その後の守破離2021年06月29日 20:30

その後の守破離

夢の釣竿とは

時は過ぎ、去りゆく過去にすがらない

それが“離”への道なのか

1980年代のロッド

時が流れて2021年になり、独立した2002年時から既に19年が過ぎ20年目に突入しようとしています。一重に20年と申しましても、近年の時勢の変化は目まぐるしく、ついて行く事もままならないそんな20年間の出来事でした。そんな中当方の竿は、月竿とかMOON RODとか言われる様になりました。最初に掲げた守破離は、古い日本語です。その理屈などどうでもよい方も多いことでしょう。デジタルが師匠である現代には“見習いから”と言う事もないままに自分がその流派、派閥の長に名乗りを上げられる事もいとも簡単になりました。我流は、我流な筈で決して良い意味では語られない筈なのに、我流を多様性と言う事に置き換えてしまったのではないかと思ったりしてみる事もあります。

「死ななければ負けではない」

嘗ては私も高校生の頃が当然ありましたが、多感な時に学んだ宗道臣先生がおっしゃった言葉です。生死を掛けた戦いをされて来た方が、悟る境地であると思います。現在でも死ななければ負けではない、を実践できればと思います。

これから更に10年先となると2031年ですので私の良き師匠は、誰もこの世には存在しなくなるかもしれません。それでも守破離の道は捨てないで行きたいと思います。時々思うこの先“離”が訪れるまで、ぶれない芯を持つ事ができるだろうか。そう思うと夜も寝られなくなるくらい考えてしまいます。 そして、そろそろ弟子も育てなくてはならないとも感じながらも今に至っております。

弟子には、技術や性能を語る前に人の道が説ける程の人間になってみたいなどと思ったりもしますが、今のところいやこの先も凡人()が言えた立場ではないし、そのような庶民風情の言う事を聞くほど世の中は平和も余裕もなさそうです。

私のような職人風情がそう思ったりするほど、荒廃している世の中なのかもしれません。

それでは、月竿を宜しくお願い致します。

私の守破離(2002年当時)

友人達の指摘をうけて

NY自由の女神

2004年頃のNY自由の女神前で

その先にはストライパーがいる

竿は、亡き師匠の設計である

まだ若かった頃の筆者

 日本人の美徳は決しておごらない、高ぶらない、謙虚で、自分を自慢しない、そう思って今日までやってまいりました。地道と感謝を自分に言い聞かせ、足らないながら精進してまいりましだが、何分短気で角もあり、縁の切れた友人も数しれず、思いはつきません。また、威張って得したことなど、日本ではありませんでした。アメリカでは、はったりをかます自己アピールは当然ですが。

呉と言う土地柄

少年と呉

昭和45年頃の呉の街と私

 私は呉の海辺に生まれ3歳の頃から釣りを始め、野口英世や北里柴三郎のような立派な学者になるのが小学生からの夢でした。サーフ小僧だった私の釣りの相手はシロギス、マコガレイ、イシガレイ、アイナメ、クジメ、アナゴ,イシモチなどでした。この頃の釣り夢は呉にはいないイワナやヤマメ、アマゴでした。

 中学の頃、まだまだマイナーだったルアー釣りとか言っていた時代のその釣を初め、この頃舶来ルアーをなけなしの小遣いで月に一個ほど購入するのがやっとでした。(舶来品なんて死語ですね)この釣りに傾倒し始めたのは、友人の「そがーなルアーみたいなおもちゃで魚が喰うか!」と言われたことや、父親の「そがいな釣れもへん訳のわからんもん集めるより勉強せぇ!」の一言でした。

 この頃の私の取り巻くルアーを用いた釣りへの偏見は、今現在とは比較にならないほど強烈でした。また、当時釣れるとされたバスはまだまだ今の様にあちこちにギャング放流されておらず、現在の状況とは若干異なっておりました。その後父親は、実弟がヘドンタイニーダッドで釣った35㎝位のバスを見てからあまりルアーを馬鹿にしなくなりました。今でも当時父がとても驚いていたことを思い出します。この頃から折れた竿の改造など遊びでやっておりました。それでアイナメなどのブラクリ釣りなどやっていました。(当然ルアーで釣りたくてマンズのジェリーワームを切り刻んだりして使っていました)

 1980年代の学生時代は、東北の渓流で鱒属を追っかけ、オカッパリでアイナメやクロソイをミスターツイスターのキラーシャド(当時バス用のプラスチックシャッド)で投げまくり、当時まだまだ超マイナーだった海のソフトルアーなどやっていました。このときのアイナメのマイレコードは防波堤で釣った462.6㎏でした。(東北では別に珍しくもないですが)

 その後は、スズキなるものや目の赤い魚をおっかけたり、鉛の塊をしゃくったり(これまた大好きでした)、泳がせたり、近年まで、釣物の価値がなかなか認められなかった、海のドラド釣にポッパーで投げまくったり、深海のドーベルマンとか(4人で50匹、1030㎏という事も過去にありました。)何とか鱒とか、本流ハードロックの王様2.5㎏とか…。縦縞のスズキ(これは釣りまくりました)とか釣らせてもらったニベの怪物とかまだまだ炭火のように中々つり熱はくすぶって消えません。魚達は私の心をまだ掴んでくれているようです。 

倉橋島(旧長門島)

 もともと、私の先祖は江戸時代まで倉橋島の多賀谷氏城下で鍛冶職人をしておりました。職人気質は血筋でしょうか?2021年現在は安芸郡から呉市倉橋町となっています。父が子供の頃まで、本浦という町の海岸線に居を構えていました。父の母は、そこで「ひらのや」という食堂をしていました。戦後は叔母がひらのやを継いで、川原石で同じく「ひらのや」を経営しておりました。それももう昭和の時代のことです。

         職人気質 Craftsmanship

 かつて私は、某量産釣竿製作メーカーにて丸6年間以上に渡り、何千、何万と言う釣竿を組み上げ、出荷、検品、企画までやって、更に毎日何十本というOEM並びに特注品まで、死に物狂いでこなしてきました。残念ながら作業環境はとてもいいとは言えず、決して環境のいい仕事とは言えませんでした。また、釣りは単なる道楽(ある面その通り)、釣りでは休暇や時間をとることは事実上禁止でした。今現在(2021)では、それをブラック企業と言うらしいです。昭和の時代にもし当時からそのような言葉があったとすれば、真っ黒とは言い切れませんがより多数の企業がこれに入ってしまうということは誰もが思うことかもしれません。当時の地域柄、直ぐに思い出すのは、野麦峠であったり、姥捨て山であったりしました。特に子供の頃に見た「あゝ野麦峠」は強烈に脳裏に焼き付いています。そんな労働環境やそのストーリー通りであれば、生き地獄であり、人権など存在していないようです。その映画も、学校で皆が見たことは忘れません。それは、小学生の私にとって「はだしのゲン」に次ぐほどのインパクトでした。

釣具とはいえ、所詮量産品。

 職人魂など伝わらず、どんな方が使ってくれるのかも分からず、人が楽しむ道具なのに当たり前のことですが気になるのは、コストダウンと経費削減、売上のみで言葉だけのハイテク、最先端でした。当然ながら工員さんたちにとっては、日銭稼ぎの商品がたまたま釣竿だった、それだけでした。また、単なる派手な側面だけで入社した若者達はあっと言う間に春蝉の抜け殻のようになってしましました。春蝉の抜け殻を触ったことがある人は、容易に想像がつくかも知れませんが、昔の人は良く言ったものです。

時には、新入社員の彼らに小学校中学年程度の簡単な読み書きや地理、英単語、算数を教えることもありまし、有給休暇取得書類をオールひらがなで提出した部下もいました。挨拶ができなくて、何度も社長から「挨拶はちゃんとしろ」と言われた若者もいました。開いた口が塞がらないとはこのことでした。それもこれも何もかもが昭和の闇がずっと先に見えていた気にもなったものです。

今思えば、そんな過去もありながらもとても懐かしい気になったりします。

きっと令和の時代には、そんな闇は、多少なりとも明るくなっていることを期待して止みません。時代と共にこの項は、またアップすることがあればしてみたいと思います。

心の刀とは

 心を失った道具など武士の刀でもありませんし、釣師の命でもありません。見てくれはかっこよくても魂を失った抜け殻ではないでしょうか。それなら多少派手派手しい宣伝やデザインでなくても、温かみのある道具を作りたかった。故に私は、今までの位置と安定を捨てて今までとは違う路を選びました。勿論、大手一流メーカー品を選ぶことは、無難で、確実で、安定安心を約束してくれるかもしれません。またそれに釣師本人が思い入れを吹き込み生かす事もできます。そういう面では生かすも殺すも道具の持ち主、オーナー次第と思います。量産メーカーに真っ向から勝負する気はもうとうありませんし20年経った今となると余計に身の丈にありなさいということが身に沁みます。

「釣竿工房月の釣竿をぜひあなたの右腕にしてください」という言葉は、創業当時から変わりません。 当時もそう申しましたが、私が単なる思い付きや、にわかビルダー上がりでない事が少しお分かりいただけましたら幸いです。

 あくまでも魂があってのモノ。それがお分かりいただけたら幸いです。

二千二年六月四日

釣竿職人 平野 元紀

20216月吉日加筆

おまけの(その後の守破離補足)

KENCOR ROD

1967年から1980年代を主に呉の街で過ごした人生も、かなり過去の出来事で、30数年も経てば様相も変わりました。あの、とてもきつい呉弁を話す人もいなくなり、大正生まれの祖母が使っていた本当のネイティブな言葉は、まるっきり聞かなくなったようです。懐かしい警固屋の釣り場は、埋め立てられて団地になっていました。桧垣のおばさんの釣り具店はもう無く、代わりに大型量販店になっていました。SHIMANOのリールがまだまだ他社に比べて今一だった頃でしたが、その桧垣釣具の奥にガラスケースに入っていました。景気もとてもいい感じでひっきりなしにお客さんが来ていたようです。

1980年代その2

 多くの地方の方言と言う親しい言葉は、薄れていき学校教育の賜物と言うべき標準語化されています。街並みも、ローカルな店舗も姿を消していきました。安くて美味しかった呉トビキリサイダーは、もうありません。今後の復活を願うところす。そう思うと私自身がもう過去の人なのかと思ったりしますが、それは私の昭和という時代だけなのかもしれません。未来はまだあるのかもしれないそんな、先祖代々のこの土地であるにもかかわらず、まるっきり他人な街になったようにも思えたのでした。

Kencor1980

 そんな、昭和50年代呉の街にわずか数年だけルアー専門店があっただけでもそこは天国か楽園だったのかもしれないと思います。それが、ルアー釣りと言う当時は超マイナーだった私の心を掴んで離さなかったのはどうやら事実のようです。

1980年代のロッド

KENCORの6角グラスブランクは、レアでした。

KENCOR ROD GRIP

:Kenny先生の形見である

KENCOR Tenlew Magnaglas OG2

:かつて最も全米で売れていたとされるShakespeare社のロッド

いまだ残念に思う事は、当時の子供達だけでは、その店の基盤を支える事が極めて困難だった事です。その一人が私でした。時代が早すぎたかもしれないし、需要にあっていないことは事実だったのでしょう。またそのオーナーは、釣りは全く関心がなくて、ダイバーだったと記憶しており、事務兼店番のお姉さんが、今日も暇であるとぼやいていた気がします。ご存命であるなら、そのお姉さんもそれなりに御歳を召しておられることでしょう。なにせ40年も前の話ですから。それでも夢なお店でした。竿はKENCORのみかほぼそうでとても、地方の街の釣具店ではあり得ないアンテナショップに近い感じでした。(ヒノウエのレスターファインは取り扱いしていたような気がします)しかしながら、ルアーは、へドンはもちろんなこと、フレッドアーボガスト、オリジナルのボーマー、ワース、トーナメントワームのバラ売り、ヒノウエのコブラ、そしてあのアルファ&クラフトのバルサ50のラインナップであったと思います。広島市内ならいざ知らず、呉の街にはなかなか厳しいながらも豪華なラインナップであったと思います。この話は、Kenny先生にCAの自宅へ訪問した際、直接お伺いしましたが、それはお兄さんがKENCOR HIROSIMAの会社を立ち上げて、その親族だったか甥っ子だったか誰かが呉の店をしていた...と言うことのようでしたがそれも忘れてしまいました。今思えばもっと良くお聞きしておけばよかったと後悔しています。どなたかこのお店の当時を知る方がいらしたらご連絡をお待ちしております。

1980年代その3

また当時の国産ルアーと言えば、コピー一辺倒、しかも使えない、動かない、品質の悪いものでしたが、今や世界の日本製ルアーとも称され、簡単に設計できてしまう時代になりました。しかもそれらは、国外へとその生産拠点を移し流れていきましたが、それがコストという天敵であったようにも思えます。他の工業製品の拠点も既に日本でなくなりましたが、釣具もその中の一つです。世界経済平準化を叫んでもそれは、遠い未来のようです。

“ルアーは紳士の釣である”

と言う言葉も死語であるかのように釣り場は、その様相も変わり、またその残骸も見受けるようになったような気がします。そんな時代もまた、国の釣り人口に比例して今後は衰退して行くのでしょうか。 

だがそれでも、望みは捨てずに行こう。

望みだけは。

ゆめの産物

ゆめよ、どうかさめないで

連絡先0470-77-1680

Mailmoon.fishers@master.email.ne.jp

旧1363-Um9P

さめないで・・・・・・・。

おわり