楽園の終焉Ⅱ2011-後編鉄槌の衝撃-5 ― 2020年05月09日 18:06
希望を持つことは良いことですが、明日への希望は、より改善されていなければならないとも思ったりします。
-右利き左利き-
左ハンドル基本のリール
どちらが利き腕かは動作に於いてとても重要ではあるが
HEDDON社260-R
かつて旧オリムピック社のOEM関係にあった事からこのリールもそうだったと思われる。
余談の余談であるが、本来左利きの私である。
しかしながら、将来のことを思った両親が殆どの生活に必要な基本的事柄を"右利き"で教育して慣らしていった。
よって少年の頃覚えたことは、なんでも右利きで習い、釣りも当然右で習ったので右投げで覚えた。
今となっては大変ありがたいことなのかもしれない。
釣りに関しては両親ではなく、教えてくれた人々が右利きという事もあってと思う。
またルアー釣りなるものは、見たこともなかったので“手返しの良さを追求する”などという発想すらなかったのだ。
本来リールのハンドルは、右利きの場合左巻きが基本であるが、我が国では、発売当初から皆右ハンドルに付いていたのもあり、投げ釣りは右投げ右巻きで習ってしまったし、それが当然であるかと思っていた。
(もちろんフルコピーの時代には、左ハンドル専用機も存在した。)
習うより馴れろ、と良く言われるけれど、お陰さまでリールは右でも左でも特に問題なく使えるようになった。
現在のスピニングリールは、左でも右でもハンドルが付け換えられる構造になっている。
リールは、今現在も店頭に並んでいる時より右ハンドルが基本になっている。
がその後、左に直して右投げ、左巻きにした。
それも右手首を負傷した時をきっかけに、また更に、近年肩と手首を痛めてからロッド操作が難しくなったこともあり、今は少々格好悪いがロッド操作は左となり、リールは右巻きとなっている。
この右投げで右巻きとなると、キャスト後にロッドをわざわざ持ち替えてから操作しなければならないという不格好かつ無駄な動きを作らなければならなくなった。
これも仕方がない事であり、臨機応変という言葉で置き換えるようにした。
今後もおそらくそうなるであろう。
以来私のリールハンドル操作は右から左、左から右、しかし両軸は右と・・・複雑になっている。
時代は、まだインスプールモデルを通常としていた。
1980年代に入りそれは、アウトスプールの時代へと流れてゆくのだった。
あともうひとつ、いつもリールの話題になると出てくる事柄があった。
そう、もうお気づきの方もおられると思うが、ドラグについてである。
スピニングリールの場合、大半が糸の巻いてあるスプールの上端にあるノブが所謂ドラグノブと言われる重要な部品ある。その形状は、三菱型もあれば昨今は円形に2枚ツマミ型等もあったりする。
そこは各社様々なデザインとこだわりがあり同じではない。
しかし、その存在する意味は共通であろう。(一部、ドラグ性能のない機種も存在する。)
この頃の国産リールは、PENNやABU、MITCHELLがそのデザインの基本だったように思えるが中でもフレンチデザインのMITCHELLは、世界で最も売れたリールの一つであったと言う。その歴史もかなり長かった。
その当たり前のドラグという機能は、過去我々は、何の機能か理解していなかった。
取り扱説明書には、確かにドラグ操作の方法は記載されてあったと思うが、釣りの師匠(釣り場で知り合うおじさん達)のお言葉は、次のようなことだった。
「おいボーズ、こりゃあいっぱいにしめとかんといけんどぉ。」であった。
「糸は10号以上巻かんとすぐに切れるけん、そのほうがええぞ。」
ごもっとも。
「まあ、子供じゃけん、8号ぐらいでもええかのぅ。」
そんな昭和の投げ釣りブームの時代だった。
そのような時代とは比較にもならないほどの進化?というべきなのであろうか?確かに道具の性能は格段に上がった。とりわけラインは革命的である。
また2011年の現代では、多くの釣り人の若者がドラグの何たるかを多少なりとも理解している事は時代の進歩と流れを感じた。
他のスポーツもおそらくそうだと思うが、経験値とは裏腹に自己管理によって使える、あるいは動けるパターンは年齢と共にむしろ狭まっていくのであろうか。
釣りにリタイヤは無いと思うが、それでも釣る対象魚は大きく替わる事であろう。
もし40年後も生きて釣りをしている事があれば、ジンタ釣りがせいぜいの体力であろうから、それまでジンタが釣れ続けてほしい、いや未来永劫自然があり続ける事が皆の願いである。
VS社 VM150は、左右どちらでも取り付け可能になっている。
同社初の左右ハンドルモデルと記憶している。
楽園の終焉Ⅱ2011-後編鉄槌の衝撃-楽園から小楽編へ ― 2020年05月20日 16:42
-楽園から小楽園へ-
リアルベイト月カスタム
上から濃紺サンマ、赤金赤、オイカワ、赤、キハダ、ヤマメ
楽園への道のりは遠い。
そのはるか向こうにあるのかないのかさえわからない。
谷口氏の製作するクラフトベイト リアルベイト サンマとウメイロ
時代が大きく流れていても、未だこのデザインと仕上げ、操作性の良さはハンドメイド最高峰の一つだと思う。
それから解散となった。
私とHの二人はあたらなる旅へと向かう。
明日を見据える後輩。
その先は、だれもわからない。
バリの旅も前半を終了し、T氏とI氏に別れを告げた。
同じなかまであっても、たとえ数日であっても少し寂しい気になる。
また日本へ帰れば日常で会うことができるのだが。
そして、また我々は、次の計画を実現するために居残り組となった。
さて、どんな旅なのだろう。
野生が付き立てたその牙の後
重厚なコートも彼らの一瞬の力には勝てない。
打ち込まれたロウニンアジの牙の跡
今でも、その敬意をわすれない。
魚への道のりはどうだろう
どんなことでも簡単なことほど楽なものはない。
しかしながら、楽に可能なことはその達成感が乏しい。
それが人間という特殊な生き物だからなのだろうか。
楽園の終焉-小楽園の幸福2011 ― 2020年05月29日 18:53
楽園の終焉-小楽園の幸福2011
The
end of small paradise
人は力なく伏せる時、僅かな幸福でも何処かにあったらと願う。
それは、世の中が余りにも切ないからであろうか。
何処まで行っても、島を巡っても幸せは落ちてはいなかった。
それでも落ちてそうでまた探しに行った。
楽園は遠い、果てしなく遠い…。
2005年NY、ボートからマンハッタンを望む。
開高健も見たその風景。
NYにも無かったし、泥水のようなハドソン川にも無かった。
西側にあるかもしれないと、西海岸にも行ってみた。
Delaware湾にも無かった。
ストライパーをフェザージグで釣る。
とても綺麗とは言い難いイーストリバー河口には、都会からのあらゆる邪気を吸っていてそうで尚更無かった。
流れてくるのは、都会からの下水が混じったいつまでも濁った水とゴミであった。
ブルーフィッシュ。ルアーでもフライでも、襲い掛かってくる。
東海岸では一般的なゲームフィッシュ。和名はアミキリ。
ダイヤモンドリーフで、新型キャステングロッドを使う。
ギブスのペンシルで釣る。
この日も入れぐいだった。
アミキリの魚影はかなり濃い。
群れで回遊しているのか、開口健はこれを釣るにも苦労したらしい。
寒い結氷寸前の道北の流れにも無かったし、四万十の流れにも無かった。
それどころか旧後川の中下流からは、未処理と思わしき下水が流れ込んでいた。
それでもその浄化作用で幾分水質は保たれていて、今でもブランド名は取りあえず保たれている。
夏の日の四万十下流は、暖かい30℃近い水温の日が続いては台風が来て冷えて、また一週間前後は徐々に澄んで行った。
そのような、蒸し暑い夜の河には、あいつが堂々とその魚体で餌を探しているのであろう。
バリの河川はと言うと、汚水という汚水の全てが流れ込んでいる感じで大雨の後は島全体のゴミと汚物の全てを洗い流れ込む。
そしてそれは海へと流れ込む。
流れ込んだ汚水は海で拡散され、自浄作用のキャパ内にあるらしく、少し沖にでれば碧い海の色であった。
人の邪心や強欲なる欲望もすべてこのように流して浄化してくれれば楽園なのに・・・。
今期間中も昨年もだが、この河川の水は綺麗になることは一度も無かったが、それでも沖は澄んで青かった。
ただ残念な事に、ビニールやプラスチック類は、何時までも漂っていた。
これに関してはその文明の高さの是非にかかわらずその海で見る事になる。
それは、割合流れの早い外房の海も変わらない。
複雑怪奇に絡みあった人間関係と、金と欲の絡んだ利害関係の狭間の午後。
なぜか場違いな場所それは、銀座の新築で綺麗なホテルのロビーで話合った時に感じたのであった。
何故かここは銀座のホテル。
そこは、スーツに身を固めた白人紳士が多かった。
チェックアウト時に、丁度隣部屋の人と同じ時間に出てはち会った。
70前後の老紳士と20代のモデルのような女性の不思議なカップルであった。
その女性は、老紳士よりもはるかに背が高かった。
彼らは、なんとなく気不味い気がしたのか同じエレベーターには乗らなかった。
非常に違和感を覚えたが、それはそれで都会の一部であろうか。
残ったのは、気が吸い取られて干からびかげた義と誠、増大する脱力感と無力感であった。
「こんなホテルバリにもあんの?」
と参考までに忍者に聞いてみた。
「ありますよ。」
なんとも当たり前かのような返事だった。
明らかにこのホテルは、バリイスタマラマホテルよりも星はひとつ上のランクであろう。
そんな、3月の銀座の雨は芯までは冷たくしなかったが心は冷たくした。