儚き偶像の行方2011-Ⅰ-22019年03月13日 17:30

春になり、花粉ピークの中
鶯が鳴いていました。
まだ若いのでしょう。
鳴き声は、あのフレーズを完璧にはまだ演奏できていないようです。

それではその2になります。

過去の記憶と幻影
Past memory and vision

イシナギその2

今(2011年)から遡る事14年も15年も前の事であったと思う。

当時は、まだとある企業にて釣竿の製造とやらを必死でこなしていた頃であった。
所謂しがない製造業である。

ブラックと言う言葉はまだ無かった。

昭和の遺産と言うか、それが当たり前だった頃の名残が少しちらほらと散在している頃の事だった。
しかも、当時の現実は、殆どがアジアをはじめとする海外製品が圧倒的多数を占める時代の真っただ中であった。
(
その後の2011年現在はますます拍車がかかってしまったが)
働いても、働いても区切りはつかず、残業また残業の毎日それでも終わる事はなかった。
夜中まで働いたりしたが、またその朝には出勤する。
それが当たり前の毎日。

定時で帰宅するのには、許可が必要であり、なぜかうしろめたさを感じながら帰宅したものである。
 他業種でもそのような事は多々あったかもしれない。
そのような仕事の毎日、その合間を縫うようにして計画した事があった。
所詮それも、釣りではあるが。
 その当時は、現代(2011年)のようにまだジギングという釣り方が細分化していなく、バーチカルジギング、ジギングとそう単に呼ばれていたように記憶する。
もちろん、磯や丘からジグ゙を投げてはいたけれど、ショアジギなんて言葉は当然無かった。
ショアジギという以上は、他のルアーは投げてはならないのであろうか?
 実釣に於いてそんな事は、そうはないと思ったりする。
ジギングがまだ始まったばかりのジャンルで模索していた頃であるが、当時の対象魚のメインは、カンパチやヒラマサであったりして、深場の大型カンパチやイソマグロ狙いは更にDeep Jiggingとか言われていた。
ライトクラスは当然あったが、ライトでハマチ(9㎏未満)と現代のようにBay jigging とかLight jiggingとかがジギングのメインとは区別してはいなかったように記憶している。
昨今では聞くところによると、船頭さんのリップサービスもあってか7kgでもブリと呼ばれる事もあるらしい。
"
何故聞いた話なのか?"
と聞かれれば、直接でないのという事なのだがその理由は、己自身の釣りでは決してこのクラスを恐れ多くも鰤とは呼ばないからである。
現代では、サバやサゴシ、イナダメインとかタチウオとかがジギングのメインらしい・・・と聞いた。

 それは、うちの長男がまだ保育園の頃だか入学前だったか、先輩の話に返事一つで乗り込んだ日本海の船だった。
そんなジギング黎明期であったが当時最強のスタンダップスピンロッドの30Lbクラスと50Lbクラスを引っ提げてトライしたあの初夏であった。
(現在では余計に市場で見なくなってしまったが)
 300gジグをボトム中心に攻めていた時、反対の弦にていきなりConventional(両軸)の方に掛って伸されて固まっている仲間の姿を目撃して空かさず
「それ、それ!魚だよ!!
と叫んだものの、彼は何も出来なかった。
血相を買いてのその形相は、おっかなびっくりと言う表情だった。

残念であった。
なにせ本当に奴がかかるとは思っていなかったし、その魚体からくるパワーは想定外規格だったに違いなかったからだった。
 しかし、話はそれで終わらなかった。
今度は、その当時最強のスタンダップスピンタックルにメタルジグ゙300gをボトムに入れる後輩の姿が視界に入った。
着底と同時にリールベイルを戻しジャーク。(しゃくる)
何度か繰り返して底取りしてはジャークを繰り返した後輩Mに一気に伸し込むようなアタリ。
「きっ!ぃ、キタ!!
それからMの戦いは始まった
何度も激しい引きに耐えながら腰のバネとバランスで耐えているその姿に皆でサポートに入った。
一体この先にはどれくらいの魚が掛かっているのであろうか?
完全スタンダップスタイルを貫く。
先輩の弓削氏がサポートに入っている私に、

「おい、ドラグもっと締めてみて。」

と指示した。

「もうこれ以上締められないよ!」

目一杯に締め込んだPENN8500SS だったか9500SS は、もう限界ロック状態であった。
PE
もこれ以上伸びないくらいに、キンキンに張った弦のようになっていた。
10
分が過ぎ、20分が過ぎた。

それでも奴は弱らなかった。
全員の励ましにも関わらす30分が過ぎた頃、Mは弱音を吐くようになった。
それもそうだろう。
 魚の方は底知れぬパワーに満ちて?いた。
「痺れてもう手が動かない!!
それから彼は、弱音をたびたび吐くようになっていた。
それまでの過去に彼は、2030kgのサットウ(アブラソコムツ)もなんのためらいもなくサッサと上げ、ブリもこのタックルで糸もほとんど出ない状態でサッサと上げてしまう彼ではあったが今回は、少し事情が違うようだ。
 しかし、35分がとっくに過ぎた頃、魚が浮き始めた。

流石に若いし、農業と急坂な山道を通学で鍛えただけはある。
(哲の実家は、ものすごい山奥にあって、これがなかなか大変な山道であった。ほぼアルプス小屋か?と思ったほどだった。)

「今だ!!!ガンガン上げろ!」
すこし間が空いたが何度かポンピングしてリールインして行く。
10m
位は回収しただろうか?
皆がそこで浮いてくると思った。

弱音こそ吐いてはいるが、よく頑張っている。
しかし、それは甘かった。
奴は突如反転し、一気にまた底へと戻り始めたのである。
ロック状態に近いリールにも関わらず糸は出て行った。
ふっと突然軽くなった。
ラインブレイク。

PENNZ&SS

「ああ・・良かった!切れてホッとした!」

彼の第一声は、魚が逃げてしまった事よりも、寧ろ不安と限界からの解放が一番の祝福だったかもしれない。
それから、その企画の2度目はあったが不発というよりは、いつのまにか他の釣りに変わってしまった事もあり、ロッドがひん曲がる事は、二度と無かった。
 哲は、それから何年かすると釣りから遠ざかり、さらに数年が過ぎた。

今は他の事で頭が満タンみたいである。
それから時は更に流れて、土佐沖、鳥羽沖、金洲沖、駿河湾、どれも完敗に終わったのである。

(それから既に10年以上も経ち、スピニングリールの性能は格段に良くなった。)
 そんな、イシナギ釣りも、姿を見ぬまま皆行きたいと言う仲間が少なくなっていった。

一度、減ってくると、そのままフェードアウトと言うパターンが多いのは世の常であるならば、もう再びその場に立つことも無くなるのかな?

そう思った。

706Z

更にそれから時が経って30kgオーバーをやっと1本釣ったのが2002年の七夕の日であった。

その日も30℃をゆうに超えて熱い夏であった。
蒸し暑い盛りで、イカ釣りに苦戦し、実釣時間はわずか2時間。
そんな中でのアタリ(バイト)であった。
 一流し目の投入後、しばらく経ってからの前アタリであった。
2バイトのうちやってはいけない"早合わせ"をして、1本は見事にすっぽ抜けたのであった。

PENN 710Z  パワードラグ


長い道のりではあったが、その間それだけを狙っていたのでもなく、休眠中も他の魚を追っかけながらと、同時進行していたので純粋に"毎年ある程度の熱入れ度"の挑戦では無かった。
それでも、1サイクル以上も時は過ぎてしまった。
この10年間というものは、あっと言う間に過ぎて行ったのである。
更にそれは加速して
きそうで、人生がものすごく短いと感じるようになり始めた頃であった。


TORQUE5-1

PENN TORQUE5 同社唯一のUSA製スピニングリール。

その後の2019年現在は、TOUQUEⅡシリーズに変わった。

その3職人魂につづく