頃にもなると秋刀魚が40円だったとか50円だったとかと言う話をするのであるが、もうそれもネタ詰まりなのかどうなのかそう言わなくなった。
一方釣りの方はと言うと、お客さんからちょくちょく良い話を耳にするが、当の本人は、腰はますます重きにて出不精である。勿論釣りに行かなければ結果もないのは当たり前であるがその心は、動かない。
そんな10月も後半にさしかかった頃、珍しい来客があった。
U氏とU氏なのでU2なのか。
「今鹿児島空港なのですが、今からそちらに行っていいですか?」
と言う何とも朝一からカウンターパンチでもくらったように面喰った。しかし、思えば国内での事でもあり、今は簡単にアクセスできるようになったので普通と言えば普通なのかと考え直した。
彼らのリクエストで今何故か流行のタンタンメンを3人して汗かきながら、時々噎せてしまう。時の経つのも早いもので、早々に話しが締めきりのように終わってしまうのであったが、それはそれで良しとしようではないか。なんとも、魅力的な2人であったが、今一度私自身も、もっと頑張らなくてはならないのではないかとさえ思えた。U氏は、淡々とクールにお話ししていたが、いざ魚とのファイトとなるとその気の熱が加速されていった。私と同じスロースターターなのかもしれないと思ったが、その話には実践で叩きあげられた説得力があった。ここら辺は、釣り人共通なのかもしれない。このダブルU氏の両名は、同じ匂いのする気の持ち主なのであろう。このような、アングラーがまだ居たことに少し安堵した秋の終わりであったが。
そうこうするうちに11月になったと言うのに台風20号が接近した。
さて、本題に戻らなくてはならないですね。既に新年になってしまいましたが。